第6話 王館の静寂――灰の砦に忍び寄る絶望
【ルドグラッド砦――王館】
王館の空気は、砦の喧騒とはまるで違っていた。
石壁に囲まれた広間は、ひどく静まり返っている。
まるで――ここから“世界の終わり”が始まるのを待っているかのように。
高い天井から漏れ込む光は白く冷たく、
玉座には若き王――ヴァレンティスが座していた。
顔つきは若い。だが、その眼光だけは、
幾千の兵を導いた王のそれだった。
その傍らには、白髪の重騎士ガルデン・アルバレス。
そして、鋼の気配をまとった女将軍、シャーロット・ベニバラード。
三人の存在だけで、この場の緊張が形になっていた。
その静寂を破るように、扉が開く。
ニコル、ポコラン、ロザリーナ、アズの四人だ。
ヴァレンティスが目を細める。
「……ずいぶん賑やかに帰ってきたな」
ヴァレンティスの低い声に、ニコルが軽く手を振った。
「いやぁいやぁ、陛下~、今日の道のりはホント大変でしてねぇ──」
ベニバラが鋭く睨む。
「冗談はいい。要点を述べろ」
「はいはい、分かってますって、シャーロ──」
ビキッ。
空気が物理的に凍った。
ベニバラの眉が、ひどく危険な角度で吊り上がる。
「……ニコル。今、何と言った?」
「へ? いやその……シャーロ──」
「私を“シャーロット”と呼ぶなと言ったはずだ」
声が低い。
低すぎる。
ニコルの半獣耳がピンッと立つ。
「えっ、でもフルネーム“シャーロット・ベニバラード”じゃ──」
「その“シャーロット”が気に入らん」
「いや、だって……可愛い名前じゃん?」
ガタンッ!!
ベニバラの背後で、石床が“踏み抜かれたように”揺れた。
地震かと思うほどの圧。
ベニバラの手が静かに剣にいく。
アズが青ざめる。
「ニ、ニコル……! 逃げて……!!」
ニコルは両手をひらひらさせながら後ずさる。
「はいはい分かった! 分かったよベニバラ将軍!
『可愛すぎる名前だから嫌』って、ほんと理解が──」
「黙れ!」
その一言で、ニコルが石像みたいに固まった。
横で老練将軍までも固まっている。
だが、ロザリーナは、微動だにせず、静かに立っていた。
重い空気が落ち着いたところで、ニコルは咳払いして話を続けた。
「……でですねぇ陛下。
道中、とんでもないお化けイベントがありましてねぇ。
黒帝八将・グラ=シャルンが村で大暴れしてまして――
いやぁ、マジで俺“お陀仏顔”でしたよ?」
冷たい視線が飛んだ。
ベニバラだ。
「おまえはいつも、……そんな顔だろ」
「ちょっとぉ女将軍サマ、辛辣ぅ~」
ベニバラが眉を寄せるが、ニコルは続けた。
「いやいや今回はガチ!
俺がバラバラ寸前だったところに――」
ひょいと横を親指で示す。
「――そんで、その時“スパーン”よ!
このお嬢さんが、軽くグラの籠手や胸甲を吹き飛ばして、
そりゃもう爽快でしたよ~!」
アズの瞳が丸くなる。
「ロ、ロザリーナさんが……?
ニコル、また大げさ言ってるんじゃないの?」
「おいおいアズ、俺を信用しないのはいつも通りだけどさぁ~。
今回はホント。俺でも追いつけない速さだったよ?」
アズは驚きで目を丸くし、そっとロザリーナを見た。
(……こんな静かなのに……そんな強いの?)
ロザリーナはその視線を特に気にする様子もなく、ただ静かに佇んでいた。
ヴァレンティスはロザリーナに視線を向けた。
「名乗りと目的を」
ロザリーナは一歩進み出て、静かに頭を下げる。
露わになった腕に、淡い青銀の紋様が揺れた。
かつて王都英雄に与えられた紋で、兄の大剣にも刻まれていた。
「……ロザリーナ・エルデンハート。
旅の剣士。――兄を探している」
一瞬で、王館の空気が凍った。
ヴァレンティス、ガルデン、ベニバラ――三人の視線が同時に鋭くなる。
「エルデンハート……あの王家の名か」
ガルデンが低くつぶやく。
ロザリーナは静かに、しかし力強く応える。
「兄――元王都軍最強の戦士、ライザリオン・エルデンハート。
五年前、世界が裂けたその日、獣界へ落ちた兄を……今も追っている」
淡々とした声の奥には、鋼のような願いが灯っていた。
ニコルとアズが同時に声を上げる。
「“王都のライオン”――!」
アズは胸の前で手を握りしめる。
「じゃ、じゃあ本当に……生きている可能性が……?」
だが、ベニバラが厳しい声で割り込む。
「……獣界は、人の理が通じぬ地。
狂暴な魔物が跋扈し、空気すら毒に満ちている。
ヒトが生き延びる場所ではない」
ガルデンも続ける。
「獣界へ落ちた者は、二度と戻れぬ。
裂け目は一方通行だ。
行ったが最後、人界へ戻る術はない」
「戻れないのなら、私がそちらへ行くまでだ」
ロザリーナの瞳には揺るぎはなかった。
王館の中に、重い沈黙が落ちる。
ポコランもアズも、息をするのを忘れたようにロザリーナを見つめる。
その視線を受けながら、ロザリーナは凪ぐような声で答えた。
「兄は生きていると信じている。
それだけが――私のすべてだ」
その言葉は静かだったが、揺るぎない深い誓いの刃が宿っていた。
ロザリーナは、五年前の滅びの夜を、淡々と語った。
光が空を裂き、兄の背が亀裂の向こうへ消えた瞬間まで――。
重い沈黙が、場の空気を締めつける。
(我々王族が守れなかったものを、彼女は一人で今も負っているのか……)
ヴァレンティスは、しばし考え、静かに頷いた。
「……そなたの剣を歓迎しよう。
兄君の行方――我々にとっても興味深い。協力は惜しまぬ」
ロザリーナは深く頭を下げた。
「……感謝する」
すると、前へ一歩踏み出す者がいた。
――ポコランだ。
「あ、あのっ……!
ぼ……僕も強くなりたいですっ!
ザイラス軍を倒せるような剣士に……!」
ガルデンの目が鋭く光る。
「若さは力だ。
しかし、その剣に、お前は命を賭けられるのか」
ポコランの喉が震える。
だが――握った拳は揺らがなかった。
「……賭けますっ!」
ニコルがにやりと笑う。
「いいんじゃな~い。陛下、この坊や、伸びるよ?」
ヴァレンティスは頷いた。
「……よかろう。ガルデン、ニコル。お前たちに任せる」
「……承知した」
老将の声は低く、揺るがなかった。
「ポコラン。今よりお前は剣士として扱う。
死地に立つ者として、子供扱いはせぬ」
ガルデンの声は重い。
「は、はいっ!!」
すると、アズが勢いよく前へ出てきた。
「じ、じゃあ私もっ!
もっと修行して、ニコルの遊撃隊に入りたいです!」
瞬間、ガルデンの眉間に深い皺が寄った。
「アズ……! おまえはまだ十五だぞ! 無謀が過ぎる!」
アズはふくれっ面で言い返す。
「ちょ、おじいちゃん古いってば!
“若いからこそ前線で動ける”っていつも言ってるじゃん!」
「それは状況によってだ! おまえは違う!」
「おまえはって、なによっ。
……おじいちゃんは――!」
ガルデンが顔を覆う。
「おじいちゃん、いうな。……まったく……!」
ニコルが肩をすくめて笑う。
「いやぁ~いいねぇ若さは。
陛下、アズは、おじいちゃん譲りで、才能ありますよ?
ちょっと凶暴だけどぉ~」
「凶暴言うな!」
アズが頬を赤くして怒鳴る。
「……騒がしい」
ガルデンが深い溜息をついた。
ベニバラがそのやり取りを横目に、静かに一歩進む。
「……剣姫ロザリーナ。
王家の血など、この砦では何の意味もない。
私は、貴女を剣士としてのみ見る」
ロザリーナは即答した。
「……それでいい」
ベニバラの口元がわずかに緩む。
ニコルが手を叩く。
「いやぁ~良い砦になってきたじゃないかぁ?
最強女将軍に、剣姫さま、熱血坊や、堅物じいに、そして暴れ娘――
全員集合~ってね!」
「……黙りなさい。半獣の道化」
ベニバラが睨みつける。
「お~、怖い怖い。毒舌健在~♪
やれやれ、女将軍さまは今日も冷たいねぇ~?」
ニコルはひらりと手を振った。
*
その時、王館の外の空がゆっくりと暗くなり始めていた。
冷たい風が、再び血と、腐敗の匂いを運んでくる。
――嵐の前触れ。
ザイラス軍の影が、最後の砦の岩肌に、確実に迫りつつあった。




