第56話 ラスボスの名は狐塚先輩
七月の容赦のない日差しが、部室の机を焦がす。
白のカーテンの透き間からレーザーのように差し込んで、部屋の温度を無闇矢鱈に暑くする。
「今日も暑いですね」
柚木さんが、緑色のプラスチックの下敷きで首元を扇ぐ。
ハンカチで額の汗を拭いながら、窓の外に目を向けている。
「もうすぐ夏休みだからね。暑いのは仕方ないよ」
「そうですけど、この間までそんなに暑くなかったのに、先週くらいから急に暑くなったと思いませんか?」
部室に顔を出した三年生たちも、酷暑にやられてぐったりしている。
一年生も団扇や下敷きで扇いでばっかりいる。
「今月に入って、雨の日が少なくなったせいかな。最近は晴れの日が多いよね」
「そうですね。梅雨はもう明けちゃったんですかね」
「どうなんだろう。Webのニュースを見るかぎりでは、まだ明けてないっぽいけど」
午後の四時をすぎた。部長も先生も、まだ来ていない。
夏休みの合宿について、話し合いたいんだけど、今日はふたりとも休みかな。
「先生たち、来ないですね」
柚木さんも、黒板の右側に掛けてある時計を見ていた。
「今日って、合宿の話し合いをするんですよね」
「そうだよ。まだ何も決めてないからね」
「今週に決めないと、もうすぐ夏休みになっちゃいますよっ。どうするんですかっ?」
「そうしたら、夏休みに学校に来て決めるか、合宿を諦めるしかないね」
合宿には今年も行きたいから、できれば諦めたくない。
「待っているだけだと、時間がもったいないから、文化祭で発表する短編のシナリオでも考えようか」
「はいっ」
机のフックにかけた鞄から、筆記用具とノートを取り出す。
ノートをぱらぱらとめくって頬杖をつく。
今年の文化祭では、どんな小説を書こうか。
去年はミステリー小説をがんばって書いたけど、一般客からの受けはよくなかったんだよな。
三国志が一般の人たちに浸透して久しいし、うちのクラスにも三国志が好きな人は多いから、三国志をネタにしてみようか。
「先輩はどんな小説を書くんですか?」
「さっき、ふと思いついたんだけど、三国志に挑戦してみようかなと思ってるんだよ」
「三国志ですか。先輩らしいですねっ」
柚木さんが、くすくすと笑う。
「ゲームの影響があって、今では三国志を知らない人が少ないからね。マニアックなミステリー小説よりも、いいんじゃないかなって思ったんだよ」
「わたしはマニアックな方ですから、ミステリー小説の方がいいですけどねっ」
「さすが柚木さんだね。小説と言えば、やっぱりミステリーだよね」
「もちろんですよ! 謎が謎を呼ぶ展開こそが、小説の一番楽しいところじゃないですかっ」
「その通り! と、言いたいところだけど、俺や柚木さんの気の向くままに小説を考えたら、一般客はどん引きしちゃうからね。今年はやっぱり三国志にしてみるよ」
「そうなんですか。少し残念で――」
がたん、と重い何かがぶつかる音がして、俺は驚いて顔を上げた。
全開になっている扉を、左手で押さえつけている女子がいた。
右手は腰に当て、胸を張って立ちはだかる姿は、仏閣に設置されている金剛力士の石像みたいだ。
仁王像のように勇壮な彼女は、制服のブレザーを肩にかけていた。
口紅のついていない口には、なぜか爪楊枝が差し込まれている。
中学二年の男子みたいな髪型で、俺の私服を貸したら、男子と見間違えそうだ。
狐塚先輩は、目を怒らせながら文研の部室を見張っている。
少年のような目が俺を捕捉して、
「鏡花はいんのか?」
唐突にそう言った。
きょうかとはなんだろう。肉体でも強化するのかな?
狐塚先輩が、扉の側面をばしばしと叩いた。
「鏡花はいんのかって聞いてるんだよっ!」
「きょうかって、もしかして部長のことですか?」
「当たり前だろうがっ。てめえ、寝ぼけてんのか。てめえは文研の副部長だろ」
狐塚先輩が爪楊枝を床に吐き捨てる。今日も気性が荒いですね。
「部長に何か用ですか?」
「用っていうほどじゃねえよ。文化祭のことで、そろそろ言いつけてやろうと思って、来てやったんだよ」
去年の文化祭で、漫研と文研のどっちが集客数を伸ばせるか、勝負したんだった。
地味な部活同士で張り合っても、だれも注目しないのに、あんな意味のない勝負を今年もやりたいんですね。
「部長は来てないですよ。今日は来ないんじゃないですかね」
「今日も、だろ。あいつ、マジでやる気ねえな」
狐塚先輩が、扉の側面に手をついたまま嘆息する。
「おはようさん、って、あらっ」
二階の廊下から、部長が高杉先生といっしょにやってきた。
「あんた、うちの部に何しに来たん?」
狐塚先輩がくるりと身を翻す。
腕組みして「くっくっく」と、わかりやすい声で笑うと、高杉先生がぎょっとした。
「お前のその、すっとぼけた京都弁は相変わらずだな」
「ほんまに? おおきに」
「褒めてないわっ!」
狐塚先輩がすかさず奇声を発した。人差し指で、部長をびしっと指して、
「今年もっ、お前らに挑戦状を叩きつけにきた! 二学期の文化祭で漫研と文研、どっちの作品が客を集められるか、勝負だっ!」
少年漫画の熱血主人公みたいな声で言い切った。
「はあ。うちは、どっちでもええけど」
部長が返答しかねて俺を見やる。
「むなくん。どないする?」
「俺も、どっちでもいいですよ」
「どっちでもよくないだろ!」
狐塚先輩が、また扉をばしばしと叩いた。
「漫研と文研の行く末をかけた世紀の対決だというのに、なんだその態度はっ。お前ら、やる気あんのか!?」
いや、敗れても文研がなくなるわけではないし、漫研が勝ったところで、名声は得られないのですから、世紀の対決ではないですよ。
「ったく、てめえらは部長と副部長なのによぉ。なんなんだよ、そのなよなよした態度はよ。てめえらを見てっと、腹がむかむかしてくるぜ」
狐塚先輩がスカートのポケットに両手を入れる。
昭和の不良のような歩き方で先生に詰め寄ると、先生が「ひっ!」と悲鳴を上げた。
「先生よぉ、わかってるんだろうな。あんたらが負けたら、今年こそ先生に顧問を辞めてもらうからな」
「えっ、そ、それだけは、勘弁して」
先生の方が年上で偉いはずなのに、まるで、かつあげされているみたいだ。
狐塚先輩が、つかつかと廊下を歩いていく。
隣の漫研の部室の前で足を止めて、また「くっくっく」と笑った。
肩にかけているブレザーを廊下に脱ぎ捨てて、
「今年は、去年とは比べ物にならねえくらいの地獄に突き落としてやんよ。覚悟しとくんだなっ!」
いや、ブレザーを拾わなくていいんですか? 埃がつきますよ。
狐塚先輩は、不良じみているのではなくて、魔王とか、そっち系の中二病をこじらせるんだな。
はっはっは! と高笑いしながら帰っていく狐塚先輩の横顔を眺めて、ああいう先輩にはなりたくないなと思った。




