第132話 宗形のプチパソコン講座
休み明けの放課後。穏やかで覇気のない空気が、今日も部室に流れている。
秋の本格的な到来で、すっかり読書しやすくなった。
「そうしたら田畑のやつ、マジ切れしてんの!」
「なにそれー。超きもいんだけどっ」
部室に女子部員たちの話し声がひびいている。
「あいつ、学校でいい人ぶってるけど、うちじゃ奥さんに超冷たいんでしょー」
「そうそう! あれなんでしょ。最近よく聞く、モラハラ夫ってやつ?」
「モラハラとか超怖いんですけど!」
「ねー」
三人の女子部員――三人とも同級生だが、三人の話題の中心になっているのは、生物の田畑先生だな。
田畑のモラハラ疑惑は、俺も聞いたことがある。
あいつはいつもにこにこして、生徒にタメ口で話をされても「いいよいいよ」としか言わない先生だから、最初の頃はみんなあいつの笑顔に騙されていた。
だけど、授業中のところどころで、あいつの素顔が晒されるから、今では校内で最も黒い先公ナンバーワンだ。
ぐっと伸びをして、気持ちを切り替える。今日こそ、小説の原案をまとめるんだ。
ノートパソコンの液晶ディスプレイと、正面から向き合う。
タッチパッドを操作して、メモ帳のアプリケーションを起動する。
白紙のウィンドウが画面の左上に表示されて、適当に思いついた文章を入力していく。
瀬場さんに会って、あの人をモデルにした小説を書いてみたいと思った。
イケメン執事が主人公の小説だ。
どんな話になるのか、皆目見当がつかないけど、原案だけでもつくってみよう。
そう意気込んでいるのだけれども、
「先輩、何してるんですか」
真横から向けられる柚木さんの視線が、怖い。
俺のとなりの席に座っている彼女は、パソコンの入門書を開きながら俺を見ている。
いや、睨みつけているような感じだ。
「何って、執筆する小説の原案を考えてるんだけど」
「小説の原案が思いついたんですね」
柚木さんの言葉はいつも通りに丁寧だけれども、何かを強く訴えるようなジト目は変わることがなく。
「どんな原案を考えてるんですか」
「どんな? ええと、あれだよ。イケメン執事を主人公にした小説を書きたいんだよ。昔の深夜アニメで、そういうアニメがあったでしょ」
「へえ。よくそんな話が思いつきましたね」
柚木さんの目が怖いよ! 頼むから死神の鎌を向けるような感じで俺を見ないでくれ!
田畑のモラハラ疑惑について話していた女子たちも、柚木さんの異変に気付いてめっちゃ見てるし。
「き、昨日、急に閃いたんだよ。頭に電球があらわれたみたいに、ピコーンって」
「女子がイケメン執事を主人公にしたいって思うのは、普通だと思いますけど、男子がこんなものを考えますか」
「か、考える可能性は、ゼロじゃないと思うよ。人の考えは、十人十色と、言うんだし」
柚木さんは、なんでこんなに怒っているんだ。
あ! わかったぞ。比奈子の仕業だな。
あいつ、昨日、余計なことを柚木さんに吹き込んだんだ。
「あ、あのさ」
「はい、なんですか」
「あの、昨日、ひなとなんか話した?」
冷や汗を脇や背中にかきながら訊ねてみるけど、
「どうして、ひなちゃんの話になるんですか。ひなちゃんが、わたしと何か関係あるんですか」
柚木さんから返される言葉は、昔のアニメで登場するロボットのような棒読みで。
ちちち、違う、のか。
比奈子が原因じゃないとしたら、きみはなんで怒ってるんだ。
そういえば、今日の柚木さんはマスクをしていないぞ。
今さらになって気がつくなんて、俺はなんて鈍感なんだ。
髪を切ったときなど、女子は変化に気づいてほしい存在だということを、比奈子から何度も聞かされた。
柚木さんは休日にがんばって風邪を治したのに、俺がそのがんばりに気づいていなかったから、柚木さんは怒ってるんだ。
「そういえば、風邪は治ったの?」
「はい。それより原案を早く書かなくていいんですか」
「はい、原案を書き進めます」
柚木さんの口調が、さらに冷たくなったぞ。
だれか、だれでもいいから、俺を助けてくれっ。
手足も動かせない時間が刻々と過ぎて、高杉先生が部室に来てくれた。
「先生、こんにちはー」
「はいっ、こんにちは」
先生が、るんるんと鼻歌を歌いながら椅子に座る。
「あら、宗形くんがめずらしくパソコンを触ってる」
先生がわざとらしく驚いた。仰け反る仕草がありきたりですよ。
「先週から部室のパソコンを使って執筆活動をはじめてるんですけど」
「そうだったの? 先生、先週は部室に来てなかったから、わからなかったわ」
先生は忙しい人ですから、部室に毎日来られないのは仕方ないですよ。
「柚木さんは、パソコンの勉強をしてるのね」
「あ、はいっ」
柚木さんがパソコンの入門書を顔に近づける。
「柚木さんは、パソコンの使い方がわからないの?」
「いえ、まったくわからないわけじゃないんですけど、その、苦手なので」
柚木さんの表情が普段のおとなしい感じに戻っていく。先生、ナイスフォロー!
柚木さんが怒っていることを知らない先生は、能天気な顔で彼女の正面の席に座って、
「そうなんだ。じゃあ先生が教えてあげよっか!」
机に置かれているノートパソコンのディスプレイを立ち上げた。
「えっ、い、いいですよっ」
「遠慮しないの。ほら、先生が手取り足取り教えてあげるから」
柚木さんの机に置かれているノートパソコンを、先生が問答無用で操作する。
空気を読めない先生、最高ですっ!
「で、何がわからないの? パソコンの起動の仕方?」
「起動の仕方は、わかるんですけど、その、文字を打つのが、苦手で」
「タイピングが苦手なのね。そっかあ」
先生が柚木さんのノートパソコンを起動しながら、頭の後ろをぽりぽりと掻いて、
「先生もタイピングは苦手だから、宗形くんに教えてもらって」
俺は思わずこけそうになった。
「先生! 言い出しといて、仕事をさらりと押し付けないでくださいっ」
「だってぇ、先生もタイピングが苦手なんだもん。宗形くんはタイピングが速いでしょ」
「別に速くないですよ。ブラインドタッチとか、できませんから」
「またまたあ、照れくさいからって謙遜しちゃってえ。あたしたちの前でかっこつけてもいいのよぅ」
先生が、俺にいたずらする比奈子のような顔で言う。
この面倒くさい感じといい、比奈子にそっくりですね。
あなたを一ミリでも尊敬した俺がバカでした。
タイピングなんて俺は断じて速くないが、となりの席から注がれる柚木さんの視線が怖いから、否定できなくなっちゃったじゃないですか。
「ええと、パソコンのキーボードには、ホームポジションという位置があるんだよ。FのキーとJのキーに横線がついてるでしょ。ここに両手の人差し指を置くんだよ」
柚木さんのパソコンのキーボードに両手の指を置く。
柚木さんと先生が、キーボードと俺の指をまじまじと見つめる。
「FとJのキーに人差し指を置くと、そのとなりのDやKのキーに中指が当たるんだけど、これがホームポジションだよ。この指の配置を上下に動かして、キーボードを操作するんだ」
「へえ。そうなんだあ」
先生の腹の底から声が漏れる。
「えっと、真ん中の、GやHのキーは、どの指で打つんですか?」
「真ん中のキーは、人差し指で打つんだよ。だから、人差し指だけ担当するキーが多いことになるね」
「では、1や2の数字のキーは、どうするんですか」
「数字のキーは、両手の指をスライドさせて打つんだよ。キーボードの配置は左斜めにずれた配置になってるから、指も左斜めにスライドさせながら打つ感じになるね」
「そうなんですか」
柚木さんがパソコンの入門書を置いて感嘆した。
「だから先輩は、タイピングが速いんですね」
「俺は全然速くないって。部長はタイピングが速いけどね」
「わたしからしたら、おふたりともすごく速いですっ」
柚木さんが、かあっと赤面する。普段の彼女にやっと戻ってくれた。
「先生も、ホームポジションをちゃんと覚えてくださいね」
「そうねえ。でも変な癖がついちゃったから、タイピングを今さら変えるのって大変じゃない?」
「大変だと思いますけど、ホームポジションを覚えると、タイピングが劇的に速くなりますよ。そうすると、プリントをつくるのも速くなりますから、学年主任や教頭先生を出し抜くこともできますよ」
冗談半分で学年主任や教頭先生を出してみる。
すると先生は、ずっと探し求めていた宝物を見つけたような顔で、
「それ、いいわね! あたしもやっぱり練習しよっ」
自分の席に戻ってパソコンのキーボードを操作し出した。扱いやすい人だなあ。
先生がタイピングをミスするたびに声を上げる。柚木さんが、くすくすと笑った。




