第55話 迎えには来なかった――それでも紅は進む
◆◇◆――
◆ブラストリア城◆
午前。
高い城壁に囲まれた城内には、
昼の光が静かに降り注いでいた。
白い石畳はよく磨かれ、
主塔の影が、
ゆっくりと中庭を横切っていく。
兵士は整列し、
城は、まだ機能している。
鍛冶場からは金属を打つ音。
井戸のそばでは、水桶を運ぶ兵と使用人。
城壁へ向かう階段を、
交代の兵が規則正しく上っていく。
だが――
誰もが、いつもより言葉少なだった。
笑い声は控えめで、
視線は自然と外――
広大な地平へと向いている。
西門前。
門の内側には、
民を乗せた馬車が、幾列にも並んでいた。
積まれた荷。
毛布。
食料袋。
幼い子どもを抱えた母親。
避難ではない。
だが、留まらない準備だった。
その列の前に、
紅の髪を束ねた女将が立っている。
ベニバラ。
背筋は伸び、視線は門の外。
誰よりも落ち着いた姿で、
この場をまとめていた。
主塔の扉が開く。
石床を踏みしめる、重い足音。
白銀の重鎧に身を包んだ巨躯が、
塔から姿を現した。
一斉に走る緊張感。
石段の左右に並ぶ兵が槍を立てて、
敬礼する。
深銀の外套。
無数の修復痕を刻んだ鎧。
戦場を知り尽くした男の歩み。
ブラストリア軍総大将。
《白鋼の剣王》――
ジーク・ヴァイスハイム。
彼は、西門前に立つ女将を見つけると、
短く声をかけた。
「シャーロット」
名を呼ばれ、
ベニバラは振り返る。
その呼び名で、
彼女を呼ぶ者は、この城に一人しかいない。
ベニバラの剣術の師でもある、ジーク。
「……はい」
声は、揺れなかった。
ジークは、
彼女の前まで歩み寄る。
号令ではない。
叱責でもない。
低く、静かな声だった。
「お前に一つ、話しておく」
一拍。
「お前が将軍になった理由を、
分かっているだろう」
ベニバラは、答えない。
分かっているからだ。
彼女は弱くない。
だが、最強でもなかった。
二年前。
前任の部隊長が、村を襲ったドルグに討たれた。
副将だった彼女が、繰り上がる形で将となった。
そこには、政治があった。
若く、美しい女将軍。
民への示威と、兵の募集。
――“象徴”。
彼女自身も、
国のためになるのならと、それを受け入れた。
ジークは、
その沈黙を責めない。
「……自分をお飾りだと思っているだろうが」
紫を帯びた瞳が、
まっすぐに彼女を見る。
「――それは違う」
短く、断言。
「お前は強い」
それだけで、十分だった。
「王子を頼む」
命令ではない。
委ねる言葉だった。
ベニバラは、背筋を正し、
深く礼をする。
「……承知しました」
その姿を見て、
ジークが低く笑う。
「ふふ……」
「シャーロット。
硬くなりすぎだ」
鎧越しに、
軽く肩を叩く。
「お前は、
元気に笑っている方がいい」
それは師の言葉であり、
戦場に立つ者への、
ささやかな願いだった。
「頼んだぞ」
「はい」
それだけだった。
ベニバラは、
それ以上の返事ができなかった。
緊張で、
笑顔を返す余裕すらなかった。
ジークは、
一歩だけ後ろへ下がり――
ゆっくりと、背を向ける。
「爺――」
「なんじゃ」
ガルデンが、顔を向けた。
「バルノアは?」
「ああ。いま、王子を説得しておる」
「そうか。
では、伝言してくれ。
もう歳なんだから、あまり無理はするなと」
「分かった。伝えておく」
一拍。
「この城が落ちるとは思わんが……
お前も死ぬなよ。
わしの賭けの相手が、いなくなるんでな」
「ああ。爺も――」
そう、声を投げようとした、その瞬間。
――ぎゅっ。
背中に、
突然、温度が触れた。
鉄のぶつかる音。
鎧越しに伝わる、
細い腕。
息が、震えている。
腕が、震えている。
「……っ」
声にならない嗚咽が、
深銀の外套の奥に押し込まれる。
「……死なないで……」
小さな声。
将軍の声ではない。
剣士の声でもない。
ただ――
失いたくない者の声。
ジークの大きな背が、
ほんのわずかに強張った。
ガルデンが、
思わず目を見開く。
「おい……ベニバラ……」
からかう調子が、出てこない。
ジークは、振り向かない。
だが――
突き放しもしない。
「……離れろ。
ここは戦場だ」
言葉は短い。
けれど、
刃はなかった。
シャーロットは、首を振る。
額を、
鎧の背に押しつける。
「……いや……」
嗚咽が、零れる。
「あなたまで……
いなくなったら……」
言葉は、
それ以上、形にならなかった。
ジークは、
小さく息を吐く。
深銀の外套が、わずかに揺れる。
そして――
背中越しに、言った。
「心配するな」
あまりにも、簡単な言葉。
戦場で、
何百回も聞いた声。
だが――
「すぐに終わらせる」
一拍。
「そして……お前たちを迎えに行く」
その言葉で、
シャーロットの嗚咽が、
一瞬だけ止まった。
背中に回した腕が、
わずかに、強くなる。
ジークは、
片手だけ、後ろへ伸ばした。
抱き返さない。
引き剥がしもしない。
ただ――
手のひらで。
彼女の赤い髪を、撫でる。
それだけ。
それが、
この男の“約束”だった。
ガルデンが、
喉の奥で、小さく笑う。
「……まったく。
旅立ちの日に、
やっと人間らしくなりおったな」
短い応酬。
そう。
その時は、
――まだ、冗談が生きていた。
◆◇◆
――◇―― ――◇―― ――◇――
馬車が揺れた。
――ごとん。
その衝撃で、
ベニバラは目を開いた。
暗い車内。
軋む木枠。
革と鉄の匂い。
進んでいる――
確かに、今も。
だが、
ほんの一瞬前まで、
彼女はそこにいた。
白い城壁。
午前の光。
深銀の外套。
遠ざかる、過去。
それでも――
あの声だけは、消えない。
「……迎えに行く」
約束のようで、
命令のようで、
そして――
嘘になったかもしれない言葉。
包帯の下で、
腹の奥が、じくりと痛む。
五年前の傷ではない。
今日の戦でもない。
――覚えているという事実が、
まだ、生きているという証だった。
視線を上げる。
薄闇の向こうに、
ヴァレンティスがいる。
ガルデンがいる。
名も、過去も、背負って進む者たちがいる。
ベニバラは、
静かに息を吸った。
胸の奥で、
折れかけていた何かを、
もう一度――握り直す。
(……迎えには、来なかった)
それでも。
(だから、
私から――あの場所へ戻ろう)
彼女は、目を伏せる。
そして、
誰にも聞こえぬほど小さく――
「あなたに……
強くなった私を、見てほしいから」
返事はない。
あの日の背中へ。
もう届かない約束へ。
それでも、
剣を握る理由だけは、
まだ――
ここにあった。




