第155話 告白のこたえは
「やあ。ひさしぶりだね」
右手をあげて、自然を装って歩み寄る。
柚木さんは立ち上がって、少し後ずさりした。
「比奈子から、聞いたんだ。きみが、ここにいるって」
まずい。緊張で頬や顎の筋肉がこわばっている。言葉が滑らかに発せられない。
柚木さんはスマートフォンを両手で抱えていた。顔を少し下げて、鋭い眼光を俺に発している。
今まで一度も向けられたことのない敵意だ。でも、この眼光を俺は何度か見たことがある。
村田だ。この子が村田に向けているものと同じなんだ。
「最近また寒くなったけど、風邪を引いたりしてないかい?」
当たり障りのない会話で切り出してみる。しかし、柚木さんの怖い表情は変化してくれない。
「この前、『煉獄のごとく』を読んでさ。なかなか面白かったよ。主人公の復讐心というか、執念深さに対する描写が鋭くて――」
「なにしに来たんですか」
ぴしゃりと言い捨てられてしまった。怒った柚木さんの心は、今日も分厚い氷に覆われているか。
「なにしにって、きみと話がしたいだけだったんだけど、そんな許可をいちいちいただかないといけないの?」
「うそをつかないでください。部活に出ろって、また言いに来たんでしょう?」
きみの意中は俺の的を射ているけど、そんな端的なことをしに、ここまでわざわざ来たわけじゃない。
「そうじゃないよ。俺は、本当に話がしたいだけなんだ」
貴重な昼休みが刻々とすぎていく。
早く気持ちを伝えなければいけないが、本題を切り出すことができない。
柚木さんは、鋭い目で俺を見つめていた。俺の様子をうかがうように、身じろぎせずに、ずっと。
無言の圧力と気まずさに、心が蝕まれてしまいそうになった頃、
「わたしは、部室には行きません。行かないって、もう決めたんですから」
また冷たく言い放って、俺に背を向けてしまった。彼女との距離が急に遠くなっていく――。
「待って!」
足がひとりでに動いた。彼女を追って、その細腕を力強くつかんだ。
「はなしてくださいっ!」
彼女の悲鳴に、はっとする。慌てて手をはなした。
「違うっ。違うから、俺の話を聞いてくれ」
落ち着いていた胸の鼓動が、また急速に早くなっていく。
「俺は、その、きみにそばにいてほしいんだ。きみのことが、好きだから」
どうやって彼女を説得すればいいのか、わからない。気持ちが逸って、説明する順序を組み立てることができない。
「ひなに言われて、気がついたんだ。自分の気持ちに。きみがはなれて、きみがそばにいてくれないことのつらさに」
俺は、しどろもどろになって、訳のわからないことをしゃべっている。正面を向くことができない。
「だけど、きみが俺の話を聞いてくれないから、ひなにお願いして、きみと会えるようにしてもらったんだ。だから、文研に勧誘したいわけじゃない」
柚木さんは、俺を受け入れてくれるのか。あたりの冷たい空気が、暖かくなったような気がした。
俺は決然と前を向いた。
「きみと、またいっしょにいたい。だから、昔みたいに、俺のそばに――」
「ひなちゃんから、そう言えって吹き込まれたんですか?」
柚木さんの冷たい一撃が、突然に俺たちの間の空気を裂いた。
「いや、そういうわけでは――」
「好きだって言えば、わたしがおとなしく従うと思ったんですか?」
柚木さんのこわばった表情は、変わらなかった。好きだと言ったのに、どうして。
「ひなには、きみを説得しろと言われたけど、あいつに、強制されたわけじゃない。俺は、あくまで俺の意思で、きみに会おうとしたわけで、あいつに言われなかったら、きみに会おうとしなかったわけじゃないっ」
まずい。柚木さんの剣幕に気圧されてしまう。
「ひなに吹き込まれてなんか、いない。俺は、心の底から、きみといっしょにいたいと思ってるんだ」
俺はうそなんてついていない。だから、柚木さん。俺を信じてくれ!
「うそ、です」
柚木さんの言葉が、急にか細くなった。
「先輩の言葉は、うそばっかりです。先輩は、やっぱり、わたしに、文研に戻ってほしいだけなんです」
それは違う! そんなことは断じてありえない!
「違うよ! 文研に戻ってきてほしいっていう気持ちはあるけど、そんなことはどうでもよくて――」
「好きだって言えば、わたしを文研に連れ戻せるって、ひなちゃんに言われたんですよね。ひなちゃんは、わたしの気持ちがわかってるから」
柚木さんの悲しい言葉に、胸が張り裂けそうになる。
ああ、どうして、こんなに誤解されているのか。
「わたしは、全部お見通しです。先輩とひなちゃんには、もうだまされません」
校舎から昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。この寂しい空気を無常に奏でるように。
「有栖川先輩と、お幸せに。わたしは、もう、文研には戻りませんから」
柚木さんが睨むように俺を見た。踵を返して、ゆっくりと去ってしまった。
俺は、ふられたのか。
今しがた起きた出来事を受け止めることができない。
足の力が失われる。愕然と片膝をついた。
どうして、こんな結末になってしまったのだろうか。
彼女が入学してから、ずっと仲良くしてきたのに。
魂が抜けてしまった身体は、立つ気力すら俺に与えてくれない。
秋の肌寒い風が吹く昼下がり。生まれてはじめて感じる挫折だった。




