第5話 蠢く玉座――動き出す禁呪
【ザイラス軍本拠――黒き玉座の間】
漆黒の玉座の間には、凍てつく気配が満ちていた。
その中心――
絶望世界の覇王ザイラス・オズグリアが、重々しい玉座へ身を預けていた。
背後の玉座は竜骨を思わせる禍々しい装飾で覆われ、
三つの骸獣の彫像が暗闇から覗き込むように牙を剥いている。
深紅のクッションに沈むザイラスの身体は、怠惰なほど静かだった。
だが――その存在が放つ“支配”だけで十分だった。
白銀の長髪が肩へ流れ、
開け放たれた胸元には古傷と血の痕が赤黒く滲む。
金と骨を融かし合わせたような装甲は死の王の象徴。
長く垂れた深紅のマントが、玉座下へ血潮のように広がる。
ザイラスは動かない。
魔眼を細めるだけで、玉座の間の空気が一段と凍りついた。
その前で膝をつく巨影――
黒帝断罪軍八将のひとり、グラ=シャルン。
左肩には深い裂傷。
割れた黒甲冑から黒い血が滴り落ち、石床へと染みを広げていた。
半日がかりでようやく帰還したばかりである。
「……グラ。お前が敗れるとはな」
ザイラスは怠惰な姿勢のまま静かに言った。
その声音は氷。その一言だけで大広間の空気が沈む。
周囲の高位将たちの視線が冷酷な光を帯びる。
グラは跪き、額を地に押しつけて、牙を噛み締めた。
「敗れたのではありません。退いたのです。
……ですが、油断がありました。
あの女剣士、尋常では――」
「その程度の報せ、興味はない」
ザイラスの瞳がわずかに揺れた瞬間、
大気の温度が数度下がったように感じられた。
彼の関心は、八将の勝敗ではない。
求めているのはただひとつ。
老祈祷師エルザヴァンが進める“禁呪”の成功のみ。
ザイラスには、魔獣と唯一 意思疎通(会話) できる能力がある。
五年前、魔獣軍を率い王都を焼き落としたのはその異能ゆえだった。
ザイラスが唯一「対等」と認めた存在――魔獣王ビオラング。
世界が二つに割れた夜、ビオラングは獣界へ落ちた。
(――ならば呼び戻せばいい。禁呪をもって)
その時、静寂を破るように、壁にもたれていた男が笑った。
魔翼の処刑者・ヴァルザーク。
「……フン。面白ェ話じゃねえか。
まだ活きのいい“獲物”――それも女がこの世界に残ってやがったのかよ」
背の赤褐色の翼が、微かな獣音を立てた。
続いて柱影の巨体が嗤う。
「……大袈裟な話ではあるまいな」
破砕の巨鎚・ドルグ=ハルザード。
巨鎚を担ぎ、身の丈三メートル。
八将の中でも、最大の巨漢である。
その声音には、獲物を嗅ぎつけた獣の愉悦が漂う。
ザイラスは興味なさげに瞼を伏せた。
「――行け。興味があるなら貴様らで潰せ」
「はっ」
「了解」
「……愉しい狩りになりそうだ……」
返答が重なった直後。
グラ=シャルンはゆっくりと立ち上がり、
赤黒い瞳に復讐の焔を宿した。
「……あの女を――必ずこの手で屠ります。
この屈辱……必ず返してみせます……!」
だが、その声すらザイラスは受け流した。
やがて八将たちが王間を出ると――
ザイラスは後方へ顎をわずかに上げる。
「……ネメシス」
「はっ」
玉座の背後。
影と同化していた巨躯が、音もなく前へ進み出た。
黒帝断罪軍副将――
黒帝の影・ネメシス=オルティガ。
ロングソードを腰に下げた漆黒の巨影。
金属ではなく 闇そのものを鍛えた“生きた鎧” が脈動する。
黒金の紋様が這うように流れ、マントは霧のように揺れている。
兜を覆う王冠状の棘の隙間から覗くのは光のない深淵。
顔は一切見えず、
声は金属と闇が反響するような低い響きだった。
ザイラスがわずかに瞼を開いた。
「今日はザガンの姿が無いが?」
八将のひとり――
魔刻の狂刃・ザガン=スレイス。
ネメシスは深淵の声で応じた。
「北の辺境で不穏な動きがあり、偵察に行かせました」
「ブルームロアか?」
「はい。反乱の火種になる前に鎮火させます」
最北端の地――ブルームロアの谷。
切り立った崖と青霧に包まれた洞窟群が潜み、
白象が生息する地。
「お前だけは、私の退屈を裏切るな」
王座に凭れたまま、ザイラスの口元がわずかに歪んだ。
――◇――
【祈祷師エルザヴァンの地下洞窟】
同じ頃――
獣界境界に近い山中の地下洞窟。
この地では、五年前に生まれた“境界の光壁”が岩越しに薄く揺れて見える。
その光壁は地上・地下・海・空・あらゆる方向へ無限に伸びる絶対の障壁。
どんな魔法でも、生物でも、物質でも一切越えられなかった。
地下洞窟――黒帝断罪軍が秘匿する巨大陣の中心で、
老祈祷師エルザヴァンが狂気の笑みを浮かべていた。
「……今度こそ……成功させる……!
魔獣の力は、この黒帝王国が全て貰う……!」
洞窟の奥深くには巨大な魔法陣が広がり、
人界のあちら側――獣界の地の一角を丸ごと切り取って、
ここに転送するという禁呪が始まろうとしていた。
二ヵ月前、紅い髪の女戦士に黒帝八将の一人が倒され、欠員が出た――
すぐに“新たな八将級の素材”を得るために。
「――開始せよ!!」
魔法陣を取り囲む魔導士たちが、一斉に手を翳す。
詠唱が響き、空間が軋む。
ドグンッ。
獣界の領域が切り取られ、洞窟へと転送されてゆく。
空間がひずみ、黒い霧が渦巻き、
次の瞬間――
ズシンッ!!!
巨大な影が停止した状態で、下から次第に姿を現す。
護衛兵たちが一斉に距離を取った。
「なっ……! 生きてる……ッ!?」
足元から頭頂部まで順に転送が完了する。
現れたのは――
全身を岩皮のような鱗で覆った大型魔獣。
“二本角の四足歩行獣”と呼ばれる、上位個体だった。
赤い眼孔がギラリと光り、
獣は洞窟の天井を震わせるほどの咆哮をあげた。
「ギャアアアアッ!!」
「下がれ!! 槍を構えろ!!」
護衛兵たちが一斉に魔槍を突き出す。
脚部を狙って絡め取るように牽制し、
囲みながら巨大鉄柵へ追い立てていく。
「囲い込み成功! 閉じろッ!!」
ガシャァァン!!
厚い鉄格子が落ち、
魔獣は檻の中に押し込められた。




