03
瑞樹を呼んだ国、ジクシオは王政国家である。国の最高権力者は王であり、瑞樹を呼んだ召喚の儀も、王の決定があってこそなされた物だった。王は誰よりも国の未来を憂いている人間であり、そして誰よりも召喚の成功を望んでいる人間でもある。
よって、レイスが向かったのは王の元だった。
王の住まう王宮は、召喚の儀が行われた聖殿から馬だと丸一日かかる位置にある。しかし、レイスにそんな時間をかける必要は無かった。聖殿の離宮に向かえば、そこに移動の為の魔方陣がある。その陣を用いれば、王宮へと瞬時に移動できるのだった。
不眠や儀式の疲れを微塵も見せずに颯爽と歩くレイスは、超人と言っても良いだろう。元より聖官にはそのような人間が多い。人よりも睡眠を必要とせず、精神的な疲れに強い。肉体的な疲労の回復も早かった。レイスはその聖官の中でも最高峰に位置する人間である。疲労には並はずれて強い。
けれども、実際の所レイスはかなり疲れていた。僅かな間違いも許されない三日三晩にわたる儀式は、彼にとっても苦行だったのだ。ましてや、儀式の呪を組み立て、儀式の為の聖官たちの教育をする為に、この一年近くはずっと尽力してきたのだ。
その結果として来たのが、何の力も無いただの子供であれば、いくらレイスであっても憔悴せざるを得ない。
王宮へと移動したレイスは、それでも毅然と顔を上げて王の元へと向かった。向かうのは謁見室ではなく王の私室である。儀式が終われば報告に来るというのは予め決まっていた事だった。
私室と言っても半ば公の場である。しかし常に多くの兵に守られている謁見の間と違い、信が置ける者だけが通される「応接間」であった。王の侍女によってそこに通されたレイスは、椅子に腰を下ろすでもなく背筋を伸ばして立ったまま王を待った。
いくらレイスが信頼されていると言えど、王が護衛なしに来る事は有り得ない。問題は、その護衛が誰であるか、だった。この様な場で特別に王を守り続ける王の護衛達は皆信頼できるが、その中にはどうしても今会いたくない人間もいる。
(王は用件が召喚の儀の成否である事は分かっている筈)
だからこの場に連れて来る護衛の人選も考えてくれるだろう、とレイスは自分に言い聞かせる。王は思慮深い人間である。きっと考慮してくれるだろう、と。
しかし、往々にして王の思慮とレイスの思慮は食い違う。
よってレイスは間もなくして、最も聞きたくない声を聞くことになったのだった。
「はぁい、レイスぅ。相変わらず美人ねぇ」
蜜が滴るような甘ったるい口調。主たる王を差し置いて、真っ先にレイスに声を掛けた女は、ニィ、と唇を釣り上げて笑った。その隣では王が苦笑している。
女の名はイライザ・ルクセンシア。王の護衛の魔道師の一人である。鮮やかな青い髪に、漆黒の目。その目の色で、彼女が強大な力を持つ魔道師であると分かる。纏う衣装の胸元は無駄に大きく開いており、無駄に大きな胸の谷間を見せている。それだけでなく、ぴったりと体の線に沿った服は、彼女の胸や、女性らしい見事な曲線を描く体つきを強調している。足には大きくスリットが入り、彼女が歩くたびに白い足が覗いた。
そして、左目には片眼鏡。しかし、彼女の視力に問題は無い。ようは伊達である。
「んふ。召喚の儀の報告でしょぉ? どぉだったのぉ?」
嗜虐的な笑顔でいたぶる様にレイスに聞いてくる。その間延びして甘ったるい口調には、知性という物が感じられない。嫌がるレイスの顔を見て楽しそうに笑うあたり、真っ当な人間とも思えなかった。しかしレイスは彼女の知性を評価していたし、王の信頼を得ている人間でもある。一部では彼女の立場について、色気で王を籠絡した、という人間がいる。しかし王がそんな理由で自らの護衛を選ぶはずがない事をレイスは知っていた。
「浮かない顔をしているな。まずは座ったらどうだ?」
召喚の儀の結果を早く知りたいであろうに、王は急かすでもなくレイスに着席を促す。促されるままに座ったレイスは、王にまず頭を下げた。
「召喚の儀の結果についてご報告申し上げます」
そうしてレイスは、召喚の儀に成功した事。しかし、その成功に意味が無かった事を王に報告したのだった。
レイスがイライザに会いたくなかったのは、決して彼女が嫌いだからではない。イライザが最後まで召喚の儀に反対していたからだ。
異世界からこの世界に人を招いて成功した確かな記録は無い。成功したところでどんな人間が来るかも分からない、と。
それに対してレイスは、それしか希望は無い、と召喚の儀の準備を進めてきたのである。だからイライザの言った通りとも言えるこの状況で、彼女と顔を合わせたくは無かった。勝手な理由ではあるが、それだけではない。召喚に反対していた彼女の、別の主張を聞きたくなかったというのもある。
『黒色の魔道師ならぁ、もう既にいるじゃなぁい?』
その言葉を思い出すだけで、レイスは知らず眉間に皺を寄せる。その選択肢こそ、レイスが最も避けたい物だ。
しかしまずは、王の意見である。いくらイライザであっても、この場にあって王より先に自分の意見を述べはしない。
「困ったことだな」
メモをするためのペンを忘れた、とでもいうような軽い口調で、王が言った。思いつめていたレイスにしてみれば、その口調だけで気が楽になる。それを意図しての口調だと知ってはいても。王が真実、召喚の成功を望んでいたことをレイスは知っている。
「まずはその客人に会ってみたいものだが。どんな人間だ?」
「大人しい……子供でございます」
「子供、か……歳の頃は? 性別はどちらだ?」
レイスは返答に困る。客人の顔を思い出すも、歳の頃も性別も答え難い。見慣れぬ平坦な顔立ちは、そのどちらもを分かり難くしていた。
「歳……は、十かそのあたりかと。性別は……恐らくは少年、だと思うのですが」
自信が無いままレイスは答えるが、実際その答えはどちらも外れている。瑞樹は十五歳であり、尚且つ女の子である。
王はしかし、レイスの自信が無さそうな態度をくみ取って笑った。
「分からんのだな。それならそうと答えればよい」
「申し訳ございません」
「これからその客人に合う事は?」
「客人は聖殿におります。移動陣の使用登録をするには少々お時間が」
「何、私がそちらに向かえば良いだろう。イライザ、構わんな?」
「し、しかし陛下、聖殿には……」
慌てて止めようとするレイスだったが、イライザはニィ、と笑う。
「私は止めませんよぅ」
その顔に舌打ちをしたいのを堪えるレイスに構わずに、王は言った。
「ならば決定だな。行くぞ。レイス」
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瑞樹が目を覚ました時、そこには誰も居なかった。時計も無い部屋である。自分が意識を失ってから、どれくらいの時間が経ったのかも分からない。少なくとも窓から差し込む光にも特に変化は感じられなかったから、それほど時間が経っていないのだろうと推測する。
(のど、かわいた……)
小さく咳き込み、瑞樹は自分の喉に触れる。それからその手を自分の心臓のあたりに下した。薄い胸はそれでも僅かに、セーターの上からその存在を主張している。少年の手が埋まったそこは、痛みを訴えるでもなく、いつも通りに感じられた。
(夢だったのかな)
それにしても変な夢だった。瑞樹にとっては今の状況そのものが変な夢のようではあるけれど。
ぼうっとする頭を軽く振って覚ますと、瑞樹は部屋を見渡す。テーブルに置かれた水差しとコップに目を留めると、それを注いで飲んだ。喉の渇きが癒え、ふう、と一つ息を吐く。
それから部屋を見渡す。この部屋について世話役の女性が説明してくれた事を思いだしながら、部屋の中を散策した。
天蓋付ベッドを覗いてみると、やたらと大きく、しかも寝具はふわふわと柔らかい。クローゼットの中身は白一色ではあっても多種多様な服が用意されていた。とは言っても主にサイズ面で、である。探せば瑞樹が着れそうなものも見つかった。
(ここは元々、客人の為に用意された部屋なのかも)
そのクローゼットから、瑞樹はそうと推測する。きっとどんな人間が来るか分からなかったから、だからこうやってサイズを取りそろえたのだろう。
部屋にいくつかある、入り口以外の扉を開けてみれば、トイレ、洗面所と思しき場所もあった。洗面所はかつていた世界とさして変わらないように見える。トイレの方は使い方が分からない。けれども下水の処理はされていそうだと見て取ることはできた。その点、それほど不便を感じずに済みそうだと安堵する。最も、使い方を教わる必要はあるが。
(放り出される前に、トイレの使い方だけ教えて下さいって言ったら間抜けだよね)
そんな事を考えながら瑞樹は白い鈴に目を向ける。この部屋に案内された時に、用があったらこれで呼べ、と渡された鈴である。
まだもよおしているわけではないが、使い方を教えて貰うためだけに呼んでいいものかと瑞樹は迷う。けれどもいざもよおした時にどれくらい待つのか分からないのは辛い。分からないのは流し方……汚物の処理の仕方だからまあ、その段階で待てばいいのかもしれないけれど、一応年頃の女の子としてはそれも抵抗があるのである。
(あー…何か妙に実感湧いてきた……)
これからこの世界でやっていかなければならない、という実感である。でもまだどうなるかも分からない状態だ。レイスが戻ってくれば、瑞樹がどうなるかも分かるのだろうか。
白い鈴を手の平で弄びながら瑞樹が考え込んでいた時だった。
部屋の戸が開く。
「ミズキ。お客様をお連れしました。少し彼と話して下さいませんか?」
入って来たのは、レイスと他二人。
一人が青い色っぽい服と、同じ色の鮮やかな髪をした女の人だった。目が真っ黒で、レイスの話からすれば、強い魔道師なのだろう。瑞樹は「色っぽい魔法使いのおねいさん」を体現したかのような人だ、と思わずそんな感想を抱く。
もう一人はダークグリーンの髪に同じ色の目をした男の人だった。暗いその色合いを考えれば、その人も多分強い魔力を持っているんだろう。けれども瑞樹には、どうしてかその人が魔道師とは思えなかった。
ダークグリーンの男の人が前に出る。青い女の人が片眼鏡越しに瑞樹を見るのに委縮しながら、瑞樹は頭を下げた。
「は、初めまして。瑞樹、といいます」
礼儀として正しいのかは分からない。男の人が多分とても偉い人なのだろうという事は感じ取れた。人に居住まいを正させずにはいられないような、そんな空気を持っている男の人である。
男の人が瑞樹を見て目を細めて微笑む。そうしてまた一歩瑞樹に向かって踏み出そうとしたところで、制止の声が掛かった。
「ちょぉっと待ってぇ」
間延びして艶っぽい声の制止は、青い女の人から出たものだった。男の人が止まる。そして瑞樹に視線を向けたまま、問いかけた。
「どうかしたのか?」
視線は瑞樹に向いていたけれど、それが瑞樹に対する問いかけではない事は明らかだ。男の人に答えて女の人が前に出る。
「んぅ~、術の気配がするわぁ……誰かしらぁ?」
片眼鏡が付いた左目だけが細められて瑞樹を凝視する。そうしながらも口元はニィィ、と笑顔を形作る。なまじ顔が整っているだけに、その表情は恐ろしかった。
「あの、私……?」
思わずあとずさる瑞樹と、それに構わず距離を詰めてくる青い女。
「とは言ってもぉ……聖殿内でこんなおイタができる子なんてぇ一人だけよねぇ……」
その言葉を聞いたレイスともう一人の男の人の顔が強張る。それを見た瑞樹は、ふと瑞樹の心臓に手を差し入れた少年を思い出した。
女の人の青い爪の手が伸びる。瑞樹の肩を掴み、瑞樹の目を覗き込んで言った。
「聞いてるんでしょぉ、可愛いぃぃルウィンぅ? 出ておいでぇ」
ねっとりと絡みつくような声と目に、瑞樹は硬直する。
「でないとぉ、こ・の・子、が痛い目に合うわぁ」
この子、というのが瑞樹の事を指しているのは直ぐに分かった。青い鋭い爪がそうっと瑞樹の頬を撫でる。爪の感触に瑞樹は震える。
女の背後ではレイスが苦い顔をしていたが、瑞樹にはそれに気付くだけの余裕すら無かった。
「そのクソ気持ち悪いしゃべり方やめてくんない? 鳥肌立つんだけど」
聞き覚えのある少年の声が聞こえて、瑞樹の頬に当てられた女の手が掴まれる。その手の先にあるのは、黒髪黒目の端正な少年の顔。瑞樹の心臓に手を差し入れた少年だ。
青い女はやはり、ニィ、と笑う。
「嫌よぉ。この口調ぉはレイスとぉ貴方に対するぅ嫌がらせですものぉ」
その言葉に、レイスと少年は揃って顔を顰めた。




