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第111話 有栖川由香梨

 暴風雨のような文化祭と二学期の中間試験が過ぎ去って、学校と文研にまったりした日常が戻ってきた。


 朝から六時間の眠たい授業を教室で受けて、放課後に文研の静かな部室で読書をして過ごす。


 なんの刺激もない、面白みにかけた日常。


 退屈で、危険も障害もないこの毎日が、俺は好きだったんだ。


「原子は、最外殻電子さいがいかくでんしが八個の状態が、最も安定しているのである。ということは、最外殻電子が八個でない場合、安定な状態になろうとするのである」


 お腹の空きはじめる三時間目。化学の牧田先生の言葉が、お経のように聞こえてくる。


「最外殻電子が一個から三個の場合、原子は最外殻電子を放出する。一つ内側の電子殻で八になって安定する。これが陽イオンの生成される原理である」


 牧田がドヤ顔で板書しているが、この教室の八割の生徒が眠りこけている。眠すぎて死にそうだ。


「電子が逆に足りない場合は、外部から電子を受け取ろうとする。この場合は陰イオンになるのである」


 俺のとなりの席で、ノートにシャーペンの先を走らせている、有栖川由香梨。


 ゆるいウェーブがかかっている髪を、頭頂部で二つに分けている。海外モデルのように整った顔立ちが、すごく印象的だ。


 日本人なのに、瞳は琥珀こはくのように黄色くて、鼻も外人みたいにすらりと長い。


 後ろの髪は背中を覆うほど長くて、少し赤みがかかっている。


「マグネシウムの場合は、このように電子をふたつ放出すると、マグネシウムイオンになる」


 有栖川は、うちのクラスで一番の美人だ。


 いや、うちの学校で間違いなくトップレベルの美人なのではなかろうか。


「フッ素の場合は、このように電子をひとつ受け取り、フッ化物イオンになるのである。よく覚えておきたまえ」


 有栖川がシャーペンを持つ手を止めて、顔を少しだけ俺に傾けてきた。慌てて板書する振りをする。


 有栖川に見られていると思うと、緊張して胸が高鳴ってしまう。


 だけど二学期になり、廊下側のこの席へ移動してから、彼女に何度か見られている気がする。


 会話したことは、一度もないのだけれども。


「よって、イオンの化学式をイオン式というのだ。わかったかね、諸君」


 黒板にイオン式を書いていた牧田が、不意に黒板を強く叩いた。



  * * *



 今日は幸運にも日直の日だ。


 日直なんて、普段なら絶対にやりたくない。だけど今日は特別だ。


 日直は、席のとなり同士、男女のペアで担当する。


 興味のない女子が相手だったら、日直なんて苦痛でしかないけれども、そうじゃなければ、その日はちょっとしたイベントだ。


「さてと」


 四時間目の授業の前の休み時間。


 騒ぐクラスメイトを尻目に、黒板をきれいにする。


 牧田が黒板の隅まで張り切って板書したから、消すのが大変だ。


 俺が黒板の左側を黒板消しできれいにしていると、教壇の右側へ上がる女子がいた。有栖川だ。


 有栖川は、凛々しい顔つきで黒板消しを手に取った。


「有栖川。学級日誌の記入は終わったのか?」


 有栖川が黒板消しを持つ手を止めて、顔を少しだけ俺に向ける。


「感想以外は書き終わりましたわ。ですから、手伝いますわ」


 有栖川が、ガラス細工のように細い指で黒板消しを動かす。


 有栖川って、雰囲気にどこか品があるんだよな。ヨーロッパの侯爵家のひとり娘みたいだ。


 うちが金持ちだという噂は、何度か聞いたことがあるけれど。


「あの」


 有栖川に呼び止められた。


「なに?」


 有栖川はまた手を止めて、顔を少しだけ俺に向けている。


 白人女性のような顔立ちに、つい見とれてしまう。


「いいえ。なんでもありませんわ」


 有栖川と会話らしいことを、今までしたことがない。


 でも、彼女に話してみたいことがあるんだ。


「有栖川って、漫研に入ってたんだな。知らなかったよ」


 有栖川が、また俺に振り返った。


「しかも副部長で、今は狐塚先輩の代理なんだろ? すごいよな」


 最近になって、彼女から感じる視線。これは気のせいじゃない。


 境遇が近いから、互いになんとなく引っかかるんだ。


「あなただって、似たようなものでしょう? おとなりの文研の副部長で、今はもう実質的に部長なのですから」


「そうなんだけどね。部長、じゃなくて山科先輩か。俺の実力じゃあ、先輩の跡なんて継げないんだけど」


「わたくしだって、それは同じですわ。部長は素晴らしいお方でした。そんな部長の跡をわたくしめが継ぐだなんて、畏れ多くて心が震えますわ」


「狐塚先輩はすごい人だからね。高校生でプロの漫画家なんだから、俺なんかじゃ歯が立たないよ」


 黒板消しが終わって席に戻る。有栖川がおとなしくついてきた。


「あなたの部の部長だって、素晴らしいお方なのでしょう? お名前は、なんとおっしゃいましたかしら。インターネット上のお名前」

「泉京屍郎だろ」

「そうでしたわ。あまりに変わったお名前でしたから、覚えられませんでしたわ」


 泉京屍郎は、割と覚えやすい名前だと思うけど。


「あなたの部長だって、インターネットですごい活躍をされていると聞きましたわ。わたくしは小説を読みませんから、その辺りの詳しいことは、存じ上げませんけれども」


「部長はすごいね。インターネットで人気を出すだけでも大変なのに、人気をずっと維持してるんだからね。それなのに受験勉強はしてるし、文化祭のときは、俺たちのために新しい小説をわざわざ書いてくれるし。よくよく考えると、とんでもない人だよ」


 しゃべっていて、部長のすごさに初めて気づいた。


 有栖川が口元を少し緩めた。


「あなたも、自分の部の部長を慕っておられるのね。感心しましたわ」


「慕っているというのは、どうかな。うちの部長は、狐塚先輩みたいにちゃんとしてないから」


「照れ隠しなんて、しても無駄ですわよ。あなたの部の部長を敬愛していると、お顔に書いてありますもの」


 俺、そんな顔で部長の話をしてたのか? うわ、かなり恥ずかしい。


 あんな、部室で寝てばかりいる人を敬愛なんて、絶対にしていないからな。


「そういえば、花瓶の水って替えたかしら」


 四時間目の始業のチャイムが鳴った頃に、有栖川が窓を見てつぶやいた。


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