第113話 有栖川はやっぱり不器用だ
部室の窓から見える空が茜色に染まっている。そろそろ部室を閉める時間だ。
先生は一年生たちの座る島へ移動して、おしゃべりしている。今月の球技大会の話だな。
「先生、そろそろ部室を閉めましょう」
先生と一年生がおしゃべりを止めて、部室の壁掛け時計を見やる。
「あ、もうこんな時間だったのね。うん、そろそろ閉めましょう」
机のフックにかけていた鞄を取り出して、読んでいたライトノベルをしまう。
部室の鍵を探していると、有栖川から渡されたキーケースが目についた。
有栖川は漫研の部室にいるのかな。キーケースを返さないと。
先生と一年生を廊下へ出して、部室に忘れものがないかチェックする。問題は特になさそうだ。
「忘れ物はないですね。じゃあ、帰り道に気を付けて」
「はいっ」
「さようならー」
先生と一年生の背中を見送って、となりの漫研の部室を見やる。
漫研の部室は扉が閉まっている。
「失礼しまーす」
漫研の部室の扉をノックして、おそるおそる開ける。
部室の中には四つの机をつなげて、いくつかのグループができている。
文研の部室と同じような机の配置だ。
五人の女子生徒が思い思いの席についている。
少女漫画を片手におしゃべりをしていたが、俺に気づいておしゃべりを止めた。
四橋さんは窓側の席で俺を眺めている。有栖川の姿は見当たらない。
「すみません。有栖川、さんは、来てますか?」
漫研の部員たちが首を横に振る。有栖川は部室に来ていないのか?
「わたしたち、ずっと部室にいたんですけど、部長代理は来ていないです」
手前の席に座るショートヘアの女子が、状況を簡潔に教えてくれる。
二年の梢さんだったかな。
有栖川はどこに行っちゃったんだ? 部長代理の職務を放棄して帰宅する女子ではないはずだけど。
「そうだったんだ。漫研の部室の鍵を預かってるので、そろそろ閉めようと思ってるんですけど」
「お願いします。わたしたちも、そろそろ部長代理にメールしようと思っていたところなので」
漫研の部員たちが、のんびりと帰り支度をする。
覇気のない彼女たちの姿を遠目で眺めていると、二週間くらい前まで自分たちの命運をかけて真剣な勝負をしていたと思えなくなってくる。
「漫研の鍵、わたしが預かりましょうか?」
梢さんが気を利かせて俺に提案してくれる。
「いや、だいじょうぶ。有栖川の席は俺のとなりだから、明日に本人に返すよ」
「そう。じゃあ、お願いね」
「それより、有栖川からなんの連絡も来てない? 何かあったのかな」
「連絡は、たぶん来てないと思うけど」
梢さんがスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。
右手の人差し指で画面を操作して、
「あの子、メールとか全然しない子だから。うん。特に来てないね」
同じ部の同級生が突発的に部活を休んだのに、ずいぶんと呑気だな。
「お稽古ごととかで、部室に来ないこともたまにあるから。部室が開かないんだったら、その日は休めばいいんだし」
漫研って、うちと同じでけっこう適当なんだな。
狐塚先輩は、漫研のこの緩い雰囲気を変えたかったのかもしれない。
「あの子、ああ見えて、ちょっと天然だから。教室で今日の宿題でもやってたりしてねっ」
梢さんたちが、くすくすと笑いながら帰っていく背中を眺める。
右手に収まる有栖川のキーケースに目を向けて、どうしようか考える。
とりあえずメールでもしようかと思ったけど、あいつのメールアドレスを知らないな。
教室で今日の宿題でもやってるって、そんな馬鹿な。
廊下のはるか向こうに、赤いジャージを着た男の先生の姿が見える。
左手に名簿らしきものを持って、こちらへゆっくりと近づいてくる。
きっと見回りの先生だ。見つかったら厄介だぞ。
帰る前に三階の教室へ戻ってみよう。
有栖川がいるとは思えないけど、なんとなく気にかかる。
廊下の静寂が俺の行動を拒む。窓から差し込む光が弱くなっている。
二年一組の教室は、三階の西の端にある。
廊下に見回りの先生がいないことを確認して、一組の教室へ駆け込む。扉は不用心にも開いたままだった。
茜色の美しい光に包まれる一組の教室。その、廊下側から二列目の席。
教壇から二番目の席に、紅い後ろ髪の女子生徒がうずくまっている。
「有栖川っ!」
有栖川の肩がびくっと反応する。おそるおそる振り返って、
「宗形、くん」
俺のとなりの席に座っているのは、有栖川由香梨で間違いなかった。いや、そんなことはどうでもよくてっ!
「有栖川。なにしてんの?」
彼女は答えない。
恥ずかしそうに顔を朱に染めて、そっぽ向いてしまう。
もしかして、本当に今日の宿題を復習していたのか?
そっと近づいて、彼女の机を覗き込む。そこに広げられているのは、学級日誌?
今日の日誌のページの右下の感想欄には、何度も消し直した跡がある。
「もしかして、ずっと学級日誌を書いてたの?」
有栖川がさらに赤面してうつむいた。
「感想欄が、全然埋まらないので」
なんということだ。
こんな理由で部活に出られないなんて、きみはなんて真面目なんだ。
いや、これは真面目なのか? 要領が単に悪いだけな気がするけど。
しかも感想は三行も書かれているし。
文字や文面も丁寧だから、これで提出しても文句は言われないだろう。
「これだけ書いていれば問題ないよ。早く先生に出しちゃおう」
「だめですわ。感想は、最後まできっちり埋めないと、先生に怒られるって田中さんがおっしゃってましたから」
なんだそれ。そんな話は聞いたことがないぞ。
「そんなの嘘だって。三行くらい書いてれば、文句は言われないから」
「し、しかしっ、もし先生に叱られたら、わたくしのせいで、明日もまた日直をさせられてしまいますわっ。ですから、責任重大ですわ」
有栖川が、俺をまっすぐに見据えて答える。一ミリもふざけていない、大真面目な表情で。
――あの子、ああ見えて、ちょっと天然だから。
なるほど。梢さんの言葉がようやく理解できた。
有栖川から学級日誌を奪って、他のページを広げてみせる。
「他の人の感想だって、二行くらいしか書かれていないでしょ。だから今日の分も、有栖川が書いた感想で充分なんだよ」
「そうなのかしら。もうちょっと書いた方がよい気がしますけれど」
有栖川は頑固なのかな。
早くしないと見回りの先生が来ちゃうというのに、困ったやつだ。
「わかった。ちょっと貸してっ」
自分の席について、筆記用具を鞄から取り出す。
今日の授業でかろうじて印象に残っているのは、三時間目の化学の授業の牧田のドヤ顔だ。
なんたら電子と陽イオンが結合すると安定するとか、そんなことを偉そうに言っていた気がするから、とても勉強になったと書いておこう。
これでも、感想欄がまだ少し埋まっていないか。それなら、明日もがんばりますと、適当に添えておこう。
「感想を全部埋めたよ。これでいいでしょ」
有栖川が学級日誌を手に取る。「まあっ」と小さな声で驚いて、
「こんなすぐに感想が書けるなんて、すごいですわ。文研の人って、やはり文章を書くのがお上手なのかしら」
ぱっと思いついた文章を適当に書いただけなんだけど。
天然って、なんでもありだから卑怯だ。
「ん、でも、電子と陽イオンは結合するのではなくて、電子から陽イオンが生まれると、牧田先生が――」
「もういいからっ! 早くしないと見回りの先生が来ちゃうんだってっ」
「ああっ」
学級日誌を奪い返すと、有栖川が目を丸くした。
「も、申し訳ありませんわ。わたくし、細かいところが気になってしまう性分ですので、何をするにしても時間がかかってしまうのです」
だから今日は、ひとりで学級日誌で格闘してたんだな。
天然というより、かなりの不器用だ。
「わかったから、学級日誌を早く出しちゃおう。下校時間をすぎているのに、ずっと残っていたら、先生に説教されちゃうよ」
「それは、よくありませんわね。内申点にも傷がついてしまいますわ」
こんな理由で怒られても、内申点に傷はつかないと思うけどね。
有栖川って、独特な雰囲気を持つ女子だと前から思っていたけど、こんなに変わってる女子だと思わなかったな。




