02
髪と目の色が濃く暗ければ暗い程程、強い魔力を持っているというのがこの世界の常識であった。別の世界ではその法則が通用しない……ましてや魔法が無い世界があるのなどと、考える者は誰一人としていなかった。
レイスが持ってきた水盤に血を一滴垂らした客人は、その特に変化のない水盤を見つめていた。一滴の血の色が滲んで混ざって、その色が分からないくらいに薄く融けるのを見守る。
その結果に、レイスは思わず眩暈を起こしそうになる。
「魔力反応が一切、ありません。……あなたはどうやら、本当に魔力が無い」
「そうでしたか」
茫洋としている様に聞こえるほどに淡々とした客人の言葉に、湧き上がった絶望を飲み下す。
(これだけの髪と目を持っているのに、魔力が一切ないなどという事が有り得るのか)
レイスも言語や風習の違いなら想定できていたのである。その違いを吸収するための文言も召喚の呪に組み込まれている。召喚の呪は単に客人を呼ぶだけでなく、その魂と体に、この世界の言葉を埋め込んでいる。
呼び出す客人の髪と目の色も、呪で指定していた。魔力の強さを条件にする方法が分からなかった。だからこその髪と目の色の指定である。黒髪黒目の人間であれば絶大な魔力を有する……はずであったのだ。
それが覆るのは、レイスにとっては悪夢であった。
彼らはこのために、三日三晩の儀式をやり遂げた。それ以前にこの儀式の呪を完成させるまでに、どれだけの人間がどれだけの時間を費やしたのか。それこそ、必死に。
この国にとって、この召喚の儀こそが希望であったのだ。儀式は成功した。けれどもその成功に全くの意味が無いとは。これでは失敗よりも尚悪い。
(一体、どうすれば……)
しかし、自失していても仕方ない。ひとまず、いっそ普通の子供よりも頼りない様子の客人を、用意してあった部屋へと通す。世話をする人間を絞り込み、客人と世話人双方に、余計な口を利かないようにと念を押した。元々、聖殿内には人が少ない上に、真実信頼できる人間しか居ない。それは現在聖殿が抱える別の事情があるからだったが、これで情報の拡散は防げるだろう。
客人本人は、ただ「まだあまりこちらの人間と話さないほうがいいでしょう」と言えば静かに頷いた。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。決して動きが無いわけではないが、表情の読み取り難い顔だった。起伏の少ない平坦な顔立ちは、この国ではあまり見かけないものである。性別すらもよく分からない。
世話人には客人の扱いに眉をひそめられた。しかし
「異世界に来たばかりで混乱し、疲れておいでだ。少しそっとしておいて差し上げてほしい」
と言って納得して貰う。そして、召喚の成功について、まだ広めない様にとも申し付けた。召喚の成功が広まれば、多くの要人たちが押し寄せるであろう。そうなっては、客人を休ませることができない。そう説明した。
それから儀式に参加した者たちの所へ向かう。彼らにも同様に口止めをする。元々召喚された客人の様子に不安を抱いていた彼らは、不審に思うでもなく了承した。
そうして一通りの処理を行ったレイスは、一息つくいとまもなく次の目的地へと向かった。
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瑞樹がレイスによって案内された部屋は、広々として美しかった。部屋の隅にある寝台は紗のカーテンが掛かった天蓋付である。着替えとして示されたクローゼットの中身は見事に白一色だった。
「申し訳ございません。ここには色の付いた服はご用意していないのです」
そう言って頭を下げた女性は、どうも瑞樹の世話を申し付けられたらしい。丁寧に部屋の中を説明してくれたのち、用があったら呼ぶように、とやはり真っ白な美しい鈴を渡された。
「鳴らせばいいんですか?」
「はい。鳴らして頂ければ私が参ります」
「分かりました。ありがとうございます」
女性が頭を下げて部屋を出ると、瑞樹はほっと自分の体の力が抜けるのを感じた。
(緊張、してたのかな)
部屋のソファに座ってみるけれど、真っ白なそれに座ってもどうも落ちつかない。暑かったコートをようやく脱いでも、それをどこに置けばいいかも分からなくて結局手に持ったままでいることにした。コンビニのビニール袋をカサカサさせながらコートを腕にかける。
どこもかしこも真っ白なこの場所は、瑞樹にはどこか滅菌室を思わせた。触れる事で汚してしまいそうだ。手に持った黒のコートやグレーのセーターが酷く異質に感じられた。
実際、異質なのである。この世界で作られた物ではないのだから。
ふと思い立って部屋の隅に置かれた本棚から本を一冊取り出した。ぱらぱらと中身を見る。
(読める……)
この部屋に案内されるまでの間に、レイスからは「言語には困らないだろう」というような事を言われていた。話し言葉ならともかくも、読む方もだったとは驚く。便利なものだ。書く方はどうなのかと、目に映ったソファのスペルを考えてみると、あっさりと文字が頭に思い浮かんだ。
(こんな便利な魔法があるんだったら、英語の試験、楽なのにな)
鞄の中に入れていた単語帳を思い出す。覚えては忘れ、を繰り返しながら、少しずつ語彙を増やしていたというのに、勉強を辞めてしまっては直ぐに忘れてしまうだろう。出かける直前に、コートのポケットに入るサイズの単語帳を持っていくか少しだけ迷って、結局辞めた事を思いだした。コンビニに行くまでの道中で見るはずも無いし、と置いて来たけれど、持って来ればよかった、と少しだけ後悔する。
(この魔法があるんだったらでも覚えなくていいか。あ、でも急に良すぎる点とったら、カンニングって思われるかな)
そんな事を考えながらぱらぱらと本を捲っていたけれど、結局読む気にはなれずに本を本棚に戻す。ソファに戻ってその隅っこに小さく座った。
(私、どうなるのかな……)
それは考えないようにしていた事であった。けれど、一度考えてしまったからには、心から抜けなくなる。
本当に帰れないんだろうか。
魔力を持たない、期待はずれの自分はここから放り出されるんだろうか。
それとも、殺されるんだろうか。
もし、殺されなかったとして、一人で生きて行けるんだろうか。
どこかで働く事はできるんだろうか。
結局の所、親や社会に守られて安穏と生きてきた瑞樹は、新しい環境で一人で生きる、というビジョン自体、全く持つことができなかった。不安な可能性は思い浮かんでも、それに具体性や実感が伴わない。だから瑞樹の不安も、ぼんやりと曖昧なものだった。他人事のようなその不安感は、それでも真綿の様にやんわりと瑞樹を締め付ける。
それでも何か行動を起こすわけでもなく、瑞樹はただぼうっとしていた。元より消極的で、自ら何かをすることが滅多にないのが瑞樹という少女なのである。放って置かれれば、そのまま何時間でもただぼうっとしていただろう。レイスの命令が正しく実行されていれば、レイスが戻ってくるまでの間を部屋で何をするわけでもなく大人しくしていたに違いない。
けれども、そんな瑞樹に声を掛ける者が居た。
「あ、やっぱ召喚、成功してたんだ」
突如部屋に響いた声に驚いて、瑞樹はキョロキョロと部屋を見回した。声の主は直ぐに見つかった。ベットの前に立っている。
(なんで?)
ベットがある壁際は、入り口とも窓とも遠い。いくら瑞樹がぼうっとしていたと言っても、入ってきてそこに立つまで気が付かない、という事があるだろうか。
いや、それ以前に、この少年は誰なのか。先ほどの言葉からして、瑞樹が召喚された人間だと知って会いに来たようである。
少年とも青年とも言えるような若い男。不思議そうな目で瑞樹を見て、無造作に近寄ってくる。元々知らない人間が苦手な瑞樹は思わず体を強張らせた。けれども少年は、それに構う事無く距離を詰め、瑞樹の目の前に立つ。
「あんたが客人なんだろ? 本当に、黒髪黒目だ」
しげしげと瑞樹の顔を見て少年が言う。摘み上げるようにして瑞樹の髪を持ち上げ、観察するように眺め、それから目を覗き込む。そのあまりに無遠慮な様子に、瑞樹は硬直するしかない。少年が非常に端正な顔立ちなため、顔を無造作に近づけられると余計に気まずいのだった。
瑞樹は少年から目を逸らす。
「あなたも、同じじゃないですか」
そう。少年もまた、漆黒の髪と目を持っていた。レイスの口ぶりからして、黒髪黒目の人間は瑞樹の他にはいないのだろうと思っていたのだ。はっきり言って拍子抜けである。
(足りないのかな)
力を持った魔道師がたくさん必要なのかもしれない。それだったら、これからまた瑞樹以外のだれかが呼ばれる事もあるのだろうか。それともレイスたちももうこれに懲りて召喚などやめるだろうか。
なるべく目の前の少年の顔から意識を逸らそうとそんな事を考える瑞樹だったけれど、少年は瑞樹の顔を両手で固定すると、上向かせてまた瑞樹の目を覗き込む。
「そうだな。同じだ」
少年が話すとその吐息が顔にあたる。それくらいの距離だった。目を逸らすにも限界があり、結局瑞樹もまた少年の目を覗き込む事になる。
(この人は、きっと、とても強い魔道師なんだろうな)
レイスの言葉を信じるなら、そういう事になる。なら彼は、瑞樹の目に何を探しているんだろうか。瑞樹と彼の共通点など、髪と目の色だけである。瑞樹に魔力は無いのだから。
不意に彼が瑞樹の顔を解放する。
「でも違う。あんた、魔力が無い」
瑞樹はその言葉に思わず俯く。それはまさしく今、瑞樹が考えていたことでもあった。レイスが道具を使って知った事を、少年は瑞樹の目から読み取った。これも魔力の強さがなせる技なのだろうか。
「……そうらしいです」
意図したことではないのに、裏切ってしまったような気分になる。瑞樹は強い魔力を期待して召喚され、けれども全く魔力を持たないのだ。きっと少年にとっても、期待はずれなのだろう。
けれども恐る恐る見上げた少年の顔は、不思議そうではあっても失望は感じられなかった。
「へえ、そっか。これが客人か。何がどうなるかわかんないもんだな。レイスはがっかりしてただろ」
「……そのようです」
レイスは表に出さない様にしているようだったけれど、隠しきれない失望が滲む態度だった。
「これからどうすんの? あんた役立たずじゃん。何されるか分かんねえよ?」
「……そうですね」
瑞樹は結局、レイスの帰りを待つ他無い。彼らがこれから瑞樹どうするのか、まるで分からない。だからそれは、寧ろ瑞樹が聞きたい事だった。
少年は無邪気とも言えるような態度で質問を連ねる。
「帰りたい? 自分の世界に」
「帰りたいです」
「帰れないよ」
「そうらしいですね」
他人事めいた瑞樹の口調に、少年は僅かに眉をひそめる。
「帰れなくていいの?」
「よくないです」
「でも、どうでもよさそうだ」
「よくないですよ」
それでも瑞樹の態度は淡々としている。それは単に、瑞樹が未だにこの事態に付いていけていないだけのことである。けれども少年は、それに関心を持ったかのように瑞樹を覗き込む。
「客人って変わってるんだな」
「……変わっているのは今の状況です」
「確かにそうかもな」
何故か少年は楽しげに笑う。瑞樹はそれにため息を吐きたくなるのを堪えた。少年のテンションに疲れを感じる。
そんな瑞樹に構う事無く、少年は目を細めて瑞樹を見た。
「あんた、むしろ普通の人間より弱いだろ。魔力耐性もゼロに近い」
「魔力耐性……」
なんとなく意味が分かるような気がするが、結局分からない。ゲームでいう所の魔法防御力みたいなものだろうか。
瑞樹がいまいち意味を分かれずにいる事に気が付いているのかいないのか、ぼんやりした瑞樹の反応を気にもしない。それはいっそ独り言のようだった。
「レイスも結構抜けてるよな。いや、三日三晩寝てないせいで判断力馬鹿になってんのか?」
少年は愉しげに言うと瑞樹の前に膝を折る。
「こんな無防備な子を聖殿内に一人で置きっぱなしにするなんてな」
俺が居るのに。と少年が小さく嘲笑う。
肩を掴まれ、驚いた瑞樹だったけれど、少年がその右手を瑞樹の胸に向かって伸ばしてきたことにもっと驚いた。左手で肩を掴まれただけで身を引けなくなった瑞樹はその右手を戦々恐々と見つめた。
その右手に、いやらしい意図は感じられない。もっと恐ろしい事である気がした。瑞樹が逃げようと身を捩る間にも少年の手はあっさりと瑞樹の胸に、
埋まった。
(え?)
瑞樹が凝視する先で、少年の手は瑞樹の中に埋まっていた。セーターが水になったかのように波紋を立てて揺れる。その水の中に手を突っ込んだように、少年の手首から先が消えている。
そして、瑞樹の体の中心、核とも感じられる部分に、何かが触れている。
まさに心臓を握られたかのような感覚だった。
痛みは無い。けれども冷たい。そして体が内側から圧迫されているかのように苦しい。
そして何かが流れ込んでくる。冷たい、何かが。
「大丈夫。あんたにとってそんなに悪い術じゃないから。ちょっとした遊びだよ」
瑞樹は胸に感じる圧迫感に、話すどころではない。流れ込んでくるものは冷たさを通り越して熱くなりつつあった。それに押されて呼吸すらままならない。できるのは少年の顔を見返すだけだ。
少年は優しいとも言える顔で瑞樹を見ていた。
「だからちょっと付き合ってくれよ? ああ、この術に気付いた時のレイスの顔が見ものだ」
少年が愉しそうに嗤う顔を最後に、瑞樹の意識は途切れた。




