第8話 喪失の時代――かつて守られし者たちの涙
酒場の中は狭かった。
石壁に沿って粗末なテーブルと椅子がいくつか並び、
奥のカウンターの裏で、皺だらけの老人がマグを磨いている。
客は数人。
皆、古い鎧や軍服を着て、片腕を失った者、片目に眼帯をした者……
身体のどこかに、戦の傷を残していた。
ニコルが手を振る。
「やあやあ、ご老体のみなさん。今日もお達者で~?」
最も年嵩の男が、白く濁った片目を細めた。
「おう……半獣の道化か。
またろくでもない知らせを持ってきおったのか……」
視線が、ロザリーナへと流れる。
栗色の髪。蒼の旅装束。腰には双剣。
「……今日は、えらい美人さんを連れてきたもんだな」
隣の赤鼻がどろんとした目で言う。
ニコルが肩をすくめる。
「いやぁ~こっちは俺よりよっぽど“危ない”お嬢さんでしてねぇ。
兄貴探して、五年間も絶望世界をテクテク歩いてる酔狂さんですよ?」
「ニコル」
アズが肘で小突く。
ロザリーナは特に表情を変えなかった。
ニコルが振り返り、軽く顎をしゃくる。
「――みなさんに、兄貴の名前を聞かせてやってよ」
ロザリーナは、一歩だけ前へ出た。
「兄の名は、……ライザリオン・エルデンハート」
カウンターの老人たちの空気が、一瞬だけ揺れた。
「……エルデンハート?」
「王弟殿下の……あの坊やか?」
「会ったのは十年以上も前のことだから、
もう“坊や”の歳じゃなかったろうな……」
最年長の男が、皺だらけの手で髭を撫でた。
「おれは……王都南門の守備隊におった。
“王都のライオン”が三度、おれの尻拭いをしてくれたもんだ」
片腕の男が、乾いた笑いを漏らす。
「魔物に囲まれて、もう終わりだって時にさ……
あのデカい剣が降ってきて、岩ごと、敵を切り開いてくれたんだよ」
「……兄さんの話、――もっと聞かせてほしい」
ロザリーナの声は静かだったが、その奥に熱があった。
彼らは少しずつ、断片を語った。
五年前の王都の戦い。
炎に包まれた城壁。
空が裂ける直前、裂け目の向こうに見えた“獣の影”。
そして――それ以降、ライザリオンの消息を聞いた者はいないこと。
「……すまんな、嬢ちゃん」
最年長の男が、頭を下げた。
「王都のライオン――その後を知る者は、おれたちの誰の耳にも入っておらん。
もし生きているなら……それは、もうこの世界の理から外れた場所じゃろう」
ロザリーナは、ほんの少しだけ伏し目になった。
アズが、そっと横顔を覗き込む。
(……それでも、“諦める”って顔じゃない)
ロザリーナは、深く頭を下げた。
「……色々話してくれて、ありがとう」
老人たちは、しわがれた声で笑う。
「礼を言うのは、こっちだ。
おまえの兄貴は、何度もおれたちを生かしてくれた。
その妹が生きてるってだけで……俺たちは少しは救われる」
「まあ、ちょっとばかり、長生きをしすぎちまってるけどな」
赤鼻が木のジョッキを吞みほした。
ニコルが肩を竦め、冗談めかして笑う。
「ね? 言ったとおり、ここは“古井戸”だけど――
たまには、心に染みる水も出てくるのさぁ」
◇
ロザリーナ、ニコル、アズの三人が酒場を出ると、
夕陽が砦の広場を赤く染めていた。
訓練を終えた兵たちが槍を担ぎ、汗を拭いながら石畳を歩く。
冗談を言い合う声、笑い声――荒んだ砦の日常の、ささやかな息遣い。
そんな中、三人が広場を横切ると――
数人の兵が、ぴたりと動きを止めた。
「……おい」
「まさか……」
十名ほどの兵が、驚きに揺れる瞳のまま近づいてくる。
そのうちの一人、若い兵士が恐る恐る声を掛けた。
「失礼ですが……
あなたは……ロザリーナ様、ではありませんか?」
アズが目を瞬かせる。
「えっ……様!?」
ロザリーナは眉をわずかに動かした。
「……私を、知っているのか?」
兵士の男は、一歩、二歩と後ずさり――
そして、がくりと片膝をつき、深く頭を垂れた。
「やはり……! ロザリーナ様!
王都北門第二隊の……ロートです!」
その後ろの男たちも、慌てたように次々と膝をつく。
「“戦場の双剣姫”……!
あなたたちご兄妹は、何度も国を救ってくださった!」
「炎の中で……
自分の鎧が燃えているのに、少女を抱えて――
崩れ落ちる家から飛び出してきたあなたを……
私は、一度も忘れたことがありません!」
兵たちの目に、涙が溢れる。
「ご無事で……!
本当に……ご無事で……!」
ロザリーナは、ほんの一瞬だけ戸惑うように瞬きをし――
すぐに、静かに視線を落とした。
「……顔を上げてください」
その声はいつもの静けさのまま。
だが、そこにはどこか薄い柔らかさが宿っていた。
それでも、兵たちは首を横に振り、ロートが泣きながら言う。
「私は十六の新兵でした……!
常に先陣に立つロザリーナ様の背中を、ずっと追っていました――!」
ロザリーナは、頭を下げ続けるロートの前に静かに膝を折った。
「……ロート。どうか、お立ちください。
王都が滅んだ今、――私は何者でもありません」
「いいえ、あの時――」
その横から、年配の兵が口を開く。
「あなたたちご兄妹が『この城は落ちる、早く逃げろ』と、
魔物の群れへ飛び込んで足止めしてくださったから、
……私たちは生きて逃げることができたのです」
「――ロザリーナ様。
あなたは、私たちの命の恩人です」
ロザリーナは目を伏せた。
長いまつ毛の影が、沈んだ心を隠すように揺れる。
「……身分が違いすぎるのに。
城に戻ると、いつも……若い私たちにも笑顔で声を掛けてくださった。
本当に、本当に……」
「――やめなさい」
ロザリーナは静かに顔を上げた。
その表情は変わらない。変わらないのに、どこか痛ましい。
大きく息を吐き、低い声で告げる。
「……五年前、守れなかった命の方が、ずっと多い。
私は、その全ての重荷から、背を向けた者です。
あの日……生き延びてくれたあなたたちが、ここにいる。
それだけで――十分です」
兵たちは、堪えきれずに嗚咽を噛み殺した。
アズは、その光景を呆然と見つめる。
(“戦場の双剣姫”……
おじいちゃんも陛下も語っていた――伝説の……)
五年前、アズはまだ十歳。
王都の栄光も、戦場の地獄も知らない。
だからこそ、いま目の前にある“本物の伝説”に、胸が熱く震えた。
(……この人は、私の“知らない世界”を生きてきたんだ)
兵たちは涙をぬぐい、改めてロザリーナを見上げる。
その瞳には、敬意と、懐かしさと、そして小さな“希望”が宿っていた。
「……今度は、俺たちが戦います。
あの日、あなたたちに守ってもらった命の分まで」
ロザリーナは、静かに目を伏せた。
顔を上げると、一人ひとりの顔を見つめた。
言葉はない。ただ、ゆっくりと立ち上がる。
背を向ける動きは、拒絶ではなく、自らを特別扱いしない者の佇まいだった。
(……私は、何かを頼めるような立場ではない)
そう告げるように、ただ黙って歩き出す。
「ロザリーナ様――」
呼び止める声が、夕空に震える。
その背に伸びる影だけが、兵たちの想いを静かに受け止めていた。
ニコルは、ロザリーナと並んで歩きながら、ふと笑みを消した。
その金色の瞳が、一瞬だけ真剣な光を宿す。
「……へぇ」
ニコルは、ロザリーナの耳元に、ふざけずに、低い声でささやいた。
「俺が思ってた以上に、アンタはデカいもん背負ってんだなぁ。
俺の軽口は死なないための**『魔法』**だけど、
アンタのその**『静けさ』**は、生きるための祈りってわけか」
ロザリーナは、無言で、わずかに目を伏せた。
胸を激しく打つ鼓動に――アズは動けなかった。
その場で、その三人の背を目で追っていた。
(……あの人、“王族”とか“英雄”とか、
そういうの全部、背負う気なさそうなのに……)
ただ、兄の背を追っているだけ。
なのに周りは、勝手に“希望”を見いだしてしまう。
アズは、胸の奥に生まれた複雑な感情を持て余した。
――嫉妬と、悔しさと……そして憧れが。




