第40話 柚木さんのノートを借りて
五時を過ぎて、文研の部員たちが退室していく。
加賀谷先輩は、少しでも部長を眺めていたかったのか、部長がいなくなるまで部室に残っていた。
「じゃ、俺もそろそろ帰っか」
加賀谷先輩が、男子生徒よりも三割くらい重そうな身体を持ち上げた。
「先輩。今日はどうもありがとうございました」
「あ? 先輩とか気安く呼ぶんじゃねえよ。お前は、うちの部員じゃねえだろ」
加賀谷先輩が「け」と悪態をつく。
「いいか。お前、調子に乗んなよ。新しい方式を導入するまでは、協力すると言っちまったから、そこまでは手を貸してやるけど、その後で問題が起きても、俺は知らねえからな」
「わかってますよ。分はわきまえているつもりです」
「ほんとかよっ」
「今回の件では、先輩に助けられました。俺たちでは、あんな方式なんて絶対に思いつきませんから」
俺のそばに立っている柚木さんが、小さくうなずく。
加賀谷先輩が、細い目をますます細める。ほぼ黒の横線と化していた。
「け。お前みてえなすかした野郎が、一番信用ならねえんだよ。見え透いた言葉で、おだてようったって無駄だぜ。その手には引っかからねぇ」
「疑り深い人ですね。そんな気はないですって」
「俺はわかってんだよ。いい子ちゃんの面して、俺らをまた利用しようっていうお前の魂胆がな。よく覚えとけよ。次にまた俺らの部に来たときは、ただじゃ置かねえからなっ!」
加賀谷先輩が、ひと差し指で俺の眉間を指す。
先輩からパソコンやコンピュータについて、もっと教えてもらいたかったのに、残念です。
だけど、いくら嫌われても、加賀谷先輩を尊敬する気持ちに変わりはないです。
「あ、部長。忘れものですかっ!?」
「へっ!?」
加賀谷先輩が上ずった声を発する。
くるくるまわる駒のような速度で、後ろの扉へ振り返った。
夕日の差す黄昏時に部員の姿はない。
部室に残っているのは、俺と先輩、そして柚木さんの三人だけだ。
ぴったり閉じられた扉が加賀谷先輩を凝視していた。
加賀谷先輩が、はっと気づいて俺を睨んだ。顔が熟したトマトみたいですよ。
「て、てめえ――」
「加賀谷先輩、文研にまた協力をお願いしますねっ」
俺が朗らかに言うと、柚木さんが堪えきれずに笑った。
* * *
帰宅して、部屋へ続く階段を駆け上がる。扉を手荒く閉めて、机に飛びついた。
鞄からピンク色の大学ノートを取り出す。柚木さんから借りているノートだ。
ノートを机に置いて、表紙を慎重にめくる。
彼女の知られたくない秘密を覗き見するようで、罪悪感を少し感じる。
三十行くらいの線が引かれている紙面には、五ミリくらいの小さな字がびっしりと綴られている。
世界史の授業でつかっているノートなんだろうな。地図や年号が、真ん中に丁寧に書かれている。
文字は丸くてすごく女子っぽい。可愛い字で書くんだなあ。
俺の書く象形文字とは大違いだ。いや、彼女のノートを覗き見している場合じゃない。
ノートを手にとって、ぱらぱらとめくる。
ページの真ん中くらいで筆跡が途切れて、文研の議事録の書かれているページが見つかった。
ノートの左上には、昨日の日付が書かれている。
タイトルも『文研のパソコンについて』と、少し大きめな文字で綴られている。
ノートの一行目に書かれているのは、俺の発言した内容だ。
文研のパソコンの状況と、ランサムウェアの特徴が箇条書きで書かれている。
次に部長の報告した内容がまとめられていて、先生の落ち込んでいる様子までもが事細かに記載されていた。
『悪いのは先生だけじゃない!』って、こんなことまでノートに書かなくてもいいのに。
「さっきから、なに見てんの?」
後ろから肩をつかまれて、心臓がはち切れんばかりに驚いた。
比奈子が頭にタオルを被せて、後ろから柚木さんのノートを覗いている。
比奈子が前のめりになって、ノートに食い入るように見つめる。
あまり育っていない胸が、背中にばっちり当たっているぞ。
「あ、これ。ことちゃんの! なんで、にいが持ってるの?」
「文研で話し合った内容を、柚木さんにまとめてもらったから、柚木さんに頼んで借りたんだよ」
「ほんとだっ。文研のパソコンについてって、書いてある」
比奈子が俺から手を離した。
「文研のパソコンが壊れちゃったんだっけ? にいも大変だねぇ」
「そうなんだよ。だから、今日中に対策案をまとめて、教頭先生に報告書を提出しないといけないんだよ」
「それで、ことちゃんに書記になってもらったんだ」
比奈子がノートを見ながら「うんうん」とうなずいた。
「ことちゃんって、やっぱり真面目だよねぇ。すんごい丁寧に書いてあるし」
「だよな。話し合った内容が全部書いてあるから助かるよ」
「ふうん」
比奈子はくるりと踵を返した。タオルが床に落ちる。
「ま、いいや。それより僕と交わした約束をちゃんと覚えてるでしょうね」
「約束?」
文研のパソコンの相談をする代わりに、柚木さんを遊びに誘うという約束のことか。
比奈子が俺の首を絞めてくる。
「言っとくけど、忘れただなんて、絶対に言わせないからね」
「わかってるよ。頃合いを見て、柚木さんに提案してみるよ」
比奈子が腕の力を少し緩める。
「俺は提案してみるだけだからな。柚木さんに断られたら、約束はそれで終わりだからな」
「わかってるわよ。いちいち言わないでよ」
「報告書を今日中に書かないと、マジでやばいんだからな。だから、邪魔するなよ」
「邪魔なんて、してないでしょ。ばかにいっ」
比奈子が、「ふん」とそっぽを向いた。
「邪魔ものは消えればいいんでしょ。じゃ、勉強がんばってねー」
「待て。お前、タオル――」
比奈子はタオルが落ちたことに気づかず、素っ気なく部屋を出ていった。




