01
聖官、レイス・トゥ・レカールが考えていた客人とは絶大な力を持つ人間だった。それは人知を超えた存在であり、その圧倒的な力で彼らの危機を救ってくれる……筈だった。
だというのに、今目の前に居るのは、子供にしか見えない。
怯え、戸惑い、救いを求める只の子供。
「私の言葉が分かりますか?」
レイスは態度を少し変える事を決め、できる限り穏やかな口調と声を心掛けて語りかける。部屋にいる彼以外の人間が動揺するのが伝わった。客人を神にも等しい存在だと考えるのであれば、不敬ともとられる言葉である。
目の前の子供は、はっとしたように彼を見ると、小さく頷いた。
「はい……分かります」
客人が初めて発した言葉は、やはり不安げで小さく掠れている。レイスはじわりと湧き上がる不安を押し殺して優しく微笑んだ。
「私はレイス・トゥ・レカールと申します。レイスとおよび下さい。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「……瑞樹、です」
「ありがとうございます。ミズキ、とお呼びしても?」
またも周りの人間が動揺するのが分かる。敬称もつけずに名を呼ぶことは、場合によっては大変な無礼だ。それを客人に対してするなど、正気の沙汰ではない。
けれどもレイスは既に確信していた。レイスが、そして他の人間が跪いた時、この客人は確かに動揺したのだ。過度に敬う態度は、この子を怯えさせるだけだろう。
「はい……あの、レイス、さん……」
「なんでしょうか」
「私は、帰れるんでしょうか」
レイスには部屋に居る術者たちの何人かが顔を上げた事が気配で分かった。それに客人が身を竦ませた事も。
その頼りない声、帰る事を望む言葉は、彼らに衝撃を与えるに充分な物だった。
レイスを含む彼らのイメージしていた客人は神にも近い存在だった。それが彼らを見捨てようとしている事、まるで力を感じさせない様子をしている事、はまるで考えていなかった事だった。
客人に向けられる視線の中には、憎悪に近いようなものまである。レイスもその気持ちは分からなくも無かった。レイスを含め、ここに居る者たちは皆、この召喚を成功させるために血が滲むような努力をし、三日三晩にわたる儀式をやり遂げたのだから。
全ては客人が自分たちを救ってくれると思えばの事である。レイス自身であっても、目の前に居るこの子供に失望を禁じ得ない。
けれども、彼はそれを決して表に出すまいとした。例えそれが思っていなかったような人物だとしても、最大の願いであった漆黒の目と髪は確かに持っている。
ならば問題ない筈なのだ。
けれども、この子供をこれ以上彼らの視線にさらすのは避けた方がいいかもしれない。いたずらに不安を与えてしまう。
とっさにそう判断した彼は、客人に優しく笑いかけた。
「ミズキ、部屋を移して、少しお話をしましょう」
子供は、不安げに頷いた。
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斉藤瑞樹はライトノベルもWeb小説も良く嗜む人間である。故に、自分が所謂「異世界トリップ」をした状態にある事を理解していた。
この世界に出てきた時の状況からして、自分は恐らく「召喚」されたのであろう。だから既に、特別な人間として捉えられている。そして何らかの力によって彼らを救う事を求められている。と、それを見て取る程度の洞察力もある。
瑞樹は虚構の世界を愛する少女だったが、しかし自分自身には一切の冒険を求めていなかった。物語の主人公に自分を重ねた事すら無い。自他ともに認める大人しい人間であり、何事も無難にやり過ごしたいと思っている。そんな子であった。
(夢だったらいいのに……)
だから、こんな状況は苦痛でしかない。
前に立って彼女を導くレイスという男は美しかった。人間離れして優美な顔立ちは女性的ですらある。けれどもローブの上から見ても体つきは、細身ながらも男性らしくしっかりしているらしく、声も低い。テレビ画面やポスターの向こうに見るのであればどんなにか良かったか、と考えざるを得ない。
白い部屋を出ても、目に映るものは白が多かった。建物全体が白を基調として作られているようである。
すれ違う人は居ない。時折前を歩くレイスが振り返って、瑞樹が付いて来ている事を確認する。その度に瑞樹は思わず、彼から目を逸らすのだった。手に持つコンビニのビニール袋がカサカサとなるのが酷く居心地が悪い。
そう長くは歩かずにたどり着いた部屋の前に、レイスが立ち止まってドアを開けた。
「どうぞ」
立ち止まって瑞樹を待つ様子に息苦しさを感じる。それでもその部屋に入る以外の選択肢は無い。瑞樹は無言で頭をさげ、おずおずと部屋に入った。
そこはテーブルとイスの置かれたシンプルな部屋だった。大きな窓があり、そこから日光が差し込んでいる事にほっとするのと同時に怖くなる。彼女はついさっきまで、夜の町に居たはずだったのだ。寧ろコートを着た状態では暑いくらいなのに、ぶるりと身震いが出る。
レイスに進められるまま、瑞樹は椅子に腰かける。椅子は瑞樹にはやや高い物であったらしく、座ればどうしても足が浮いた。ここの人間は総じて瑞樹よりも足が長いのかもしれない。
(これじゃ、子供みたい)
床に付かない足がどうしても少しぶらぶらと揺れるのが恥ずかしい。
俯いてテーブルの縁を見つめる瑞樹に、レイスが優しく声を掛ける。
「お帰りになれるか、と聞きましたね」
「はい……帰してくれるんですか?」
微かな希望に縋るようにレイスを見た瑞樹に、一瞬だけレイスの眉が顰められた気がした。それに身が竦みそうになるのを堪える。
「残念ながら、今の我々は、客人を元の場所に返す方法を存じません」
瑞樹がその言葉を咀嚼するのには2秒ほどの時間を必要だった。
(帰れない……)
それに絶望するには、この状況自体に現実味が無さ過ぎた。コートを脱ぎたいと思うような暑さも、汗ばむ体も、手の中のビニール袋の感触も、あまりにリアルで夢とも思えない。家を出てチョコレートを買い、謎の光に遭遇してここに来るに至るまでの記憶もしっかりと連続している。
それでも実感が付いてこない。帰れない、という言葉も、身に迫って感じる事ができないのだ。
それは現実逃避と言われるに近い心の動きだったが、彼女自身はそうとすら認識していなかった。
瑞樹自身は冷静になったつもりで、まずは現状把握をしようとレイスに問いかける。
「私は、どうして呼ばれたんですか?」
帰れない、という事を責められる事を予想していたレイスは、それに僅かに安堵する。
「我が国には今、どうしても力ある魔道師が必要なのです」
「魔道師……」
「はい。多くの国々が我が国を攻め落とさんと爪を研いでおります。外交と今ある力でで何とか抑えてはおりますが、それにも限界があります。このままでは戦争になります」
「戦うんですか?」
「あなたに戦えと言っているのではありません。むしろ戦いを起こさないための抑止力になって頂きたいのです」
「抑止力」
「はい。あなたほどの魔力があれば、一人でも国の一つ、二つなら落とす事ができるでしょう。あなたが我が国を守ると言えば、それだけでこの国に牙を剥かんとしてる国を抑制することができます」
「魔力……」
瑞樹はそこで考え込んでしまう。レイスは当たり前のように、瑞樹に強大な魔力があると言ったけれど、それを真に受けていいのだろうか、と。
先に述べたように、瑞樹は小説、特にファンタジーを良く好んでいたから、「異世界トリップ」と言われるジャンルがあり、それに今の自分が該当するという事を理解している。
そのジャンルに置いて、特に「召喚」で呼ばれた人間は、その世界において特別な力を持っている事が多い。だから瑞樹も、自分がレイスの言うように強大な魔力を持っているのではないかと考えないでもない。
しかし、瑞樹という少女は臆病な人間だった。自分のやる事を決める岐路に置いて、彼女が常に無難な方、簡単な方、確実な方を選択してきたのは、その臆病によるところでもある。
瑞樹は祭壇の上に居た時の周りの人間の反応から、「この人たちは異世界人というものを良く知らないんじゃないか」と悟っていた。自分自身が混乱していたとはいえ、自分の言動にローブに人間たちが動揺しているのに気付かないわけでは無かったのだ。
なによりそれ以上に、臆病な瑞樹には「自分が特別に力がある人間である」という事をそのまま受け入れるのが怖かったのである。
臆病で消極的で心配性。それは決して良い性質とは言えないが、それによって瑞樹は流される前にレイスに問いかける事ができたのでった。
「私の居た世界には、魔法がありませんでした。それでも、私には魔力があるんですか?」
レイスは、考えもしない事を聞いた、とでも言うように、目を大きく見開いた。
「し、しかしあなたのその目も、髪も、その色は。絶大な魔力を持つ人間しか持ちえないはずです」
白い部屋のローブの人間たちが動揺を露わにしていた時も、落ち着いた様子を崩さなかったレイスだが、今は動揺を隠せていない。
「色、ですか? 私の髪も目も、私がいた国ではごく当たり前の色ですけど……」
瑞樹の髪も目も、純日本風の真っ黒だ。
「それはやはり、力ある者たちの国なのでは」
「そんな事は、ありませんけど……むしろ勤勉さとか真面目さが売りの国民性というか」
レイスの焦り様を見て、瑞樹は却って落ち着いていた。聞いてよかった、と思う反面、不安でもある。もしこれで瑞樹に期待した魔力が無いという事になったら、瑞樹は全くの役立たずである。そうなった時に瑞樹がどうなるかは分からない。最悪、殺されるという事もありうる。
それでもやはり、瑞樹には実感が湧かない。レイスが魔力を測る道具を持ってくると言って部屋を出て行った時も、ぼんやりと見送るだけであった。
部屋で一人になった瑞樹は、コンビニ袋からチョコレートのパッケージを一つ選び、開ける。個別包装のチョコレートを一つ取り出して内包を開き、口に含んだ。
(この世界って、チョコレートあるのかな……)
異世界ものの主人公たちが、飛んだ先の世界でチョコレートが無い事を嘆いたり開発したり、というのは良くある話である。これを食べきったら食べられなくなるかもしれない、と思っておいた方がいいんだろう。
そんな事を考えている時点で、瑞樹にはやはり、今の事態についての実感が伴っていない。
瑞樹は頬のニキビを無意識に触りながら、口の中の甘さをゆっくりと味わった。
レイスが魔力を測る道具を持って戻って来たのは、瑞樹が一粒のチョコレートを舐めきってからそう経っていない頃である。
結論から言って、瑞樹には一切の魔力が無かった。




