第50話 柚木さんの好きな人はだれ?
柚木さんに視線を送る。彼女がこくりとうなずいた。
「先生、もうだいじょうぶです。頭をあげてください」
「いや僕はっ、生徒を指導する立場にあるまじき、重大な犯罪行為に手を染めてしまった。本来ならば、こんな簡単に許される問題じゃないんだ!」
「そう言われましても、困りますよっ。先生から、そんなことを言われたら、余計に公表できなくなるじゃないですかっ」
「そうですよ! お願いですから、顔をあげてくださいっ」
柚木さんの必死な言葉で、先生はやっと顔をあげてくれた。
先生の澄ました顔は、悲しさと悔しさでひどくゆがんでいる。
柚木さんが胸に手を当てて、
「先生の出来心は、決して悪いことじゃないです! その、パソコンを壊したのは、よくないことですけど。でも、先生は高杉先生のことが好きで、高杉先生に振り向いてほしいと思っただけなんですから、仕方ないじゃないですか」
緊張しながら話す姿に、木戸先生が見入っている。茫然と口を少し開けたまま。
「好きな人に振り向いてもらえなかったら、なんとかしなきゃって、思っちゃいますよ。わたしだって、先生の立場だったら、その、なんかいい方法はないかなって、きっと考えちゃいますし。ですから、あんまり自分を責めないでほしいんです。
高杉先生と付き合えるかどうかは、わかりませんけど、素敵な人を見つけてほしいです。ですから、その――」
柚木さんが、はっと顔を上げて、あたふたし出した。
顔を林檎のように赤くして、
「すすっ、すみません! わたしなんかが、わかったつもりで、ぺらぺらしゃべったりしてっ。出しゃばる気は、なかったんですっ。よくわからないんですけど、気持ちが、急に込み上げちゃったものですから」
無茶苦茶にうろたえているのが、この上なくおかしかった。
俺は先生と顔を見合わせて、大笑いしてしまった。
「きみも、だれかに恋しているんだね」
「えっ!? そ、そんな、ことは」
「いいや。僕にはわかるよ」
先生がにこっと微笑んで、得意げに指を突き立てる。
「僕も高杉先生に恋しているからね。きみのも、きっと片思いなんだろう?」
「ち、違いますっ! そんなの絶対に違いますよ!」
「必死になってるところが余計に怪しいなあ。なあ、宗形くん」
「そ、そうですね」
柚木さんの好きな人って、だれだ?
胸にぐさりと、抉られたような痛みが走る。鉈のような分厚い刃物で、深々と斬りつけられたようだ。
柚木さんは俺を見て、幽霊でも目撃してしまったような顔になった。
俺たちに背を向けて、
「先生と先輩でからかうんだったら、いいですっ。好きにしてくださいっ!」
「えっ、ちょっと待って!」
柚木さんをからかったのは、先生ひとりだけなのに。
いや、彼女を早く追いかけなければ。
右手にふたつのUSBメモリを持っていることに、はたと気づいた。
追いかける足を止めて、USBメモリを先生へ差し出した。
「先生っ、これ」
「あ、ああ。ありがとう」
先生の気持ちはわかった。
文研に害を与えようという意思がないのだから、これ以上先生を追求したくない。
柚木さんは、早足に屋上から立ち去っていた。人のいない階段を駆け下りていく。
「柚木さん、待ってっ!」
階段の踊り場で、柚木さんは足を止めてくれた。
「急に行かないで。びっくりするからっ」
準備運動もしないで走ったから、ほんのわずかな距離なのに息が少し上がってしまった。
「先生は、柚木さんをからかいたかったわけじゃないから。だから、怒らないで」
彼女の悲しげな背中に近づくと、なんて声をかけたらいいのか、わからなくなってしまう。
柚木さんは、少しだけ振り返ってくれた。
「すみません。先生と話し合ってたのに、場を乱してしまって。わたし、いない方がよかったですよね」
「そんなことないよ。俺ひとりだと、木戸先生を気遣うことができないから、柚木さんの言葉はすごくよかったと思うんだ。先生だって、そう言ってたよ」
先生だって、きっとそう思っているはずだ。
「USBメモリを発見できたのだって、柚木さんが、あのことに気づいてくれたからだったでしょ。柚木さんにサポートしてもらえるから、俺は力を発揮できるんだよ」
柚木さんは、肩を少し俺に向けた状態で聞いていた。
お腹の前で組んでいる手を、もじもじさせて、
「そんなこと、ないですよ。わたしは、別に、思ったことを口にしてるだけですから」
恥ずかしそうにしている仕草が、すごく女の子っぽくて、心がぐっともっていかれそうになる。
柚木さんは、やっぱり可愛い。強く抱きしめたくなる衝動が込み上げる。
だめだ、大事な後輩に襲い掛かるようなことをしてはいけない。
「どんなことでも、言ってくれると助かるよ。俺ひとりじゃあ、手に負えないことが多いから」
「そうなんですか?」
「そうだよ。これからも、文研でいろいろ問題が起こるかもしれないけど、そのときはよろしく頼むよ。部長も先生も、きみを頼りにしてるんだからさ」
こんな人のいない放課後で、なんて青臭いことを口走ってるんだ。
恥ずかしくて、顔をうつむかせるしかなかった。
「はいっ」
柚木さんの曇りのない返事が聞けて、ほっとした。
気持ちが落ち着いて、前に比奈子と交わした約束を思い出した。
「先輩?」
おあつらえ向きと言わんばかりに、この場には生徒や先生がいない。
柚木さんに話を切り出すのは、今しかない。
「あの、さ。話はだいぶ変わるんだけど、今週か来週の土日って、暇?」
「今週か来週の土日、ですか?」
柚木さんが、きょとんと首をかしげる。
「ちょっと空いてたら、どこかに遊びに行きたいなあって、思ってるんだけど」
「遊びに――」
柚木さんがはっと顔色を変えて、スカートのポケットからスマートフォンを取り出す。
右手の人差し指で、画面を忙しく動かして、
「ええと、今週の土曜日は、友達と遊ぶ予定がありますのでっ、日曜日でしたら、だいじょうぶですっ。来週は、ひなちゃんと遊びに行こうって言ってたから、どっちかに予定が入りそうです」
俺に予定を教えてくれた。
「そっか。じゃあ、今週の日曜日がいいかな。悪いんだけど、予定を空けといてくれるかな?」
「はいっ。わかりましたっ」
「柚木さんは、どこか行きたいところはある?」
「わたしは、先輩の行きたいところでいいです」
遊びに誘うことばかりに捉われて、行き先をまったく考えてなかった。
「わかった。場所と時間は後で連絡するから。要望があったら遠慮なく言ってね」
「はいっ」
柚木さんと、すんなり約束を取り付けられるなんて、思ってもいなかった。
日曜日はどこに行こう。




