第53話 闇に溶ける十一の影――敵の腹の中へ
◆ブラストリア城◆
夜。
雲に覆われた月の下、
西の大地は――音を失っていた。
風は弱く、
虫の声もない。
ただ、
城壁の上で揺れる松明の火だけが、
闇に沈んだ巨城の輪郭を、
かろうじて浮かび上がらせている。
――ブラストリア城。
かつて、西部最大の方面防衛拠点。
今は、黒帝軍の城。
その敷地は、ルドグラッド砦の三倍。
上から見れば正方形を成し、
一区域ごとに、
人の営みを丸ごと呑み込めるだけの広さを持つ。
十五メートルに及ぶ、切り立つ崖のような城壁。
その四隅には、
城壁と一体化した見張り塔が、
無言のまま聳え立っていた。
太く重い塔身。
頂には――
まるでとんがり帽子のような、円錐形の石造りの屋根。
尖った先端は黒く、
雲間から洩れた月明かりを受けて鈍く光り、
夜空へ向かって、静かに突き刺さっている。
城の東西南北。
四つの城門。
城を囲む広く深い堀には水が満たされ、
その上に架けられているのは、
巨大な鉄扉を兼ねた可動式の橋。
今はすべて、下ろされている。
夜の闇の中で、
ブラストリア城は――
眠っているかのように静まり返り、
それでいて、どっしりと身を伏せた獣のように、
いつだってそこにあった。
◇
ルドグラッド砦を離れた十一騎は、
街道を――
夜に溶け込むように駆けていた。
全速ではない。
整列もしていない。
ばらばら。
呼吸は荒く、
馬の足並みも揃っていなかった。
慣れない鎧。
慣れない敵の馬。
――敗走の速度。
やがて。
闇の奥。
平地の上に巨大な影が、はっきりと姿を現す。
――ブラストリア城。
城門前。
そこにいた。
黒帝兵たち。
本来ならグラを先頭に、
凱旋するはずの軍が、
死体のような姿で戻ってきていた。
鎧は歪み、
兜を失い、
血と泥にまみれたまま――
南城門へ吸い込まれていく、兵の列。
「……生きてる」
「……やっと戻ってこれた」
列のどこかで、掠れた声が漏れる。
兵は、数人単位。
互いに声もかけない。
生き残ったことだけが、
唯一の共通点だった。
ニコルは、その光景を一瞥し――
静かに手を上げた。
合図。
十一騎が、
城門から少し距離を取った林の中で下馬する。
「……走るな」
「喋るな」
「目を合わせるな」
兜の内側から、低い声。
「“帰ってきたふり”だけでいい」
全員が、無言で頷いた。
◇
城門へ向かう。
歩幅を落とす。
足を、わずかに引きずる。
一人が、
わざと膝を折りかけ――
隣の兵が、何も言わずに肩を貸した。
ニコルも同じように、
前を歩く、ふらつく兵の腕を取る。
「……大丈夫か」
低く、短く。
命令ではない。
問いでもない。
――敗走してきた兵の声。
兵は、一瞬だけこちらを見て――
「……ああ」
それだけ答えた。
疑いはない。
疑う余裕が、
誰にも残っていなかった。
◇
南城門。
巨大な鉄扉が、
堀の上に架けられている。
門番は二人。
だが――
顔を上げない。
確認もしない。
ただ、
戻ってくる兵の数を、
機械のように数えるだけ。
「……七十五」
「……七十六」
ニコルの前。
一拍、間があった。
だが、誰も何も言わない。
「……七十七……」
(七十七番か。
……その中には死神も混じってるぜぇ~♪)
ニコルたちは、
その数に紛れて――
鉄扉の上を歩いた。
橋を兼ねたそれは、
夜の闇の中で、黒く鈍く光っている。
水面は、はるか下。
底は見えない。
その上を――
歩く。
鉄靴が、
わずかに擦れる。
血の匂い。
汗と油。
体の奥に沈んだ、鈍い痛み。
敗走者特有の、
荒い息づかい。
誰も、足を速めない。
誰も、立ち止まらない。
橋の中央。
堀の底から、
湿った冷気が吹き上げ、
兜の内側を撫でていった。
やがて。
巨大な鉄門柱の間を抜け、
門を――
くぐる。
その瞬間。
城内の空気が、
はっきりと変わった。
焦げた油。
汗。
鉄。
獣の匂い。
「……助かった」
誰かが、吐き捨てるように言う。
返事はない。
必要ない。
ニコルたちは、
そのまま――
城内の闇へと溶け込んだ。
誰一人、振り返らない。
◇
しばらくして。
南城門の外。
「もう誰もいません!」
松明を掲げ、
周囲を見回して戻ってきた門番の声。
最後の兵が入ったあと、
巨大な鉄の橋が引き上げられる地響きがした。
――ゴウン。
重い音。
それは、退路の消滅。
敵の腹の中へ、確かに入った音だった。
兜の内側で、
ニコルは小さく息を吐く。
(……あとは、時間勝負だ)
この世界を制覇した、
――帝王ザイラスの城を、
攻める者などはいない。
この城は――
まだ“安全”だと思っている。
それが、 最大の弱点だった。
◇
ブラストリア城は、
四方を城壁に囲まれ、
それぞれに、四つの城門を持つ。
そして――
各城壁の上には、
常時、十名ずつの監視兵。
籠城を前提とした、
古い王国式の堅牢な城構え。
だが今、その城は――
守るための城ではない。
真の王が、戻ってくる城となった。
◇
ニコルたちは、
南城門から城内へ入ると、
散るように歩いた。
誰も、隊列を組まない。
誰も、行き先を口にしない。
それが――
敗残兵の、自然な動きだった。
城内は薄暗く、
松明の火が、ところどころで揺れている。
負傷兵は医務所へ。
生き残った兵は詰所へ。
行き場を失った者は、
壁の影や広場に座り込む。
兜を被ったまま、嗚咽を漏らす兵。
誰も、城全体を見ていない。
それが――
主を失った、
この城の、今の姿だった。
まだ誰も、
気づいていない。
敵の城の中で、
反撃の準備が、
すでに始まっていることを。
そしてその火は――
やがて、
この巨城そのものを照らし返す
狼煙になる。




