第148話 柚木さんはどうして部室に来てくれない?
柚木さんが部室に来てくれない。
どうしてなんだ。体調がよくならないのかな。
「柚木さん。今日も来てないの?」
先生が困り果てた様子でつぶやく。
「そうみたいですね。何かあったのでしょうか」
「変ねえ。午前中の一年一組の授業で、あの子を見たと思ったんだけども」
なんですとっ?
「柚木さんは学校に来てたんですか?」
「うん。たぶん」
なんということだ。心を支えている何かが折れかかっている。
いや、待て。早合点するな。午前中に彼女を見たというのは、先生の見間違いかもしれないじゃないか。
「村田」
彼は斜め前の席でパソコンを操作している。呼ぶと、少し不機嫌そうに顔を上げた。
「なんすか、副部長」
「柚木さんは、学校に来てたの?」
村田が俺をまっすぐに見つめてくる。沈黙が続いて、彼が薄く笑った。
「ゆずなら、学校に来てましたよ。つーか、昨日も普通に来てたし」
そうだったのか。肩に込められていた力が、急速に失われていった。
「柚木さんは、どうして部室に来てくれないのかしら」
「さあ。腹でも痛いんじゃねえですか?」
村田が、くくと嘲笑う。
「お腹が痛いと、部室に来られなくなるの?」
「そんなの知らねえよ。俺が適当に考えた冗談だっての」
先生が赤面して口を閉ざした。
柚木さんは自分の意志で、文研で活動する気をなくしてしまったのか。
でも、どうして?
村田のせいで、文研での居場所をなくしてしまったからなのか。
それとも、彼に振り回されている俺が不甲斐ないから?
村田はインターネットの動画に夢中になっているのか、顎に手を当てて笑っている。騒音を部室にひびかせながら。
彼が俺の視線に気づいて、
「なんすか。まだ用があるんすか?」
「いや、別に」
まるでサーカス団の虎を見るような目で笑った。
急いで彼女を説得しなければ。
トイレに行くふりをして部室を飛び出す。階段を上がって、一年一組の教室へ向かう。
放課後の廊下は、秋の静寂に包まれている。校庭から聞こえてくる声援や練習の掛け声が、廊下の寂しさを濃くしている。
一年一組の教室には、ふたりの女子生徒がいた。窓際の机を挟んで、学校の話か何かの話をしていたようだ。
ふたりが俺に気づいて、そのうちのひとり、茶色の髪を後ろで括った彼女が俺に言った。
「あの、何か」
「いや、別に」
柚木さんは帰宅したんですか?
そう聞きたかったけど、言えなかった。
部活を早めに切り上げて帰宅する。スマートフォンを取り出して、柚木さんに電話をかけた。
どうやって彼女を説得すればいいのか、わからない。そんなことをゆっくりと考えている余裕がない。
スマートフォンの受話口から、呼び出し音が何度も発せられる。それが途切れることはなかった。
柚木さんは電話に出てくれない。どうしてなんだ。
このままでは、まずい。文研の崩壊の足音が聞こえてくる。
スマートフォンに表示された柚木さんの電話番号を見つめながら逡巡する。どうやって彼女を説得すればいいのか。
彼女が部室に来なかったのは、気乗りがしなかっただけかもしれない。
明日になれば、いつものようにひょっこりと顔を出してくれるかもしれない。
もしそうだったとすれば、俺は不安に駆られて彼女に迷惑をかけたことになる。
それでもいいのか?
「ただいまー」
一階から比奈子の声が聞こえてくる。
今日こそ比奈子に相談すべきか?
柚木さんが部室に来ないことを比奈子に相談したら、あいつはなんと言うのだろうか。
ため息まじりに、「にいの意気地なし」なんて突き放されるかもしれないな。
スマートフォンを置いて、ベッドに倒れ込む。
いくら考えても答えが出ない。こんなに悩んでも答えを導き出せないのは、今日が初めてかもしれない。
スマートフォンを取り直して、メーラをそっと起動した。
* * *
「後輩が部室に来てくれないのですか?」
翌日の二時間目の授業の後の休み時間。となりの席の有栖川が「まあ」と声を上げた。
「うん。柚木さんっていうんだけど、一学期は毎日部室に来てくれてたのに、一昨日から来てくれなくてね」
「柚木さんは、山科先輩といっしょにおられた人ですわね」
有栖川が人形のような仕草で腕組みする。
「柚木さんのこと、知ってるの?」
「ええ。宗形くんが以前に紹介してくださったじゃないですか」
「そうだっけ?」
俺も腕組みして考える。有栖川に柚木さんを紹介なんてしたっけ?
「おぼえてないのですか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど」
「放課後の駅の前で、紹介してくださったじゃないですか。山科先輩といっしょに」
部長といっしょに……? そういえば、そんなこともあったっけ。
「思い出してくれましたか?」
「うん。思い出したよ。ごめんね」
「いえ。思い出していただければ、わたくしはかまいませんわ」
有栖川が恥ずかしそうに言った。
「柚木さんを紹介したかどうかが、宗形くんの悩みの中心ではありませんでしたわね。何か、心当たりはおありですの?」
「心当たり?」
「ええ。彼女と喧嘩してしまったとか、ひどいことを言ってしまったとか、そのような原因があるかを訊ねているのですが」
柚木さんが部室に来なくなってしまった原因。
「わからない。いや、わからなくはないか」
「心当たりがおありなのですね」
「うん。村田が文研に入部してきてから、柚木さんの様子がおかしくなってきたんだよね」
「村田? 文研に新しく入部された一年生でしたわね」
有栖川が相槌を打つ。
「村田のこともしゃべったんだっけ?」
「ええ。前にカフェに寄った帰りに、ばったりお会いしたじゃないですか」
そうだったっけ? あまり重要なことではないから、俺の記憶をつかさどる部分からその記憶が抜け落ちていた。
「有栖川は人の名前を完璧に記憶してるんだね。すごいね」
「そんなことはありませんわ。お父様の会社のお知り合いの方で、覚えきれていない方がおられますから」
有栖川が謙遜するように言う。
「それは当然でしょ。みんな、同じような顔なんだし」
「いえ。そういうわけには参りませんわ。人の上に立つ者として、人の顔と名前はすぐに覚えなさいと、お父様がおっしゃっていましたから」
だから、有栖川は柚木さんや村田のことを覚えていたのか。
有栖川って、普通じゃないし、冗談がわりと通じなかったりするけど、やっぱりすごい。
有栖川と柚木さんたちに直接的な関わりはないのだから、顔と名前を完璧に覚えなくていいのにな。
彼女の生真面目さに頭が上がらなかった。




