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第54話 空白の夜――折れた剣と抱かれた小さな命

◆ルドグラッド砦・客間◆


夜。


砦の奥。

小さな一人部屋。


壁に掛けられたランプが、

弱く、揺れている。


その下で――

ロザリーナは、部屋の奥のベッドに腰を下ろしていた。


腹部に巻かれた包帯。

血は、すでに止まっている。


だが、

布の内側に残る鈍い痛みが、

まだ確かにそこにあると告げていた。


刺された場所よりも――

胸の奥のほうが、

ずっと重い。



五年間。


兄を探して来た。

ただ、それだけだった。


生きていると信じて。

それだけで、今日まで歩いてきた。


王都が落ちた日。

世界が割れた日。


――それでも。


「兄は、まだ生きている」


その一点だけが、

ロザリーナを立たせていた。


寒さも。

飢えも。

王を失った夜も。

仲間を失った夜も。


すべて、

その言葉一つで越えてきた。



――なのに。

なのに、……何も返ってこなかった。


呼びかけても。

剣を向けても。


そこにあったのは、

感情のない――

ただの破壊だった。


優しかった兄の面影は、

どこにもなかった。


そして――


兄の槍が、

迷いなく振るわれた。


腹に走った衝撃。

肺から、息が抜ける感覚。


「――あ」


声には、ならなかった。


殺される。

初めて感じた完全な絶望。


そう思った瞬間でさえ、

兄の目は――

自分を見ていなかった。


視線は、合わなかった。

そこには、

何もなかった。


情も。

心も。

同じ血も。

――記憶すらも。



ロザリーナは、

自分の腹へと視線を落とす。


包帯の白が、

ランプの光を受けて、

やけに明るく見えた。


生きている。


何とか、それだけは、

理解ができた。


部屋の隅に置かれた、

自分の鎧へと視線を向けた。


腹部に穿たれた、

槍の痕。


それが――

初めて鎧についた傷だった。


「……兄さん」


声は、

喉の奥で途切れた。


生きてさえ、

いればいいと思っていた。


それだけで、

すべてが報われると――

信じていた。


だが、

兄はもう、

そこにはいない。


これから。


――どうするの。

――何をすればいいの。


歩く理由も。

生きていく理由も。


何もかもが、

一つ残らず――

音もなく、崩れ落ちていった。



――思考が、心の底へ沈んでいく。


考えることも、

答えを探すことも、

もう、できなかった。


ベッドの端に、

ぽたり、と雫が落ちる。


涙だと気づくまで、

少し時間がかかった。


そして、

その泣く理由すら、

分からなかった。



部屋は、

静かだった。


外では、

砦が動いているはずだ。


民がいて。

兵がいて。

王が、決断を下している。


だがこの部屋だけは、

世界から切り離されたように、

何も起きない。


ただ――


ロザリーナだけが。


立つ理由を失ったまま。

生きていく理由を失ったまま。


そこに、座っていた。



その時だった。


扉が、

ゆっくりと開く。


だがロザリーナは、

顔を上げなかった。


小さな足音。


躊躇いを含んだ、

かすかな気配。


「……」


息を詰めるような沈黙のあと、

震えるほど小さな声が、

部屋に落ちた。


「……おねえちゃん」


一度目は、

意味として届かなかった。


「……おねえちゃん」


二度目で、

ようやく耳に入る。


グラの村から、

救い出した少女。


その声だった。


ロザリーナは、

ゆっくりと顔を上げる。


「……大丈夫?」


少女が、

泣きそうな顔でこちらを見る。


ロザリーナは、

一度だけ瞳を閉じ、

そして、ゆっくりと開いた。


「うん」


小さく、

けれど確かな声。


少女は、

おずおずとベッドのそばまで歩いてきて、

ロザリーナを見上げる。


ロザリーナは、

ベッドから下ろした脚に、

少女を抱き上げて膝に乗せた。


「もう、大丈夫」


少女の目を見て、

ほんのわずかに微笑む。


「おねえちゃん」


膝の上で、

扉のほうを向いていた少女が、

ロザリーナに顔を上げた。


「……おねえちゃん」


「なあに?」


「友だちも、

 ……来てるんだ」


「友だち?」


「うん。あそこに。

 入ってきても、いい?」


「……うん、いいよ」


少し開いたままの扉の下から、

同じ年ごろの少女と少年が、

恐る恐る顔を覗かせた。


――思い出す。


一人は、

かつて広場で大斧を振り下ろされる祖父ダルパスを、

小さな両手で庇おうとした少女。


もう一人は、

初めての晩餐で、

純白のドレスに泥だらけの手形をつけた、

わんぱくな少年だった。


「みんな入ってきて!」


膝の上の少女の声に背中を押され、

二人はバタバタと走り寄り、

ロザリーナの左右へ飛び乗った。


ロザリーナは、

大きく息を吸い込み、

一人ずつ、その顔を見渡す。


「私はロザリーナ。

 ……君たちの名前を、教えて」


それは、

彼女にとって、珍しい言葉だった。


五年間、人との関わりを避けてきた。

自分から名を聞くことなど、なかった。


「うん!」


膝の上の少女が言った。


「私は、イーサリア」


続いて、


「私はクロノ」

「僕はセス」


二人も、

少し誇らしげに名乗る。


ロザリーナは、

その三つの名を、胸の奥でなぞる。


「……ちゃんと覚えたからね」


それは、

名を知るということ。


そして――

小さな命を背負うと、決めた言葉だった。



その時。


開いたままの扉の向こうに、

二つの大人の影が現れた。


入って来る人に気づいて、

ロザリーナが、

膝の子を下ろし、

立ち上がろうとした瞬間――


「いや、そのままでいい」


ヴァレンティスだった。


「ここへ来る途中、

 あなたの心中を考えていた。

 ……だが、掛ける言葉が見つからなかった」


一拍。


「それでいい、とも思った。

 だけど……」


ヴァレンティスは歩み寄り、

イーサリアの頭を、そっと撫でる。


「援軍が、

 先に来てくれていて良かった」


続いて、

クロノとセスの頭にも、同じように手を置いた。


「王さま」


セスが、

顔を上げる。

いつも夕食時に、

ヴァレンティスの服を汚す子だ。


「……?」


「王さまも、

 おねえちゃんが心配だったの?」


罪のない、

あまりにもまっすぐな問い。


ヴァレンティスは、

しゃがみ込むと、セスに視線を合わせた。


「心配だったよ」


静かな声。


「……とても、心配だった」


それを聞いて、

セスが微笑む。


三人の子どもたちが、

顔を見合わせて笑った。


彼らは食堂で、

大人たちのロザリーナを案じる話を聞き、

イーサリアに連れられて、

ここへ来たのだった。



「ロザリーナ」


ヴァレンティスが、

静かに告げる。


「この砦は、もう守れない。

 夜半に、ここを発つ」


「民を連れて、

 父の城だったブラストリア城へ向かう」


一拍。


「……一緒に来てくれないか」


ロザリーナは、

一度だけ視線を落とし――


そして、

はっきりと顔を上げた。


「分かりました」


迷いのない声。


「私も、一緒に行きます」


それは、

逃げではなかった。


王と同じく――

過去に、区切りをつけるための選択だった。



ヴァレンティスと、子供たちが部屋を出ると、

入れ替わるように、

廊下の扉の前に立っていたロートが中へ入ってきた。


静かに、

しかしどこか緊張を含んだ足取り。


「ロザリーナ様」


ロートは一度、言葉を選ぶように息を整え――

それから、少しだけ安堵した表情で続けた。


「僕らと一緒に、来ていただけるのですね。

 ……本当に、よかったです」


ロザリーナはロートを見て、

小さく頷いた。


「殿下が、

 どうしてもご自分の口で話したいと仰って……

 それで、僕も同行しました」


言葉の途中で、

ロートはふと視線を落とす。


その瞳の端から、

静かに涙が零れた。


「……本当によかった」


それ以上は、言わなかった。


ロザリーナは何も言わず、

ただその様子を見ていた。


「移動は、殿下やガルデン将軍たちと同じ、

 大型の馬車になります」


事務的な口調に戻しながらも、

ロートは最後に、柔らかく付け加える。


「出立の時刻になりましたら、

 また、迎えに来ます」


「……分かった。

 ありがとう」


返事は短い。


けれど――

その瞳に、先ほどまでの揺らぎはなかった。


吹っ切れたわけではない。


感情の整理は、

まだ何一つ、ついていない。


理解も、納得も、

できてはいない。


だが――


それらすべてを、

胸の奥へ押し込めて。


この小さな命たちを守るために。

今は、立ち止まらず、先へ進む。


ロザリーナは、

ただそれだけを選んだ。


それだけで、

今は――十分だった。


――◇―― ――◇―― ――◇――


◆崖下・川辺◆


夜半。


雲に覆われていた月が、

わずかな裂け目を見つけたように、

白い光を地上へ落としていた。


崖の下。

黒く、深い谷底を縫うように流れる川。


水音だけが、

低く、途切れることなく続いている。


その下流で――

一つの黒い巨躯が、川辺に屈み込んでいた。


人の形をしている。

だが、

もはや人ではない。


影は、

ナマズのような巨大な川魚を浅瀬へ引きずり上げた。

月明かりを受けて、

ぬめる鱗が鈍く光る。


影は、

その魚にかぶりついた。


骨の砕ける音。

水しぶき。

短く、断ち切られる命。


影は腹が減っていた。


黙ったまま、

ただ、喰らう。


言葉も。

感情も。

そこには、もう存在しない。


月光の中に浮かぶのは、

荒ぶれた黒い背中だけだった。



五年前。

世界が二つに割れて、

この人界には、

獣界のように、

魔獣は存在しない。


食べ物になるものは、

芋や果物。

そして、川を泳ぐのは魚であり、

森を走るのは、動物だった。


たとえ獣と化しても。

たとえ理性を失っても。


ライザリオンは、

人を喰らわない。


それは選択ではない。

意志ですらない。


もっと深い場所――

かつて人として生きた記憶が、

今もなお、

その奥底で微かに残っている証だった。


だが。


魔獣を喰らわぬまま、

動物や魚の肉だけを食み続ければ。


魔物の血は、

やがて薄れていく。


その身体の内側では、

目に見えぬ場所で、

細胞レベルの壮絶なせめぎ合いが起きるはずだ。


力は、

確実に衰えていくだろう。


そして――

その先に待つものが、

救いなのか。

破滅なのか。

あるいは、まったく別の何かなのか。


それを知る者は、誰もいない。


月は再び雲に隠れ、

川辺は闇に沈む。


巨躯の背後で、

魚の血と、水音だけが、

何事もなかったかのように――

静かに、流れ続けていた。

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