第54話 空白の夜――折れた剣と抱かれた小さな命
◆ルドグラッド砦・客間◆
夜。
砦の奥。
小さな一人部屋。
壁に掛けられたランプが、
弱く、揺れている。
その下で――
ロザリーナは、部屋の奥のベッドに腰を下ろしていた。
腹部に巻かれた包帯。
血は、すでに止まっている。
だが、
布の内側に残る鈍い痛みが、
まだ確かにそこにあると告げていた。
刺された場所よりも――
胸の奥のほうが、
ずっと重い。
◇
五年間。
兄を探して来た。
ただ、それだけだった。
生きていると信じて。
それだけで、今日まで歩いてきた。
王都が落ちた日。
世界が割れた日。
――それでも。
「兄は、まだ生きている」
その一点だけが、
ロザリーナを立たせていた。
寒さも。
飢えも。
王を失った夜も。
仲間を失った夜も。
すべて、
その言葉一つで越えてきた。
◇
――なのに。
なのに、……何も返ってこなかった。
呼びかけても。
剣を向けても。
そこにあったのは、
感情のない――
ただの破壊だった。
優しかった兄の面影は、
どこにもなかった。
そして――
兄の槍が、
迷いなく振るわれた。
腹に走った衝撃。
肺から、息が抜ける感覚。
「――あ」
声には、ならなかった。
殺される。
初めて感じた完全な絶望。
そう思った瞬間でさえ、
兄の目は――
自分を見ていなかった。
視線は、合わなかった。
そこには、
何もなかった。
情も。
心も。
同じ血も。
――記憶すらも。
◇
ロザリーナは、
自分の腹へと視線を落とす。
包帯の白が、
ランプの光を受けて、
やけに明るく見えた。
生きている。
何とか、それだけは、
理解ができた。
部屋の隅に置かれた、
自分の鎧へと視線を向けた。
腹部に穿たれた、
槍の痕。
それが――
初めて鎧についた傷だった。
「……兄さん」
声は、
喉の奥で途切れた。
生きてさえ、
いればいいと思っていた。
それだけで、
すべてが報われると――
信じていた。
だが、
兄はもう、
そこにはいない。
これから。
――どうするの。
――何をすればいいの。
歩く理由も。
生きていく理由も。
何もかもが、
一つ残らず――
音もなく、崩れ落ちていった。
◇
――思考が、心の底へ沈んでいく。
考えることも、
答えを探すことも、
もう、できなかった。
ベッドの端に、
ぽたり、と雫が落ちる。
涙だと気づくまで、
少し時間がかかった。
そして、
その泣く理由すら、
分からなかった。
◇
部屋は、
静かだった。
外では、
砦が動いているはずだ。
民がいて。
兵がいて。
王が、決断を下している。
だがこの部屋だけは、
世界から切り離されたように、
何も起きない。
ただ――
ロザリーナだけが。
立つ理由を失ったまま。
生きていく理由を失ったまま。
そこに、座っていた。
◇
その時だった。
扉が、
ゆっくりと開く。
だがロザリーナは、
顔を上げなかった。
小さな足音。
躊躇いを含んだ、
かすかな気配。
「……」
息を詰めるような沈黙のあと、
震えるほど小さな声が、
部屋に落ちた。
「……おねえちゃん」
一度目は、
意味として届かなかった。
「……おねえちゃん」
二度目で、
ようやく耳に入る。
グラの村から、
救い出した少女。
その声だった。
ロザリーナは、
ゆっくりと顔を上げる。
「……大丈夫?」
少女が、
泣きそうな顔でこちらを見る。
ロザリーナは、
一度だけ瞳を閉じ、
そして、ゆっくりと開いた。
「うん」
小さく、
けれど確かな声。
少女は、
おずおずとベッドのそばまで歩いてきて、
ロザリーナを見上げる。
ロザリーナは、
ベッドから下ろした脚に、
少女を抱き上げて膝に乗せた。
「もう、大丈夫」
少女の目を見て、
ほんのわずかに微笑む。
「おねえちゃん」
膝の上で、
扉のほうを向いていた少女が、
ロザリーナに顔を上げた。
「……おねえちゃん」
「なあに?」
「友だちも、
……来てるんだ」
「友だち?」
「うん。あそこに。
入ってきても、いい?」
「……うん、いいよ」
少し開いたままの扉の下から、
同じ年ごろの少女と少年が、
恐る恐る顔を覗かせた。
――思い出す。
一人は、
かつて広場で大斧を振り下ろされる祖父ダルパスを、
小さな両手で庇おうとした少女。
もう一人は、
初めての晩餐で、
純白のドレスに泥だらけの手形をつけた、
わんぱくな少年だった。
「みんな入ってきて!」
膝の上の少女の声に背中を押され、
二人はバタバタと走り寄り、
ロザリーナの左右へ飛び乗った。
ロザリーナは、
大きく息を吸い込み、
一人ずつ、その顔を見渡す。
「私はロザリーナ。
……君たちの名前を、教えて」
それは、
彼女にとって、珍しい言葉だった。
五年間、人との関わりを避けてきた。
自分から名を聞くことなど、なかった。
「うん!」
膝の上の少女が言った。
「私は、イーサリア」
続いて、
「私はクロノ」
「僕はセス」
二人も、
少し誇らしげに名乗る。
ロザリーナは、
その三つの名を、胸の奥でなぞる。
「……ちゃんと覚えたからね」
それは、
名を知るということ。
そして――
小さな命を背負うと、決めた言葉だった。
◇
その時。
開いたままの扉の向こうに、
二つの大人の影が現れた。
入って来る人に気づいて、
ロザリーナが、
膝の子を下ろし、
立ち上がろうとした瞬間――
「いや、そのままでいい」
ヴァレンティスだった。
「ここへ来る途中、
あなたの心中を考えていた。
……だが、掛ける言葉が見つからなかった」
一拍。
「それでいい、とも思った。
だけど……」
ヴァレンティスは歩み寄り、
イーサリアの頭を、そっと撫でる。
「援軍が、
先に来てくれていて良かった」
続いて、
クロノとセスの頭にも、同じように手を置いた。
「王さま」
セスが、
顔を上げる。
いつも夕食時に、
ヴァレンティスの服を汚す子だ。
「……?」
「王さまも、
おねえちゃんが心配だったの?」
罪のない、
あまりにもまっすぐな問い。
ヴァレンティスは、
しゃがみ込むと、セスに視線を合わせた。
「心配だったよ」
静かな声。
「……とても、心配だった」
それを聞いて、
セスが微笑む。
三人の子どもたちが、
顔を見合わせて笑った。
彼らは食堂で、
大人たちのロザリーナを案じる話を聞き、
イーサリアに連れられて、
ここへ来たのだった。
◇
「ロザリーナ」
ヴァレンティスが、
静かに告げる。
「この砦は、もう守れない。
夜半に、ここを発つ」
「民を連れて、
父の城だったブラストリア城へ向かう」
一拍。
「……一緒に来てくれないか」
ロザリーナは、
一度だけ視線を落とし――
そして、
はっきりと顔を上げた。
「分かりました」
迷いのない声。
「私も、一緒に行きます」
それは、
逃げではなかった。
王と同じく――
過去に、区切りをつけるための選択だった。
◇
ヴァレンティスと、子供たちが部屋を出ると、
入れ替わるように、
廊下の扉の前に立っていたロートが中へ入ってきた。
静かに、
しかしどこか緊張を含んだ足取り。
「ロザリーナ様」
ロートは一度、言葉を選ぶように息を整え――
それから、少しだけ安堵した表情で続けた。
「僕らと一緒に、来ていただけるのですね。
……本当に、よかったです」
ロザリーナはロートを見て、
小さく頷いた。
「殿下が、
どうしてもご自分の口で話したいと仰って……
それで、僕も同行しました」
言葉の途中で、
ロートはふと視線を落とす。
その瞳の端から、
静かに涙が零れた。
「……本当によかった」
それ以上は、言わなかった。
ロザリーナは何も言わず、
ただその様子を見ていた。
「移動は、殿下やガルデン将軍たちと同じ、
大型の馬車になります」
事務的な口調に戻しながらも、
ロートは最後に、柔らかく付け加える。
「出立の時刻になりましたら、
また、迎えに来ます」
「……分かった。
ありがとう」
返事は短い。
けれど――
その瞳に、先ほどまでの揺らぎはなかった。
吹っ切れたわけではない。
感情の整理は、
まだ何一つ、ついていない。
理解も、納得も、
できてはいない。
だが――
それらすべてを、
胸の奥へ押し込めて。
この小さな命たちを守るために。
今は、立ち止まらず、先へ進む。
ロザリーナは、
ただそれだけを選んだ。
それだけで、
今は――十分だった。
――◇―― ――◇―― ――◇――
◆崖下・川辺◆
夜半。
雲に覆われていた月が、
わずかな裂け目を見つけたように、
白い光を地上へ落としていた。
崖の下。
黒く、深い谷底を縫うように流れる川。
水音だけが、
低く、途切れることなく続いている。
その下流で――
一つの黒い巨躯が、川辺に屈み込んでいた。
人の形をしている。
だが、
もはや人ではない。
影は、
ナマズのような巨大な川魚を浅瀬へ引きずり上げた。
月明かりを受けて、
ぬめる鱗が鈍く光る。
影は、
その魚にかぶりついた。
骨の砕ける音。
水しぶき。
短く、断ち切られる命。
影は腹が減っていた。
黙ったまま、
ただ、喰らう。
言葉も。
感情も。
そこには、もう存在しない。
月光の中に浮かぶのは、
荒ぶれた黒い背中だけだった。
◇
五年前。
世界が二つに割れて、
この人界には、
獣界のように、
魔獣は存在しない。
食べ物になるものは、
芋や果物。
そして、川を泳ぐのは魚であり、
森を走るのは、動物だった。
たとえ獣と化しても。
たとえ理性を失っても。
ライザリオンは、
人を喰らわない。
それは選択ではない。
意志ですらない。
もっと深い場所――
かつて人として生きた記憶が、
今もなお、
その奥底で微かに残っている証だった。
だが。
魔獣を喰らわぬまま、
動物や魚の肉だけを食み続ければ。
魔物の血は、
やがて薄れていく。
その身体の内側では、
目に見えぬ場所で、
細胞レベルの壮絶なせめぎ合いが起きるはずだ。
力は、
確実に衰えていくだろう。
そして――
その先に待つものが、
救いなのか。
破滅なのか。
あるいは、まったく別の何かなのか。
それを知る者は、誰もいない。
月は再び雲に隠れ、
川辺は闇に沈む。
巨躯の背後で、
魚の血と、水音だけが、
何事もなかったかのように――
静かに、流れ続けていた。




