表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/60

第55話 迎えには来なかった――それでも紅は進む

◆◇◆――


◆ブラストリア城◆


午前。


高い城壁に囲まれた城内には、

昼の光が静かに降り注いでいた。


白い石畳はよく磨かれ、

主塔ベルクフリートの影が、

ゆっくりと中庭を横切っていく。


兵士は整列し、

城は、まだ機能している。


鍛冶場からは金属を打つ音。

井戸のそばでは、水桶を運ぶ兵と使用人。

城壁へ向かう階段を、

交代の兵が規則正しく上っていく。


だが――

誰もが、いつもより言葉少なだった。


笑い声は控えめで、

視線は自然と外――

広大な地平へと向いている。


西門前。


門の内側には、

民を乗せた馬車が、幾列にも並んでいた。


積まれた荷。

毛布。

食料袋。

幼い子どもを抱えた母親。


避難ではない。

だが、留まらない準備だった。


その列の前に、

紅の髪を束ねた女将が立っている。


ベニバラ。


背筋は伸び、視線は門の外。

誰よりも落ち着いた姿で、

この場をまとめていた。


主塔(ベルクフリート)の扉が開く。


石床を踏みしめる、重い足音。


白銀の重鎧に身を包んだ巨躯が、

塔から姿を現した。


一斉に走る緊張感。

石段の左右に並ぶ兵が槍を立てて、

敬礼する。


深銀の外套。

無数の修復痕を刻んだ鎧。

戦場を知り尽くした男の歩み。


ブラストリア軍総大将。

白鋼(はくこう)の剣王》――

ジーク・ヴァイスハイム。


彼は、西門前に立つ女将を見つけると、

短く声をかけた。


「シャーロット」


名を呼ばれ、

ベニバラは振り返る。


その呼び名で、

彼女を呼ぶ者は、この城に一人しかいない。


ベニバラの剣術の師でもある、ジーク。


「……はい」


声は、揺れなかった。


ジークは、

彼女の前まで歩み寄る。


号令ではない。

叱責でもない。


低く、静かな声だった。


「お前に一つ、話しておく」


一拍。


「お前が将軍になった理由を、

 分かっているだろう」


ベニバラは、答えない。


分かっているからだ。


彼女は弱くない。

だが、最強でもなかった。


二年前。

前任の部隊長が、村を襲ったドルグに討たれた。

副将だった彼女が、繰り上がる形で将となった。


そこには、政治があった。

若く、美しい女将軍。

民への示威と、兵の募集。


――“象徴”。


彼女自身も、

国のためになるのならと、それを受け入れた。


ジークは、

その沈黙を責めない。


「……自分をお飾りだと思っているだろうが」


紫を帯びた瞳が、

まっすぐに彼女を見る。


「――それは違う」


短く、断言。


「お前は強い」


それだけで、十分だった。


「王子を頼む」


命令ではない。

委ねる言葉だった。


ベニバラは、背筋を正し、

深く礼をする。


「……承知しました」


その姿を見て、

ジークが低く笑う。


「ふふ……」


「シャーロット。

 硬くなりすぎだ」


鎧越しに、

軽く肩を叩く。


「お前は、

 元気に笑っている方がいい」


それは師の言葉であり、

戦場に立つ者への、

ささやかな願いだった。


「頼んだぞ」


「はい」


それだけだった。


ベニバラは、

それ以上の返事ができなかった。


緊張で、

笑顔を返す余裕すらなかった。


ジークは、

一歩だけ後ろへ下がり――


ゆっくりと、背を向ける。


「爺――」


「なんじゃ」


ガルデンが、顔を向けた。


「バルノアは?」


「ああ。いま、王子を説得しておる」


「そうか。

 では、伝言してくれ。

 もう歳なんだから、あまり無理はするなと」


「分かった。伝えておく」


一拍。


「この城が落ちるとは思わんが……

 お前も死ぬなよ。

 わしの賭けの相手が、いなくなるんでな」


「ああ。爺も――」


そう、声を投げようとした、その瞬間。


――ぎゅっ。


背中に、

突然、温度が触れた。


鉄のぶつかる音。

鎧越しに伝わる、

細い腕。


息が、震えている。

腕が、震えている。


「……っ」


声にならない嗚咽が、

深銀の外套の奥に押し込まれる。


「……死なないで……」


小さな声。


将軍の声ではない。

剣士の声でもない。


ただ――

失いたくない者の声。


ジークの大きな背が、

ほんのわずかに強張った。


ガルデンが、

思わず目を見開く。


「おい……ベニバラ……」


からかう調子が、出てこない。


ジークは、振り向かない。


だが――

突き放しもしない。


「……離れろ。

 ここは戦場だ」


言葉は短い。


けれど、

刃はなかった。


シャーロットは、首を振る。


額を、

鎧の背に押しつける。


「……いや……」


嗚咽が、零れる。


「あなたまで……

 いなくなったら……」


言葉は、

それ以上、形にならなかった。


ジークは、

小さく息を吐く。


深銀の外套が、わずかに揺れる。


そして――

背中越しに、言った。


「心配するな」


あまりにも、簡単な言葉。


戦場で、

何百回も聞いた声。


だが――


「すぐに終わらせる」


一拍。


「そして……お前たちを迎えに行く」


その言葉で、

シャーロットの嗚咽が、

一瞬だけ止まった。


背中に回した腕が、

わずかに、強くなる。


ジークは、

片手だけ、後ろへ伸ばした。


抱き返さない。

引き剥がしもしない。


ただ――

手のひらで。


彼女の赤い髪を、撫でる。


それだけ。


それが、

この男の“約束”だった。


ガルデンが、

喉の奥で、小さく笑う。


「……まったく。

 旅立ちの日に、

 やっと人間らしくなりおったな」


短い応酬。


そう。

その時は、

――まだ、冗談が生きていた。


◆◇◆


――◇―― ――◇―― ――◇――


馬車が揺れた。


――ごとん。


その衝撃で、

ベニバラは目を開いた。


暗い車内。

軋む木枠。

革と鉄の匂い。


進んでいる――

確かに、今も。


だが、

ほんの一瞬前まで、

彼女はそこにいた。


白い城壁。

午前の光。

深銀の外套。


遠ざかる、過去。


それでも――

あの声だけは、消えない。


「……迎えに行く」


約束のようで、

命令のようで、

そして――

嘘になったかもしれない言葉。


包帯の下で、

腹の奥が、じくりと痛む。


五年前の傷ではない。

今日の戦でもない。


――覚えているという事実が、

まだ、生きているという証だった。


視線を上げる。


薄闇の向こうに、

ヴァレンティスがいる。

ガルデンがいる。

名も、過去も、背負って進む者たちがいる。


ベニバラは、

静かに息を吸った。


胸の奥で、

折れかけていた何かを、

もう一度――握り直す。


(……迎えには、来なかった)


それでも。


(だから、

 私から――あの場所へ戻ろう)


彼女は、目を伏せる。


そして、

誰にも聞こえぬほど小さく――


「あなたに……

 強くなった私を、見てほしいから」


返事はない。


あの日の背中へ。

もう届かない約束へ。


それでも、

剣を握る理由だけは、

まだ――

ここにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ