第44話 今日もさわやかな木戸先生だが
部室を離れて静かな廊下を歩く。
六月の廊下は、夜の病棟のように暗い。
窓から見上げる空は晦冥で、漆黒の雲から雨が沛然と降り注いでいる。
使われていない教室の前で足を止める。
コンピュータウィルスを仕込んだ犯人は、文研の部員のだれなのか。どうして、コンピュータウィルスを仕込んだのか。
文研のパソコンにコンピュータウィルスを仕込んでも、大して意味がない。
文研のパソコンをしきりに使用しているのは、高杉先生だけだ。それも、学校の資料を作成するため。
犯人は、先生の作業を邪魔したいのか?
腕組みして壁にもたれかかる。
ターゲットが先生になる可能性もあるのか。それは盲点だった。
先生は、部室の鍵を何度も閉め忘れてるんだよな。
鍵がたまたま開いているときを狙えば、部外者でも文研の部室へ忍び込むことができる。
そうなれば、犯人を特定するのは困難だ。
待てっ。冷静になって最初から考え直すんだ。文研の部室へ出入りするのは、だれだ。
俺たち文研の部員と、高杉先生と、他には――。
「先輩っ」
いきなり声をかけられて、どきりと胸が押しつぶされそうになった。
驚いて振り返ると、柚木さんがにこにこしながら立っていた。
「なんだ、柚木さんか」
「わたしじゃ嫌だったんですかっ」
まずい。油断して失言が漏れてしまった。
「嘘ですっ。先輩は、こんなところで何してるんですか? 帰りが遅いから心配しました」
「ああ、ごめんね。ちょっと考え事をしてたから」
「先輩も、まだ納得できてないんですか」
「納得できてないというか、ウィルスの仕掛けられたUSBメモリはまだ発見されていないからね」
知らない教室の扉を開ける。教室の中は、カーテンが閉め切られている。
電灯もついていないから、幽霊屋敷のように暗い。
八つの机が等間隔で置かれているのも、気味が悪い。
電灯をつけて中へ入る。柚木さんも後に続いて近くの席に腰かける。
「先生の言う黒いUSBメモリが見つかれば、問題はすべて解決できるんけどね。そのUSBメモリは、どこにいっちゃったんだろう」
「USBメモリの保管庫には入ってなかったですもんね。部員のだれかが持っていっちゃったんですかね」
「それだったら、貸出用紙に名前を書いてくれると思うんだけど、書くのを忘れちゃったのかな」
文研の関係者でUSBメモリを借りているのは先生だけだ。
部員たちでUSBメモリの保管庫を触っている人はいなかった。
「先生は、部室の鍵を閉め忘れることが何度かあったから、部外者が部室へ侵入する可能性があるんだよね。けれど、それを考えはじめてしまうと、だれがそのUSBメモリを持ち込んだのか、わからなくなっちゃうんだ」
「そうですよね。わたしたち以外の人たちも対象になるんですから、だれのせいなのか、わからなくなっちゃいますよね」
「教頭先生からウィルスの感染源を突き止めろと言われたけど、このままだと証拠不十分で原因が特定できなくなっちゃう。それだけは、なんとしても避けたいんだけど、どうしたらいいんだろう」
机に頬杖をつく。いくら考えても、答えが導き出せない。
柚木さんが、悲しげに俺を見つめていた。
「おや、こんなところで何してるんだい?」
教壇側の戸口の近くに木戸先生が立っていた。
有名なスポーツメーカーの白いジャージに身を包み、左手に名簿らしきものを持っている。
「きみは、文研の宗形くんだね」
「はい。お久しぶりです」
「久しぶりじゃないだろう。昨日、職員室で挨拶してくれたじゃないか」
木戸先生は教室へ入りながら、「わっはっは」と豪快に笑った。
昨日のことを覚えてくれてたんだな。
木戸先生が柚木さんへ目を向ける。
「それで、もうひとりのきみは、だれかな」
「この子は、文研の部員の柚木さんです」
柚木さんは人見知りをするのか、不安げに木戸先生を見上げていたが、ぺこりと頭を下げた。
「きみは一年生かい?」
「あ、はい。そうです」
「部活の時間なのに、一年生をこんなところへ呼び出して、何してる――」
そう言いかけて、木戸先生は俺と柚木さんを交互に見比べ出した。
頬を緩めてにんまりして、顎に手を当てて、俺たちを足のつま先から詮索するような感じで、
「ははーん。部活中なのに、みんなに隠れて、こっそり会ってるんだな」
意味不明な言葉を投げかけてきた。
「なんですか、それ。そんなわけないでしょう」
「またまたあ。照れたって無駄だぞ。先生はすべてお見通しだからな。きみたちは付き合ってるんだろう?」
付き合ってる!?
この人は唐突に何を言い出すんだっ。
「ち、違いますよ! なんでそうなるんですか!?」
「そうですよっ。先輩と、つ、つ、付き合ってるだなんて!」
電子レンジで温められた肉まんのように、顔面が火照ってくる。
全身を巡る血液の流れが、急に早くなったような気がして、俺は反射的に立ち上がってしまった。
柚木さんも同じように顔を真っ赤にして、木戸先生の言葉を全力で否定している。
その必死な様子がすごく可愛いけど、同時に悲しくなるのはなぜだろう。
「そんなに否定されると、余計に怪しくなってくるなあ。やっぱり付き合ってるんじゃないかい?」
「もう、いい加減にしてくださいっ!」
「わかったわかった。先生が悪かったよ」
木戸先生は照れる俺たちの様子を一頻り楽しんで、こほんと咳払いした。
「冗談はこのくらいにして、使っていない教室へ勝手に入っちゃいけないよ。学校の備品を置いてる教室も中にはあるからね」
「はい。すみません」
俺は木戸先生へ頭を下げた。




