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第52話 静かなる決断――血の記憶が残る場所へ

◆作戦室◆


王館の最深部。

石造りの作戦室。


壁には、いくつもの亀裂が走っていた。

積み重ねられた年月ではない。

つい先刻まで続いていた――戦場の衝撃だ。


石の隙間から、

悲鳴と混迷の残響が、確かにこの場所まで届いていた。


縦に長い、重厚なテーブル。

それを囲む者たちの顔には、

消し去ることのできない疲労と、

それ以上の緊張が刻まれていた。


上座に、ヴァレンティス。


その右脇に、

鉄壁の老将ガルデン。


左脇には、

紅の軍神ベニバラ。


腹に巻かれた包帯には、

まだ血が滲んでいる。

椅子に深く沈み、両目を閉じたまま、微動だにしない。


「……ベニバラ。無理はしなくていい」


ヴァレンティスが声をかける。


だが彼女は、

瞼を閉じたまま、わずかに口元を緩めた。


「……大丈夫です」


掠れた声。


「陛下の……

 『王としての言葉』を、聞き逃したくはありません」


荒い呼吸。

それ以上は、言わなかった。


テーブルの周囲には、

新兵を叩き上げてきた剛毅な訓練教官ソルディオ。

内政と補給を預かるオルフェン。

主力を失った近衛兵を率いるロート。


そして――


本来なら、

ここに座っているはずの二人の席は、空いている。


遊撃隊長ニコル。

副隊長マクレブ。


王命により、不在。


その代わりに末席に座るのは、

若き遊撃兵――クレセントだった。


室内が、静まる。


ヴァレンティスは、

一度だけ目を閉じてから、口を開いた。


「……バルノア殿は」


短く、息を吸う。


「最後まで、

 我らの光であった」


その言葉に、

誰も声を出さない。


椅子から立ち上がる者もいない。

ただ、それぞれが、胸の奥で黙祷を捧げた。


「そして――」


ヴァレンティスの視線が、

クレセントへ向く。


「ニコルと、クレセント。

 お前たちが、あの“化け物”を退けた」


「礼を言う」


クレセントの肩が、僅かに揺れた。


「……隊長について行っただけです」


震える声。


だが、その瞳には、

かつて“英雄”と呼ばれた存在――

ライザリオンが、

人ならざるものへと変貌した光景が、

まだ焼き付いていた。


そして、

この場にいない、もう一人。


ロザリーナ。


最愛の兄と刃を交え、

殺されかけた者。


止血は済んでいる。

命に別状はない。


だが――

「少し、一人にしてほしい」


その言葉は、

今のルドグラッド砦が抱える痛みを、

そのまま象徴していた。


重苦しい沈黙が、

作戦室を満たす。



やがて――

その沈黙を破ったのは、

鉄壁の老将だった。


「オルフェンに聞いたがの」


低く、擦れた声。


「……なぜ、城壁を直さぬ」


作戦室の空気が、

ぴんと張り詰める。


「隠し砦は、露見した時点で守りようがない。

 それは、わしも分かっておる」


ガルデンは、

テーブルに置いた武骨な拳を、わずかに握る。


「じゃがな――

 それでも、ここで踏みとどまらねば」


「民を含めて、全滅じゃ」


重い言葉だった。

誰も、すぐには返せない。


「……ここを、捨てるおつもりか」


ヴァレンティスは、

即答しなかった。


一拍。


その沈黙に耐えきれず、

訓練教官ソルディオが口を挟む。


「捨てる、と言われましても……」


視線が、王へ向く。


「どこへ行くのです。

 千人近い民を、隠せる場所など――」


「隠しはしない」


遮るように、

ヴァレンティスが言った。


低く、だがはっきりと。


「……いや。

 これ以上、“隠す”こと自体が無理だ」


あまりにも、

丸裸な言葉。


ざわり、と空気が揺れた。


近衛のロートが、

慎重に言葉を選ぶ。


「では……陛下」


「どこへ、逃げるのですか」


ヴァレンティスが静かに告げる。


「逃げるのではない」


即答。


「……はい?」


短い疑問の声。


「では、どこへ?」


一同が、王へ顔を向ける。


作戦室の中央で、

ヴァレンティスはゆっくりと顔を上げた。


「――我が父の城だ」


彼は、一度だけ視線を落とした。


それは迷いではなく、

過去を置いていくための――

ほんの一瞬の区切りだった。


「皆を連れてブラストリア城へ行く」


瞬間。


誰かが、息を呑んだ。

椅子が、かすかに鳴る。


「正気……ですか」


オルフェンの声が、震える。


ベニバラは、

目を閉じたまま――

微動だにしない。


ただ、

その沈黙だけが、

この場の重さを物語っていた。


ガルデンだけが、

低く唸る。


「……あの城は、落とせん」


「それに今は、

 黒帝八将――グラ=シャルンの居城じゃ」


王は、頷いた。


「承知している」


否定も、弁解もない。


「今回の戦いで、

 グラは自分の城から、

 大半の兵を引き出していた」


「……確かに」


ソルディオが、

戦場を思い出すように言う。


「黒帝軍の鎧には、

 三つ目の紋章……

 グラの配下で間違いありません」


「そして」


ヴァレンティスは、

淡々と続けた。


「その兵の半数以上を、

 今日――

 お前たちが、ここで倒した」


「……え?」


誰かの喉が鳴る。


「八将のヴァルザークと、

 ドルグ=ハルザードは、

 皇帝ザイラスへ報告に、

 本城エルデンハートへ戻っただろう」


「だけど、グラが――」


ロートが言葉を継ぎ、

途中で、息を呑む。


「そうか。

 ……ブラストリア城を居城としていた、

 グラ=シャルンは……」


「ライザリオンに喰われて、死んだ」


淡々とした一言。


重く、落ちる。


「そうだ」


ヴァレンティスは、

一同を見渡した。


「そして今――

 ブラストリア城を守る兵の大半も、

 この戦場で屍になっている」


「……ですが」


オルフェンが、

冷静に口を開く。


「ブラストリア城の城壁は、

 外から崩せません」


「ルドグラッド砦の比ではない。

 あの城は――」


ガルデンの拳に力が入る。


そこで、

ヴァレンティスは一度、言葉を切った。



――かつて。


エルデンハート王国の中心には、

王城エルデンハート城があり、

その周囲を守るように、

東西南北へ方面城が配置されていた。


軍事だけではない。

政治も、物流も、信仰も。

王国の機能は、

その四つの城たちによって支えられていた。


西部最大の防衛拠点――

ブラストリア城。


十五メートルに及ぶ石壁。

水を湛えた深い堀。

四方を完全に囲む、

難攻不落の堅城。


王都が健在だった時代、

人々は疑わなかった。


――この城がある限り、西は守られる、と。


それでも。

五年前。

無数の魔獣を従えた皇帝ザイラスの軍勢は、

その城を落とした。


西部防衛線の崩壊。

そして、

王国が“力で抗う時代”の終わり。


ヴァレンティスは、

その記憶を正面から引き受けたまま、言った。


――沈黙。


「……だからだ」


静かな声。


「外からは攻めない」


沈黙。


ベニバラは、

それでも目を閉じたまま。


何も言わない。


その時。


「……あはは……」


低く、掠れた笑い声が落ちた。


ガルデンだった。


「これは、いい」


老将は、深く溜息をつく。


「……ジークに怒られるかもしれんな。

 『ようやく戻ってきたか。

 遅すぎるぞ、王子』とな」


「……ああ」


ヴァレンティスは、

かつて父と、

そしてあの英雄が立っていた場所を見据えるように、

わずかに笑った。


「あの人なら……きっと、そう言う」


「……先生か」


ずっと閉じていた目を開き、

ベニバラが、静かに顔を上げた。


ブラストリア城には、

ガルデン、ベニバラを含む五将がいた。


その総将。

白鋼(はくこう)の剣王――ジーク・ヴァイスハイム。


ベニバラの剣術の師であり、

五将の中で、

唯一、王にも命令できた男。


だが五年前の戦いにおいて、

彼はブラストリア城と運命を共にし、

戦場から姿を消した。



「日が変わる頃に出立する」


ヴァレンティスが、静かに告げる。


「民の馬車を整えろ。

 今のうちに食料を配給し、

 可能な者には、短くても仮眠を取らせてくれ」


それは、もはや相談ではない。

王としての、確定した命令だった。


一同は、黙って頷いた。



そしてここから先、


この王は、

躊躇なく“過去”へ踏み込もうとしていた。


ヴァレンティスは、

その視線を、逸らさなかった。


それが、

どれほどの血と覚悟を要する道か、

承知の上で――。


遊撃隊が消えた夜の闇の向こうに、

かつてのブラストリアの城壁が、

静かに真の王の帰りを待っていた。

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