第51話 悪夢からの目覚め
胸糞悪い展開だと思われる方がいらっしゃると思います。ご注意下さい。
目を開けて、見えたのは知らない天井――ではなく、非常に見慣れた天井だった。
そう、俺はエレノアと結婚してシエラも生まれた幸せ者のアディニス・レヴェリッジ・レイリッジだ。
何故かこの天井を見るのがひどく久しぶりな気がするが、昨日もここで目覚めたというのに、変な感覚だ。
身体を起こすと横から小さく笑い声が聞こえた。
「アディニス様? 何をそんなに呆けた顔をしていらっしゃるのですか?」
くすくすと口元を押さえながらベッドの傍らに立って笑うのが俺の妻、エレノアだ。
相も変わらず可愛らしいその姿に朝から眩しくて目を細めた。
出会ったときからその可愛さはいっこうに衰えることなく、むしろ歳を経るにつれて美しさも入り交じってきたので色気やら何やらが溢れていて非常に悶絶ものだ。他の男には見せたくない。
……あまり、見られない状況が続いているが。
エレノアはシエラを産んでから体調を崩しやすくなり、今では魔法も満足に使えないのだ。
外に出て倒れてしまっては困るので、1日のほとんどをこの家で過ごしている。シエラもシエラで、第1王子である俺とエレノアの間に子ができたと公表していないので、あまり外に出せない。
もう少しで王になれるから、それまでシエラには辛抱してもらうしかない。守るべき存在は、弱点にも成りうるからな。
「何でもない。ちょっと懐かしい気分になっていただけだ」
「そうなのですか?」
「あぁ、そうだよ。だからそんな首を傾げなくていい。可愛すぎて、見えている首にキスしたくなる」
「……っ、え、っと、アディニス様。もう8時過ぎですわよ。もう寝惚けていないで下さい!」
耳まで赤くして恥ずかしがるエルが可愛くて可愛くて仕方がない。もっとよくその様子を見たくて身体の向きをエルと向かい合えるように変えたが、ふいと顔をそらされてしまった。
それでも手招きをすると大人しく近寄って来るので、真正面に立つように言う。
「アディニス様」
「んー?」
「じっと見られてきて、どうしたのです?」
「んー……」
何故かエルがとても懐かしいもののように思えてしまうのだ。さっきからずっとそうなのである。
天井も、部屋も、部屋に置いてある小物も、壁紙も、……何もかも。まるで数年間もここにいなかったかのように。
だからなのか、その分エルが愛しくて堪らない。
手を伸ばせばエルの方から身を屈めてくれる。手が頬に触れると淡く微笑む。
それが、その微笑みが、いつも通りのものなのに、切なく思える。胸の奥を焦がされてしまいそうなほどに、悲しくなる。
「エル……」
表面上は余裕ある表情を崩さないよう俺も微笑んでいるが、内心では何故だか泣きそうなくらいメンタルがボロボロに成り果てていた。
エルは俺の笑顔の仮面を訝しげに見つめたが、内心までは読み取れなかったらしい。
こんな焦っている心を知られれば何があったか聞いてくるに違いないから。
「アディ……っ」
怪しむエルを誤魔化すためか、はたまたエルに触れることで落ち着きたいと思ったのか。
よく分からないままエルの唇を奪い、深く重ね合わせた。
「ん……ふ、ぅ……っ」
「愛してる……」
息苦しくなり漏れゆく喘ぎ声をも飲み込むように更に深く深く唇を重ねると、力の抜けたエルはベッドに膝をつくように俺にもたれ掛かってくる。
そんなエルを逃がさないように腰を引き寄せ後頭部を押さえつける。
「アディ……ニス、様ぁ……?」
「……今は、黙って」
彼女は息苦しさに肩で息をしているが、まだまだ放したくなかった。
エルを押し倒し、両手を自分のものでベッドに縫いつけキスを続けた。
柔らかい唇。汗が滲んでくる手。口の中を舐める度に震える身体。漏れる甘い声。
全てが、エルである証拠だ。ここにエルはいる。いなくなってなんかいない。そう、死んでなんか――
――死んでなんか、いない……?
何か、記憶が蘇ろうとした。だが――。
「あ、でぃ……んっ……」
「愛してるよ、エル。ずっと、永遠に……」
今は思い出したくない。エルに夢中になっていたい。
そう思って、俺は、蘇ろうとした謎の記憶――とても大切なもののように思える記憶を、意識の底に沈めたのだった。
エルが息絶え絶えになってようやく唇を離すと、小さくお叱りをいただいた。
「朝から体力を使わせないで下さい! これなら外を出歩いた方がよほど楽です!」
「じゃあ夜ならいいのか? でもそれだともっと体力使わせると思うけど。あと、ここなら倒れてもすぐ介抱できるからいいじゃん」
「キス禁止にしますよ!?」
と、こんな具合に。
キス禁止は嫌なので朝はしばらく激しいキスは控えることにした。
「ぱぱ!」
部屋のドアを勢いよく開けて俺の胸に飛び込んできた幼女は、俺と同じ銀髪隻眼だ。だが顔や雰囲気はエルに似ている。
この可愛い子こそが俺の愛しい娘である、シエラだ。
「おー、シエラ! 今日も可愛いなぁ!」
「えへへー!」
グリグリと俺の胸に頭を押しつけてくるシエラはとてつもなく可愛い。天使だ。
「アディニス様、いつも通り、顔がだらしないことになっていますわ」
「天使の微笑みに勝つことはできないから……」
「むー?」
可愛い。首をこてんと傾げるシエラが可愛すぎてつらい。心臓が止まりそうだ。
白に近い銀の髪を優しく撫でていると、シエラはくすぐったそうに身じろぎした。そして目を細める。
「ぱぱ、今日は、遊べる?」
「うーん、ごめんなシエラ。今日も無理そうなんだ」
書類を片付けなくてはならないのだ。前にも増して仕事は増える一方で、こうして朝早くにしかシエラと一緒にいられない。夜帰ってくるときには、この子はもう眠っているから、この時間しかないのだ。
「むぅ……」
「もう少ししたら、毎日遊べるようになるから、今は我慢してくれ。なっ?」
「ん……分かってるもん。ぱぱ、お仕事忙しいんだもん」
『いい子』であろうとするシエラが唇を尖らせているその様子がどうしようもなく可愛いんだが、俺はどうすればいいんだ……?
「こほん。アディニス様、そろそろお時間ですわよ。だらしない顔を戻してくださいまし」
「え、あ、はい」
にっこりと威圧感溢れる微笑みを浮かべたエルに頷き、もう流石に身支度を始めることにした。
「じゃあ、シエラ」
抱っこしていたシエラを床に下ろし、――た、その瞬間のことだった。
俺の右足がシエラの身体を蹴り飛ばしたのは。
「――?」
自分が何をしたのか分からず呆然としたのもつかの間だ。
有り得ないほどの恐怖が俺の全身を襲った。
「違ッ……! 何で……」
目を見開き硬直するエルの前で、俺は自分の娘にツカツカと歩み寄り再度蹴りつけた。
シエラは軽々と宙に持ち上がり壁に激突し、床に落ちた。俺に蹴られて傷ついた頬から血が流れている。
小さな身体を大きく震わせながら、シエラは泣き声を漏らす。
「ぱぱ……? ぱぱ、いたいよぅ……」
「シエラ、違う、俺は、こんな……何で、どうして……」
身体が勝手に動く。愛する家族をいたぶらんと身体が行動する。
そこに俺の意思は皆無だ。
「アディニス様!!」
シエラへ足を進めた俺を後ろから羽交い締めにし、エルが魔法を使おうと魔力を操るのが分かった。
駄目だ。魔法を使ってはいけない。子供を産んでから君は魔法を使うと体調が悪くなるのに。
だが俺を――俺の身体を止めるには、魔法なしには無力も同然だったのだ。
ただ、俺も魔法を使えることを忘れてはいけない。
「エル、シエラを連れて逃げてくれ。ここから、俺から逃げて。たぶん俺を止められるのは……」
誰もいない、とは言わない。しかし誰がいるかも分からない。
妻をも傷つけようと動く身体を制御しようとし、失敗する。
エルは俺の拳に殴り飛ばされた。
シエラと違って受け身を取れたのが唯一の救いだ。彼女は一通りの戦闘ならこなせる。小さい頃からのお転婆が役に立ってくれた。
「アディニス様、原因にお心当たりは!?」
「ない。だから早く逃げてくれ。止められないんだ。止まってくれない。勝手に動く……逃げろ!」
切羽詰まった声で逃げるよう急かす。エルも解決策を探すように俺を睨み歯を食い縛ったが、諦めたのだろう。凄まじい速さでシエラを抱きかかえ、部屋を出ようとする。
それを俺の身体がドアの前まで移動して止めてしまう。
何故だ? 何故こうなった?
さっきまで普通に動けていた。それなのに、何故こんな急に――!
俺は小さい頃から鍛えていた。肉体も、魔力も。全ては、この世界で生きるために。そして大切な人を守るために。
今回はそれが仇となった。
エルも戦える方だ。武家の生まれである彼女はそこいらにいる令嬢と違い、戦いに長けている。
だが英才教育を施され、しかも死闘を繰り返してきた俺には負ける。
俺のどこかが2人に触れる度に傷つく肌。滲む血。漏れる呻き声。
エルに抱えられたシエラは大声で泣きながら俺を呼ぶ。
「ぱぱ」と呼ばれ、いつもなら抱き締めるこの腕は拳を握る。
「やめろ……やめろ……!」
身体が勝手に動くことより2人を傷つけてしまうことが怖い。恐ろしい。絶望しかない。
ついにエルが倒れると、右の掌がゆっくりと2人に狙いを定めていくのを感じる。
「やめてくれ……嫌だ、何をしてるんだ、こんなこと……!」
身体の中心から奪われていく魔力を止められない。
掌からは俺にとって攻撃の十八番である氷が生成される。
そしてエルが俺の瞳を見上げた瞬間――
「やめてくれぇえぇぇええぇ!!」
――鋭く硬い、氷の刃が解き放たれた。
真っ赤なモノが床に広がっている。それは俺の家族のモノ。
全身をボロボロにし胸の中心を貫かれた女性と、その女性に庇われる体勢の、至るところから血を流す小さな少女――の、死体。
2つの命を奪うことでナニかは満足したのか、俺は自由になった。
「はぁ……はぁっ……」
心臓の音がうるさい。息が上手くできない。
2人の傍で膝をついて脈の確認をした。何の意味もない、形だけの行為。死んだと思いたくない。信じたくない。信じられない。まだ命の灯火が残っていると信じたい。
だが、首に添えた指先に伝わるものは何もなかった。
「う、ぁ……うぁああァあアアぁぁアあああァァァ!!!」
耐え難い事実を突きつけられ、俺は頭をかきむしり泣き叫んだ。
身を切られるように苦しくて苦しくて仕方ない。いや、自分の身を切られた方が余程いい。
死にたい。死んでしまいたい。死のう。2人を殺した奴を殺してやる。死ねばいい。
俺の生きる理由の大半を占めていた2人がいない世界に俺がいる理由はない。王になる理由なんかもっての他だ。
つらい争いは終わりだ。どうでもいい。勝手にやっていてくれ。もう俺には関係ない。何もかも終わりだ。終わってしまった。
こんな酷いことが起こっても生きることはない。こんな悪夢のようなこと――
「あく、む……?」
チラリと、記憶の片隅で何かが蘇った。
それは今見えているのと同じ赤であり、違う赤だった。
咄嗟に記憶の中のそれを追おうとするが、これから死ぬしかない俺なんかが何を知ろうと意味を成さない。
遠い昔に宮廷魔術師から教えてもらった『時空間ポケット』からナイフを取り出し、刃を自身の首に添えた。
これをあと少し動かせば俺の頸動脈は切り裂かれ、全て動かなくなる。それで終わりになる。次は転生するか分からない。けれど、できればもう、転生なんかしたくない。
またこんなにつらい思いをするなんて勘弁してほしい。もう、たくさんだ。
「エル、シエラ……俺は――」
地獄に行くから。君達は天国にいてくれよ。
自分の今までの行いを省みて苦笑し、手首を引いた。
これで死ぬ――そう、決めたのだが。
『……ス、さま』
聞こえるはずのない声が聞こえくる。
『……アディニス様』
それはたったさっき死んだばかりの、俺の大切な人の声だ。
こんなのは空耳だ。遂に頭がおかしくなったとしか思えない。だってもういない。聞けない声なのだから。
『――アディニス様!』
なのに何故こんなにも鮮明に聞こえてしまうのだろうか?
血に塗れた、床に沈んでいるエルを見るが、彼女の口は一ミリたりとも動いていないようだった。ならばこの声はどこから聞こえているか。俺の頭の中で響いているだけではないのだとしたら、一体どこから――?
「エル……?」
辺りを見渡しても変わったところは見当たらない。
何かを伝えようとしてるのだろうか。だとしても、名前を呼ばれるだけでは分からない。俺に恨み言を言おうとしているのか? だとしたら死んでからいくらでも受け付けるのだが……。
溜め息を吐いて、今度こそ死のうとした時、俺の本当の生きる目的を思い出させるその一言が放たれた。
『――復讐を!』
「――ッ!」
『復讐』と、エルの声で言われて、何もかもを思い出した。
既にエルとシエラは死んでいること。俺がエルと――をしたこと。奴らへの復讐を誓ったこと。監獄に入ったこと。監獄に入って3年したところでクソ神に教官として雇われたこと。これからの準備のために王都に来たこと。1人目の復讐を達成したこと。その復讐対称の屋敷で異常が起きたようなので見に行ったこと。そこで圧倒的な力を持つ化け物に出会ったこと。そして――。
今なら分かる。あの化け物に会ってから何が起きていたのか。
あの時の会話から推測すると、あいつは人の感情と魂を喰う化け物だ。人を殺す時に『恐怖』という感情を喰らい、死ぬ時に人の中から現れる『魂』を食らう。
どうやらあの屋敷の人間をターゲットにしていたようだが、俺が使用人を全員眠らせていたせいで感情を喰えず、他の誰かを狙おうとあそこにいた。そこに俺が現れ、何故か俺を狙うことにした。
俺の負の感情を喰うためにこんな凝ったことをしてるのだろう。
俺に『勝てない』という絶望を味合わせ、周りの人間が皆死ぬという『悲しみ』を喰い、今度は得体の知れない『恐怖』と自らへの『怒り』を。
きっといくつかシチュエーションを考えたのだろう。俺が苦しんで感情を爆発させるためのシチュエーションを。何度も何度も苦しませ、自分が満足するまで獲物が壊れないよう、使い回しできるように。
壊しても壊しても修理をすればいくらでも遊べる――。
俺を眠らせ悪夢の中に誘い込めば、いくらでも感情を喰えるのだ。
「――大当たりぃー! いやぁすごいねおにーさん! ぼくのこの仕掛けを見破れたニンゲンなんてほかにいないのに!」
全てが俺の中で解けた時、目の前に化け物が現れた。にこにこと笑み浮かべているあたり、よほどご機嫌なのだろう。
「そうだよ、すっごく楽しい! あんなに苦しめて、苦しめて、苦しめたのに、しかけを見破っちゃうなんてすっごいよー! どうやって破ったのー?」
俺の心はすべて読んでいるということか。それもそうだろうな。ここはこいつによって作り出された夢の中なのだから。
見破るも何も、エルの声が俺に教えてくれただけだ。俺は復讐をするために生きているのだと。
「声? そんなの……」
おまえは作ってないんだろうな。でも俺には聞こえた。それで充分だ。
「むぅ……? まぁいっかぁ! ぼくにとってはどうでもいいことだからね! 大切なのは、おにーさんの『カンジョウ』がすっごく美味しいってこと! こんなごちそうしばらくぶりで、嬉しいよ! 次はどうしよう? 何がいーい? おにーさんの記憶をねつぞーして、おにーさんの大切な人がおにーさんの敵に壊されるところを何もできずに見ているだけ、とかどーお?」
……。
「それともそのおにーさんの大切な人がおにーさんを裏切るのとか? そうしたらおにーさんはどれだけ悲しむ? 苦しむ? 怒る? やっぱり自分が一番大切で、向かってくるその人を殺す? それともおにーさんのことだから自分が殺されてあげちゃう? どっちにしてもおいしい『カンジョウ』を食べられそう!」
……させねぇよ。
「えっ?」
こてんと首をかしげる化け物の見た目は、それだけなら可愛らしい。だが今の俺には怒りを増幅させるものにしかならない。
「おにーさーん?」
「うるせぇ! これ以上好きにさせて堪るか! 俺の感情を喰うために、それだけのためにこれ以上エルとシエラを侮辱するんじゃねぇ!!」
許せない。例え夢の中であろうと、エルとシエラを傷つけ、悲しませ、死なせたことが。
「お前のことは許さん……俺の復讐が終わって俺の身体が朽ち果てようと、絶対に許さねぇ!! ぶっ殺してやるゥアッ!!」
体の奥から沸き起こる感情は怒り一色だ。
許さない。許せない。許してはいけない。そこに悪感情はないのだろう。この化け物はそういうイキモノなのだ。しかしそんな理由で納得はしない。してはいけない。
こいつを何度殺しても止まらないような激情がこみ上げてきた。
化け物に向けた手の平に大量の魔力が集まるのを感じる。自分が何の魔法を放とうとしているか分からない。それは俺の取得属性魔法である雷かもしれないし、氷かもしれないし、闇かもしれないし――
「まって、それはだめだって! いくらここでもそれをやったらぼく――!」
――他の何かかもしれない。
慌てる化け物に魔法を放つ一歩手前まできたとき、目の前が真っ白になった。
『――また食べさせてね、おにーさん?』
クスクスと笑いながら言われた言葉に激昂し、声の主を探そうとするが……その暇もなく、俺は夢から覚めた。――つまり、逃げられた。
「クソが、ッァアアアアアアアッ!!!」
俺の愛する家族を辱しめ苦しめた化け物に対する激情をどこにもぶつけられなくなり、ただただ悔しさにもがき叫んだ。
時間に余裕ができるまで感想欄を閉じさせていただきます。申し訳ございませんm(__)m




