56.後始末
エリアンがヴェイナンツ伯爵に代理指揮を頼み、アントンを副官につけてからリシャナの様子をうかがいに行くと、彼女は眠っていた。略奪のあったのだろう、荒らされた部屋の中で何とか体裁が整っている寝台で、エステルがリシャナの手を握っていた。
「先ほど、眠られたばかりです。尤も、眠りが浅いようですけど」
どうやら、エステルが入ってきた時も眠っていたらしい。妊娠すると眠くなる、と聞いたことはあるが。
「具合はどんなものだ?」
「私も、ご懐妊されていると思いますわ。少し、感情的ですわね」
「ああ、陛下もそうおっしゃっていた」
情緒不安定と言っても、八つ当たりなどではなく泣くのだそうだ。心情が不安に振り切れているらしい。おとなしいがどちらかと言えば気の強いリシャナには珍しい。
エステルによると、リシャナは妊娠二か月半といったところのようだ。しばらく悪阻が続くだろうとのことで、よく眠るのもその一つのようだ。めまいも起こしていたようなので、下手に起きて活動されるより、眠っている方がまだ安心かもしれない。
とはいえ、エリアンはリシャナから指揮権委譲の許可をもらわなければならない。エステルには無理やり起こすな、と言われたので、起きるまで待つことにした。
「できれば、手を握って差し上げてくださいな」
リシャナが、エステルの手を握って眠りについたらしい。なんだろう。普段との落差がかわいい。エリアンはエステルの言う通りにリシャナの手を握った。椅子も譲られる。
「動かしても大丈夫か?」
「本当は好ましくありませんけれど、仕方がありませんわね。士気にかかわるのでしょう?」
肩をすくめてエステルが言った。医学の心得があるものとしては、もう少し落ち着くまで安静にさせたいらしいが、ここは軍人ばかりの戦場だ。彼らの士気にかかわってくる。
「いざとなれば、私が影武者くらいは務めますけれど」
リシャナとエステルは長身で顔立ちもなんとなく似ている。体形や雰囲気が異なるので見間違うことはないが、影武者くらいは務まるだろうとエステルは言う。何度か務めたこともあるようだ。
「リシェが許可を出さないだろう」
その前に、ヴェイナンツ伯爵の件の許可をもらわなければ。完全に事後承諾だが。これが終わらなくては、リシャナを連れ帰ることもできない。
そうですわね、とエステルは微笑む。しばらくリシャナの寝顔を眺めていたが、彼女が起きることはなかった。
翌日顔を見に行くと、リシャナは起きて少し遅い朝食をとっていた。エステルがついているが、あまり食が進んでいないようだ。
「おはよう、リシェ」
「……おはよう。手間をかけたな」
疲れたようにため息をつく以外は、エリアンにはいつも通りに見えた。顔色が悪いが、いつもこんなものだと言われればそのような気もする。
結局そんなに食べられずに食事を終えたリシャナに、エリアンはひとまずヴェイナンツ伯爵とアントンの件の許可を取る。これについてはすんなりと許可が下りた。基本的に、リシャナがエリアンの決定に否を唱えることはない。結婚してから一度だけ苛烈な口論をしたことがあるが、執務方針ではなく部下の教育方針が理由だった。
「陛下から大まかな事情はうかがっている。あなたを連れてコーレイン城へ下がるように指示を受けた」
「コーレイン城……ニコールが避難していたな」
わかった、とリシャナはうなずいた。ヘルブラントによると、泣きながらごねたという話だが、しばらく時間をおいて、自分が現在できることはないと理解したようだ。エリアンとしても、あまり動かないでほしい。そこで、エリアンはリシャナ本人から何も言われていないことに気が付いた。
「リシェ。あなたは俺に言うことはないか?」
本気でいやそうな顔をされた。ヘルブラントもエステルも情緒不安定だ、と言うが、やはりエリアンにはいつも通りに見えた。
「……妊娠している可能性が高い、と言われた」
端的に言われて、リシャナがまだ状況を飲み込め切れていないということがよく分かった。ゆえに情緒不安定なのだろう。エリアン相手には、見栄を張っているのだろうか。
「そうか。……うれしいな」
かみしめるようにエリアンが言うと、リシャナは意外なことを言われた、と言うようにゆっくりと瞬いた。
「……そう。お前はうれしいのか」
「あなたはそうではないようだな」
エステルにも話を聞いてやってくれと言われているので、エリアンは突っ込んでいった。エリアン自身も、これが自分の役割の一つだと思っている。
「うれしくない、というか」
彼女らしからぬ戸惑った様子を見せ、リシャナは言った。
「私は、母に疎まれていたから……母親になれるのか、怖い」
素直にそんなことを言われて、正直エリアンは驚いた。本当に恐れるように瞳を閉ざしたリシャナを見て、この人は本当にそう思っているのだ、とわかった。年上の妻を見ていとおしくなる。
「それを考える時点で、あなたには親になる資格があると思うぞ」
ただ真面目なだけの可能性はなくはないが、それにしたって、ちゃんと子供のことを考えて、親になることを考えている。王太后に比べれば及第点のはずだ。
「……まだわからないけれど」
エリアンは声を発したリシャナを見た。彼女は少しうつむいている。
「そうであったら、いいと思う」
リシャナが起きて、さあ出発、とはならなかった。準備期間もあるし、ヘルブラントと相談しなければならないこともある。
「ご指示通り、私は後方に下がります。兵士たちをよろしくお願いしますが、必ず返してくださいね」
妹を心配して、ヘルブラントの方がリシャナが使っている部屋を訪ねてきた。目の前で倒れ、目が覚めたら取り乱していたのを見ているヘルブラントは、落ち着きを取り戻したリシャナを見てほっとしたように見えた。
「わかった。軍隊の方は任せてくれ。ある程度事後処理が終了したら、順次帰す」
もしかしたら、コーレイン城にこもるリシャナよりもヘルブラントが先にクラウシンハを出ることになるかもしれない。
「お願いします。……すみません、お手数をおかけして」
いつもの気鬱気な表情だが、今日は彼女の心情を表しているように思える。エリアンはちらりとヘルブラントを見た。
「……俺がお前に頼りすぎているのは事実だからな。たまには頼りになるところを見せなければ、兄の威厳がなくなってしまう」
「なるほど」
「そこで納得するな」
まじめな顔で会話しているので冗談か判断できない。エリアンは意見を求められるまで黙っていることにした。
「クラウシンハはどうするのですか」
「ひとまず、直轄地に組み込む。もとはそうだったからな」
「そうですね」
リュークが治めるまでは、クラウシンハは直轄地だった。元に戻るだけだと言えば、そうなのかもしれないが、そういう問題でもない。
クラウシンハに関しては代官を派遣すれば治めることは難しくない。リシャナが本当に心配しているのは、残されたニコールたちのことだろう。ニコールはエルヴェス伯爵家の娘だが、その子供たちはリュークを通して王家の血を引く姫君たちだ。王族のすくない今、ヘルブラントは手放したくないだろう。
そのほかにもいくつか話し合う。リシャナはアールスデルスからクラウシンハに急行する際に、周囲の領主から兵站を供出させて補給を補ってきた。これを補填しなければならないし、北方諸国連合への対応も必要だ。こうして連合として攻めてきたのだ。停戦するにしても話し合いは必須だ。
「できれば、お前が動けないことはあちらに知られたくない。情報統制を頼む。これはエリアン向きだな」
「かしこまりました」
ヘルブラントに向かってうなずくと、彼はにやりと笑った。
「にしても、リシェが落ち着いてよかった。やるな、エリアン」
「……私が顔を合わせたときにはすでに落ち着いていましたが」
「俺はエステルから泣きじゃくっていたと聞いたぞ」
「それは私も聞きましたが」
「二人とも、私がいないところで何を話しているんですか」
リシャナが突っ込みを入れてきたが、悪いがこの件に関してはリシャナは信用ならないので、エステルの報告が優先される。
少なくとも、リシャナがエリアンと顔を合わせるまで不安定だったのは確かだ。今もそうなのかもしれないが、話し合いができる程度の理性は戻ってきている。年上の矜持だろうか。
「とにかく、お前、もう休め。顔色が悪くなってきたぞ」
「それは元からです」
それもどうなのだろう。いつも血の気のない顔色なのは確かだが。
休めと言っても、ここはリシャナが使っている部屋なので、出て行くのはヘルブラントの方だ。エリアンが見送ろうとしたが、手で追い払われた。
「俺はいい。お前はリシェについていろ。めまいも起こしていたから、いつ倒れるかわからんぞ」
「……ですか」
一応、ヘルブラントの臣下なのだが。
と言っている間に、リシャナがめまいで床に座り込んだ。本当に調子が悪いのだろう。
「ほら、行け」
「……失礼します」
護衛を連れて部屋を出るヘルブラントに礼を取り、エリアンはリシャナの元へ駆け寄った。
「大丈夫か? エステル!」
すぐにエステルと女官が入ってきた。エリアンはリシャナを問答無用で抱き上げる。
「まあ、リシェ様。ちょっと失礼しますわね」
エステルがソファに降ろされたリシャナの脈をとり、顔色を見る。貧血かしら、とつぶやくのが聞こえた。
「リシェ、大丈夫か?」
顔をのぞき込むと、リシャナは軽く首を左右に振ってぎゅっと目をつむった。
「……くらくらする」
エリアンは思わずエステルに尋ねた。
「この状態で移動できるか?」
「……難しいかもしれませんわね……」
実際に移動できるまで、三日かかった。
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