第55話 学園への帰還
朝食よし。持ち物よし。情報……足りない。
「じゃあ俺はちょっと出かけてくるので、少し待ってて下さい」
魔族に関する情報が欲しいからな。あとはそうだな……。
「すぐ学園に戻れるよう、準備しといてください」
準備に時間がかかるなんてのは困るし。学園に戻っても、まだやることはあるのだから。
「遅くても3時間以内に戻るので」
のんびりとした空気でお茶を飲んでいる一同にそう言い、口答えされないうちにそこから飛び出す。
今は午前9時前。予想外の事態でも起こらなければ昼前には戻ってこれるはずだ。
これから闇街に行くのだ。あそこにある情報屋で悪魔について、1度聞いておきたい。
道すがらに見つけた古着屋で目立たないローブを1着買い、裏路地に入って闇街へ向かう。
昨日と変わらず物騒な雰囲気の闇街には、相も変わらず怪しい奴らが行き交いしている。
ぶつかると必ずと言っていいほど面倒ごとに巻き込まれるので、人と人の間を縫うように歩いていった。
闇街でもずっと奥の方。加えて、見つかりにくい場所に位置している情報屋は、一見すると寂れた居酒屋だ。
中にはいつも情報屋が1人……たまに客が2、3人いる程度だ。その客が酒を求めているのか情報を求めているのか、俺には知りようがない。
ドアを引いて店内に入ったが、今日は客が見えない。いつも通り、情報屋が1人でカウンターの奥に座っているだけだ。
「おやぁ? 今日も来たのかい」
店の外見を居酒屋にした情報屋は、占い師のような格好をしている。頭にベールを被っているので、それが顔の半分以上を隠していて性別が判定できない。服装もゆったりしているものなので、体格から予想するのも不可能。声なら、と思っても中性的なのでこちらも無理。分かるのは、見える肌と声からして若いことだけか。
ニタリと笑った口元を見ると、なんだかとってもぶん殴りたくなった。
「えぇそうですよ。今日も来ました」
まったく、俺もちゃんとフード被って顔を隠しているんだが……何で見てすぐに分かるんだ。
フードは取らずにカウンター席に座り、「ミルク」と注文した。
「えぇ~。たまにはお酒を注文してくれてもいいのにぃ」
こんな危険な場所で酒なんか飲めるか。
じろりと睨んで早くするよう急かすと、1分もしないでミルクを出された。
「で、今日はどうしたのかな?」
「魔族について。表が知らないようなことがあれば教えて下さい」
「魔族、かぁ……」
情報屋が顎に指を当て考えているので、温かいうちに飲んでしまおうとミルクに口をつける。
「ここ何十年も人類とは関わっていないやつのことを、何で調べるんだい?」
「質問に質問で返さないでくれませんか」
「おっと、こりゃ失敬。でも残念だけど、そういう情報は表と変わらないと思うよ」
へぇ、それは珍しい。
俺の心の声が聞こえたのか、情報屋は不満げに唇を尖らせた。
「魔族に関しては、表が隠していることがない。そして、表が調べ足りてないなんてこともない。つまり、どこで聞いても同じなんだぁ。君がただ単に『魔族について情報を教えろ』と言ったら情報を売れたけど……『表が知らないような』って条件をつけられちゃったからねぇ。嘘を言えば信用に関わるし……。だからここで教えられることは何もないよ」
「そうですか」
無闇に情報を求めると何でも教えられるから、その時に払う対価が大変なことになるのだ。
こいつが求める『対価』は金のときもあるが、金ではないものを要求してくることもある。だから充分に注意が必要だ。
ともあれ、何もないならこれ以上ここに居ても仕方ない。こんなところからはさっさと出たいのが本音だ。
「ではそろそろお暇しますよ」
ミルク代より少し高めの代金をテーブルに置くと、情報屋は口元を微かに歪め、「毎度ぉ」と笑った。
一応、『表でも裏でも魔族に関する情報に違いはない』という情報を教えてもらったから、上乗せしたのはその分の代金だ。
それから早足に闇街の通りを歩き、どろどろとした雰囲気の場所から出た。
ああいう危険な場所はいつどこで何が起きるか分からないから嫌いだ。あそこに居る人間も、後ろめたいことばかりやっているのだろう。……俺もだけど。
ギレンラ邸に戻ると、生徒達やエイダ教官はすでに荷物の準備を終えていた。
「ノア教官の荷物もまとめておいたほうが言いかと思ったのですが、全然なかったので何もしていません!」
何故か胸を張っているエイダ教官の胸が大きさを主張しているのでしっかりとそれを目に収めておく。え、エル一筋じゃないのかって? 楽しい思いはしておきたいとは思いませんか、諸君。
俺の荷物はすべて俺の異空間ポケットにしまってあるので問題ない。いつかこの異空間ポケットの使い方も教えるべきかもしれない。これはなかなか便利なもので、大概の物質ならば中に入れておいて問題ない。中では時が進まないから、食べ物の保存も可能だ。
「あらあら、もう帰っちゃうの? もっとゆっくりしていけばいいのに……」
そう言って家の奥から現れたのはエイダ教官の母親、ギレンラ夫人だ。確か名前は……名前、何だっけ? 盗み聞きしたときに名前も聞いた気がするんだが……。
あの時取り乱していたが、今見ると彼女は昨日とまったくといっていいほど様子が変わっていない。いや、いつもどおりに見えるよう振舞っているだけか。化粧で誤魔化しているが、目元も赤い。
「ギレンラ夫人……」
「なぁに?」
穏やかに返事をしてくれたが、俺は知っている。この人が数時間前まで泣いていたことを。
でも、俺がこの人にできることなんて、ない。何か言えば盗み聞きしていたと白状することにもなるし、あいつを殺すとは決めたが理由は私怨なのだから。
何より、この人のような人は復讐なんて望まないだろう。
「……いえ。何でもないです。申し訳ありません」
「うふふ。あんまり抱え込みすぎちゃ駄目よ? あなたはまだ若くて、やれることだってたくさんあるのですから」
「はい……」
俺が死ぬまでにやることなんて、もう決まっていますなんて言えない。
「でも、どうやって学園に戻るの? 行きは、何か変な魔道具を使ったってエイダから聞いたけれど」
「あはは……」
エイダ教官がこちらを見ているから教えられない。聞かれたら全力で反対される。体調が悪くなるといっても、そんな大したことでもないのに。一度やったからたぶん慣れたと思う。
「あー、ほら、もう行きましょう。早めに戻ったほうがたくさん休めるでしょう? ね?」
じぃぃっとこちらを見つめるエイダ教官の視線が痛い。剣で身体を貫かれるよりも痛い。心が痛い。
心をぼろぼろにしながらも説得すると、しぶしぶといった様子でエイダ教官は頷いた。
こうなったらエイダ教官の気が変わる前にあの魔道具を使うしかない。そうです、あれを使います。だってあれしかすぐに帰れる方法が見つからないから!
全員居ることを確認し、中庭に移る。付き添いなのか何なのか、ギレンラ夫人もついてきた。
中庭から屋敷を見上げると、ある一室の窓から仮面が現れた。その仮面のそばには、影の薄い一人の男性――クリフがいる。
2人は数秒間俺を見下ろし、そして窓から消えた。
何だったのかよく分からないが、見送りのつもりだったのだろうか。人見知りで引き籠りのレイシェイラはともかく、クリフはこっちに来られただろうに。
……よし。
「では皆さん。なるべく俺の近くに来てください。嫌だろうと何だろうと近くに来てください」
「ノア教官、やっぱり……」
「はいはい、エイダ教官も。俺のこと嫌いでも怖くても来てください。しばらく俺1人で教官をやれと言うなら来なくてもいいですけど」
この魔道具の効果がどれ程の距離まで届くか分からない。だから皆にはなるべく近寄ってもらわなければならない。
反対に、転移させるつもりのない人は離れてもらう。不思議そうな顔をしながら近寄ってきたエイダママとかな。
「はいではいきますよー。あ、そうだエレン君」
ちょうどすぐ近くにいたエレンの耳に口を寄せ、他のメンバーには聞こえないよう小さく囁く。
「学園に戻って少ししたら、もう1度俺の部屋に来てください」
えっ、と疑問の声を上げたエレンを無視し、すぐさま魔道具を胸の前に掲げる。
「『ブランシュ学園の俺の部屋』へ」
言い切った瞬間、魔道具から光が溢れ、同時に視界がぐにゃりと歪んだ。
――気持ち悪い。
「自分の部屋への戻り方は分かりますね? なら今日はもう解散です。明日しっかり授業に出るように」
――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
何ともない顔をして口元を笑みに変え生徒とエイダ教官に見せつける。特にエイダ教官。
俺は健康だ。再び倒れたりなんかしない。昨日とは違う。だから大丈夫。心配しなくてもいい。
笑顔でそう伝えながらも、胃の中のモノが今にも逆流しそうで怖い。
早く出ていってくれ。人が吐く様子なんて見たくないだろう。エイダ教官だって、何か知らないが責任なんか感じてくれなくていい。だから早くここからいなくなってほしい。
最後に、俺が平気そうにしている姿を見て安堵したエイダ教官と俺に何か言いたげなエレンを部屋から追い出し、俺は笑顔を消した。
「うっ……」
それからすぐにトイレへ駆け込んだことは、言うまでもない。
「うぅ、はぁ……おぇぇ……」
部屋に備え付けてあるトイレの便座の前で座り込み、顔を便器に突っ込んで吐き続ける。一晩かけて飲んだ酒は全て流され、今は胃液が逆流している。
あぁ、くそ。今度は気絶しなかっただけマシだが……これじゃ動けない。頭は重いし身体は怠い。胸の中がムカムカして吐いていなくちゃいられない。生理的な涙だって出ている。
何なんだよ、この魔道具。副作用が激しすぎだろ。
「ごほっ、おぇっ」
いつになったら治るかな、これ。昨日は少し寝たら良くなったんだっけ? でもやりたいことあるしなぁ……。
「――教官? どこですかー?」
エレン来ちゃった。こんな姿を見せる予定はなかったが……仕方ない。思ったよりこの魔道具が悪辣だったんだ。
「きょうかーん? 鍵開いてたから入っちゃったんですけど……」
君がいつ来ても大丈夫なようにしてたんだよ。
エレンは部屋を覗いたりして俺を探している……と、声から分かる。「この部屋じゃないな……」などという呟きが聞こえてくるのだ。
トイレを探すのは最後の最後になったらしく、「あとは……」と呟かれた。そして、エレンは便器に突っ伏して怠そうにしている俺を見つけたのだった。
「教官!?」
驚いてるなぁ……。
「まさか二日酔いですか!? あ、それともさっきの魔道具が……!」
後者です。
だが首を振ろうにも気持ち悪くてそれができない。
エレンは俺の丸まった背中を撫でてくれた。嬉しいけど悲しい。エレンが女だったらどれ程よかったか。
撫でられ続けてしばらくすると、気持ち悪いのが少しずつだが収まってきた。
なので、まだぐわんぐわんするが我慢して立ち上がり、洗面台まで行って口を洗った。自分の吐瀉物が残っていては、気持ち悪いのも治らない。
何度も口の中を濯いで、ついでに冷たい水で顔を洗ってから改めてエレンを見る。
「……エレン君」
「はい……?」
戸惑ったような表情のエレンに、俺は今から頼み事をする。それはとても辛い頼みだ。こんなのを頼むのは俺の良心が痛む。だが時間は惜しい。
そこで俺は最大限の礼儀をもってエレンに頼み事をする。これ以上はないくらいの低姿勢で。
そう、それは――
「頼みます! 俺をじじいのところへ連れていってください!!」
「えぇええええ!? 教官!?」
――土下座。
この世界では東方の国にしか伝わっていないという、究極の礼儀の表し方。これを俺はクソ神からされたことがあるが、今はどうでもいいことだ。
土下座なんか前世ではやったことがない。そういうことをしなければならない状況に陥ったことがなかったのだ。
だがこの世界では既に何回かやった。スライディング土下座などもやったことがある。
この世界で鍛えた俺の技を、今こそ使うべき!
「君はじじいの1日が分かると言っていましたよね? だから、俺は君に頼まなければなりません! 後で、なんて言っていて、またあいつが現れたら遅いんだ! 少しでも早くあいつの弱点を知り、対抗できる術を持たなきゃならない! 次に会ったときは――」
――殺せるように。
最後は囁くように小さい声になってしまった。こんな言葉をエレンに聞かせていいのか、迷ったのだ。
だがエレンにはしっかり聞こえていたらしく、今は床のすぐ近くにある俺の目からも、彼が後ずさったのが分かった。動揺している……のか?
しかし動揺されても嫌がられても、ここで退く訳にはいかない。俺にとってあいつは殺すべき相手であり、この世界にとっても脅威であるのだから。
「お願いします、エレン君。あのじじいのところへ――アルドヘルムのところへ、この魔道具で!」
額を床に擦り付けながら取り出したのは、副作用が激しすぎる転移用の魔道具。たったさっきまで――否、今も不調にさせてくれている、とっても便利な代物だ。
「これを使うよう頼むのは、本当に心苦しい……。ですが、これを使う以外にアルドヘルムのいるところへ行く方法が思い付かない。思い付いても、数日かかる方法しかないんです」
「……待ってください。『あいつ』って誰ですか?」
「あの人のところへ連れていってくれたら、教えます。正直、あいつのことを君のような市民に言っていいのか分からない。だが、その身を犠牲にさせても何も言わないのは……道理に反する」
いつ殺されてもおかしくないくらい強い化け物がいると教えたら、きっと怯えるだろう。怖がるだろう。そんな脅威のことを、まだ成長しきっていない子に言ってしまうのは気が引ける。
しかし魔道具を使ってもらう対価に情報を提供しろと言われれば、俺は教える。それはエレンの気持ちも利用した汚いやり方だが、今の俺にはそんな弱さしかないのだ。
土下座したままの俺のそばでエレンは膝をつき、「殺せるように、なんて言わなければ気にならなかったのに」と、諦めたように言葉を落とした。
「適当に誤魔化せばよかったじゃないですか」
その通りだ。だが、やはりこの魔道具を使わせるのに嘘を吐くのは抵抗がある。
「……案外、この魔道具は強烈なので」
「教官って変なところで真面目ですよね」
へ、変なところ……? それはどういうことだ。俺は普通に真面目だぞ。
ゆっくり顔を上げてみると、エレンは困ったように笑いながら手を出した。
「……お手でもしろと?」
「そうじゃない!!」
え、じゃあ何だ。この体勢で手を出されると右手を上に乗っけたくなる。俺は犬か。
盛大に突っ込みを入れたエレンはやけくそになったように立ち上がった。しかめっ面なのが不憫に見えるんだが?
「魔道具を! ください! あのじいさんの1日の予定を全部知ってるって言ったから、俺を頼ったんでしょ!? 真面目に頼み事をされると断れないんですよ、俺! それに、教官凄い焦ってるじゃないですか! あんたみたいな人に焦られるとこっちまで慌てちゃうんですよ!!」
「エレン君いい子」
「はぁぁ!?」
無意識に呟いてしまった一言にも叫び、ようやく落ち着いた様子を見せた。
皺の寄った眉間を指で揉みほぐしながら、俺をエレンにしては少々、いやかなり鋭い目で睨み付けている。
「とにかく、魔道具を渡してください。見てたから使い方は分かりますんで」
「アッハイ」
なんだろう、エレンが怖い。
言う通りに魔道具を大人しく渡すと、エレンはそれを物珍しそうに手に乗せて眺めた。
「……まさしく金た」
「教官! 行きましょう! 魔力を流せばいいんですよね!?」
「やだなぁ、そんなに急ぐといいことありませんよぉ?」
「誰のせいだよ!?」
「俺ですよねー」
エレンが突っ込み属性だと確認したところで、そろそろ行こう。
未だ残る気持ち悪さを深呼吸したりして誤魔化していると、こちらを不安そうに見ているエレンと目が合った。
「……覚悟しといてください?」
なるべく軽いノリでそう言ったのだが、エレンは顔色を悪くさせてしまった。口元には諦めの笑みすら浮かんでいる。
「……『エイリング辺境伯領の俺の家』へ」
そうして、視界がぐにゃりと歪んだ。




