第161話 思いを、文章に
先生の優しい言葉に、背中を強く押された。
今のこの思いを柚木さんに伝えよう。
自宅に帰って、ノートパソコンを素早く起動する。
自分の気持ちを小説に込めて、彼女に読んでもらう。
俺が考えた最善の方法は、これだ。
俺はしゃべるのが得意じゃない。だから、口で伝えようとすると、この前みたいに失敗してしまう。
なので、小説に自分の気持ちを込める。それを読んでもらう。
小説を書いたところで、柚木さんは小説を読んでくれないかもしれないが、それなら、どうしようもない。
――あのとき告白して、もしうまく行ってたら、って考えたら、すっごく損だなって思うでしょ?
柚木さんは、俺のことをまだ考えてくれている。それにかけてみるしかない。
テキストエディタを起動して、物語を紡いでいく。タイトルなんて、どうでもいい。
主人公の設定も、ヒロインの設定を練る必要もない。
物語も、ヒロインが入学したときからはじめていけばいい。
ヒロインが文研――部活の名前は、文芸部に変えておくか。文芸部に入部して、活動の様子をまずは書いていく。
彼女が常にそばにいて、どきどきしている主人公の心情を踏まえながら。
そういえば、ゴールデンウィークに比奈子と三人で、岩袋に遊びに行ったっけ。
あのときも、途中から彼女とふたりきりになって、背中が汗ばむほど緊張したんだ。
そんな様子も、素直に書いていこう。
執筆が、どんどん進んでいく。
設定も、物語もすべて決まっている。あとは、ひたすら文章に起こしていくだけ。
頭から溢れる文章を、まるで模写するようにテキストエディタに書き込んでいく。
執筆がこんなに捗るのは初めてだ。夏休みに執筆したときは、千文字を書くのに何日もかかったのに。
第三話くらいで夏休みのイベントを書き終えた頃、
「にいっ。入るよ」
部屋の扉をノックして、比奈子が入ってきた。
「にい。あ、パソコンやってたんだ」
「なんか用か?」
「うん。お母さんがさっきから呼んでるんだけど。ごはん食べないの?」
ごはん? はっと部屋の壁掛け時計を見やる。
気づけば午後の七時に差し掛かろうとしていた。空もすっかり紺色に染まっている。
しゃべっている間も、文章が頭からどんどん溢れている。執筆を止めたくない。
「ごはんは食べない。そう言ってきてくれ」
「うん。わかった」
比奈子は神妙な面持ちで部屋を出ていった。
比奈子は、あれから人が変わったようにおとなしくなったな。
あいつのことは心配だが、それなら、なおのこと、執筆を止めるべきではないはずだ。
第三話まで書いたから、次は第四話か。そろそろ物語の核心に迫ろう。
俺が迷っている間に、彼女が離れていく描写を書く。胸が張りつめて苦しくなる。
こんな小説を読んだら、なんて感じるんだろうか。普通に気持ち悪くて、より一層軽蔑されるんじゃないか?
そう思うと、この作戦は失敗なんじゃないかと、また迷ってしまう。
否! これ以上軽蔑されることはないのだから、気持ち悪がられようが、どうだっていいじゃないか。
どう思われてもいいから、この小説を書き切るんだ。
扉がまたノックされて、俺はまた現実へ引き戻された。
「ひなか?」
「うん」
あいつが二回も部屋に来るなんて、珍しいな。
部屋へ入ってきた比奈子は、夕食を乗せたトレイを持っていた。
もしかして、俺のために夕食を運んできてくれたのか?
「ごはんを食べないのは、身体に悪いからって、お母さんが」
比奈子が恥ずかしそうに言う。
母さんの言いつけで持ってきたのか。それでも俺は嬉しいぞ。
「そうか。ありがとう」
比奈子は所在なげにうつむいて、
「よくわかんないけど、がんばってね」
足早に部屋を出ていった。
部屋のテーブルにトレイごと置かれた食事は、親子丼とサラダ。そして、あさりの味噌汁だった。
箸のそばには銀色のスプーンまで用意されている。
比奈子、すまんな。
ノートパソコンのキーボードから手を離して、親子丼を左手で抱える。
ご飯の暖かさが丼の底から伝わってくる。親子丼から発せられる湯気も食欲をそそる。
銀色のスプーンを手に取って、親子丼を掻き込んだ。
卵のふわっと柔らかい生地と、鶏肉の食べ応えのある味わいが口いっぱいに広がる。
「おいしい」
ドレッシングのかかったサラダも食べて、熱い味噌汁を飲み込んだ。あまりの熱さに、口の中を火傷してしまった。
食事はいらないと比奈子に豪語したのに、食べはじめると箸が止まらない。
こんなにもお腹が空いていたのかと気づかされた。
おいしい夕食をすべて食べ切って、すぐに執筆を再開させる。
有栖川のことや、村田のことも小説に反映させていく。もちろん、名前は変えて。
今まで起きてきたことを、小説を介して時系列に書き込んでいくと、柚木さんに嫌われるまで、いくつもの地雷を踏んでいたことに気づいた。
柚木さんが俺を好きだったのだとしたら、きっと何度も苛立ったことだろうな。
それでも俺は、彼女の気持ちに気づいてやれなかった。
盲目だったのだろう。
いや、彼女が近くにいすぎたから、いつからか軽く扱うようになってしまったのか。
比奈子の言う通り、柚木さんの気持ちに俺がもっと早く気づいてあげられれば、あんな悲しい思いをさせずに済んだのだろう。
頭から、文章が出なくなってしまった。
俺は間違っていた。そんなことを言っても、もう手遅れなのかもしれない。
しかし、わずかな機会をいただけるのなら、どうか、俺の本心を伝えさせてほしい。
その後で、俺をどう扱おうが、かまわないから。
そっと息をついて、空を見上げた。暗転の真ん中に黄色い半円が浮かんでいた。




