第33話 へとへとの宗形と妄想する比奈子
先生の汚部屋――じゃなかった。意外に高級そうだったマンションを後にする。
スマートフォンの時計を見ると、夜の九時をすぎていた。
「先輩、帰りますよっ」
柚木さんが部長の身体を支える。
「だいじょうぶ? 重くない?」
「だいじょうぶ、ですっ」
柚木さんは、かなり辛そうにしてるけど。
「むな、くん。女子に、重たいなんて、言うちゃ、あかん」
「山科先輩、ちゃんと歩いてくださいよ。うちに帰れなくなりますよっ」
「堪忍して、おくれやすぅ」
柚木さんに叱咤されて、部長が泣く泣く足を動かす。
マンションを出て、来た道をそのまま戻るようにして歩く。街灯の少ない、住宅街の間を縫うような夜道だ。
S字の曲がりくねった坂道を降りる。
湿り気のある夜風が吹いて、首筋のあたりをもわっと薙いだ。
「せ、先輩っ」
後ろから、柚木さんの悲鳴に似た声が聞こえた。
部長を抱えて歩く彼女は、今にもへばりそうだ。
「待って、ください。その、速い、です」
「だから言ったんだよ。部長は俺が運ぶからって。替わるから、無理しないで」
「だいじょうぶ、ですっ。なんとか、部長を、駅まで」
柚木さんは、息を切らせながら足を前に出す。
一歩、もう一歩と、重たい足を引き摺りながら歩いてくるけど、俺のそばまで来て、疲れ果ててしまった。
もう見ていられない。部長の両脇を抑えて、身体を持ち上げた。
「あっ、先輩」
「やっぱり俺が部長を連れてくよ」
「でも、そんな」
「部長の腕を離して。ふたりで運ぶのは、却って効率が悪いから」
柚木さんは悔しそうな、それでいて悲しんでいるような、複雑な表情で部長の腕を離した。
「あ、むなくんやわぁ」
耳元で部長のか弱い声が聞こえた。
「早く帰らないといけないんですから、変なちょっかいを出さないでくださいよ」
「へえ、どないしよかな」
部長の吐息が漏れた直後、左の脇腹にくすぐったい感触が伝わった。
「部長。本気で置いていきますよっ」
「やあん。うちを独りにせいでぇ」
相手が俺だとわかったから、部長が途端にふざけだした。
「部長。無駄に力を込めないでください」
「力なんて、込めてへん、よぅ。おほ、ほほ」
いや、絶対に力を込めてるでしょ。この人は。
「先輩っ。山科先輩の鞄を持ちます」
柚木さんが寄り添って気を配ってくれる。
「いいよ。俺のことは気にしないで平気だから」
「で、でもっ」
「そろそろ駅に着くから、柚木さんは楽にしてなよ。今日はもう疲れてるでしょ」
「はい」
薄暗い上り坂と下り坂を繰り返して、やっと稲田山公園の駅へ到着した。部長に鞄を渡した。
「むなくんに柚木はん。ほんまにおおきに」
「おおきにじゃないですよ。起きてるんだったら、自分で歩いてくださいよっ」
「起きてへんどしたよ。さいぜん目が覚めたんよ。おほほほほ」
部長が小指を立てて笑った。
「じゃあ、柚木さん。部長を衣沢まで送っていってあげてね」
「はい。まかせてください」
「部長。巴山までちゃんと帰ってくださいよ」
「そないに気にせんでも、ちゃんと帰るわよぅ。むなくんってば、心配性ねぇ」
ふたりが駅に入るまで見送って、俺も帰路に着く。
巴山警察署や高校のそばを通って、車がびゅんびゅんと走る緩い坂道をひたすら歩く。
自宅へ着いたのは、十時の五分前だった。二階へあがり、自分のベッドに倒れ込む。
「あ、にいが帰ってきてる」
足のつま先の方角から比奈子の声がする。
「ことちゃんから聞いたよ。なんか大変だったんだってねぇ」
「ああ、そうだよ」
柚木さんが比奈子に伝えてくれていたのか。
「で、で!? どうだったの? あいり先生のおうちはっ!」
比奈子のお尻が、俺の鼻先にどすんと落ちる。
右手を突いて上体を屈めているのか、彼女の濡れた髪が俺の顔に乗っかった。
「どうもこうもないぞ。お前はもう部屋へ戻ってくれ」
「ええっ、いいじゃん。あいり先生と何してたのか教えてよぅ」
比奈子が俺の肩を揺すってくる。
「ねえねえ。早く教えなさいよぅ」
「むがっ、っていうか、髪……」
「えっ、髪を触ったりしてたの? なにそれ、どんなシチュエーション!?」
比奈子が身体を起こして、もぞもぞし出した。風呂上りの乾かしていない髪をくっつけるな。
両手をベッドについて、這いつくばるようにして身体を起こした。
「柚木さんや部長といっしょに話し合いをしてたんだから、それ以上のことがあるわけないだろ。何を妄想してるんだっ」
「なにって、そりゃ、にいとあいり先生が、いちゃいちゃしてるところだけど?」
あられもないことを真顔で言い返すな。
「俺と先生がいちゃいちゃするわけないだろ。大体、歳がいくつ離れてると思ってるんだ」
「年齢なんて関係ないわよ。恋愛は非現実的で危なっかしい方が盛り上がるんだからっ」
そうなのか? 恋人のいない俺には理解できないぞ。
「教師と先生の、ああ。許されざる恋。学校ものって言ったら、普通は男の教師と女子生徒のカップルばっかりだけど、性別をあえて逆にするのも乙だよね。あいり先生の巧みな技で、為されるがまま翻弄されるにい。制服のボタンが、ひとつ、またひとつとはずされて、逞しいけれど幼さの残るその身体を抱き――」
比奈子は天井を見上げて、両手をにぎりしめて妄想に浸っている。
突っ込みたいところは山ほどあるけど、いろいろと面倒だから、そっとしておいておこう。




