第4話 蒼の剣姫、灰の砦にて
血濡れた朝が、静かに明けていた。
ロザリーナ、ニコル、そしてポコランは、焼け焦げた村を背に、
険しい岩場と薄暗い森の中を進んでいた。
魔王ザイラスの黒帝断罪軍が残した血の匂いが、
まだあたりに立ちこめている。
ロザリーナは一言も発せず、ただ前を見据えて歩を進めた。
その背には、まだ戦場の赤が微かに残っていた。
「はぁ~~……刺激的すぎる朝だったねぇ……?」
ニコルが伸びをしながら、半獣の耳をぴくぴく動かす。
「にしてもさ、お嬢さん。
さっきの動き、“旅の剣士”ってレベルじゃないよねぇ?
どっかの隠し領主とか、落ちぶれた王女様とか?
はたまた……お姫様を捨てて旅に出たタイプぅ?」
ロザリーナは歩調を変えず、目も向けず、ただ言った。
「……兄を探している。それだけだ」
「お、おお……冷た……」
ニコルが頭を掻く。
ポコランは背筋を伸ばし、思わずこくりと喉を鳴らした。
(兄さん……どんな人なんだろ……
この人の“全部を変えた”くらいの人……)
気配も表情も読めない女が、一点だけ見つめる“誰か”。
その沈黙に、ロザリーナの脳裏で五年前の兄の声が響いた。
◇
「この剣は、ただ重いだけの鉄塊だ。
だが――誇りを込めた時、初めて《王国の剣》になる」
「私の双剣は、兄さんの大剣みたいに重くない。
私じゃあ、国は守れないかな……?」
「馬鹿を言うな。
お前の剣は、王国の希望の剣だ。
お前は国を、俺はお前を守る。
それが、俺たちの剣の役目だ」
◇
ロザリーナは、ほんのわずかに胸を震わせた。
焼け焦げた大地の上を踏みしめながら、その温度だけは胸奥に残っている。
だが――その影は、すぐに冷たい表情の下へ沈んでいく。
ただ、歩く。
にこやかな声が、横から割り込んだ。
「そういやさぁ~、まだ名前聞いてなかったよねぇ?」
ニコルが胸に手を当てて、芝居がかった笑みを見せた。
「俺はヴァレンティス軍の遊撃隊長、ニコ・ニコル。
見ての通り、ネコ科魔獣とのハーフさ」
ポコランも慌てて胸を叩く。
「ぼ、僕は……ポコーレ・ポコランです!」
「はいはい。
まあ、『名も無き村人』でいいんじゃないの~」
「ポコランです!!」
ニコルはじっと見つめて、ふっと口角を上げた。
「お、主張は一人前。よし、村人Aに昇格」
そして二人の視線が、ロザリーナへ向く。
「で? お嬢さんは?」
ロザリーナは一度も振り返らず、足も止めず――
霧のような声で短く言った。
「……ロザリーナ」
沈黙。
その名は短いのに、場の空気を一瞬で冷やす重さがあった。
「ね、ねぇ……ニコルさん」
ポコランが、不安を押し隠すみたいに声を上げる。
「さっきの戦いで……あいつ、半分“魔獣”でしたよね」
「ああ、グラ=シャルンねぇ」
ニコルは歩調を崩さず、腕を組んだ。
「あいつは、魔王ザイラスの黒帝八将の一人。
右腕のあの化け物みたいな爪――
完全に“魔獣の血”が混じってる証拠だね」
ポコランは目を見開く。
「じゃあ……ドレッドサイトも?」
「そうそう」
ニコルは指を立て、ひらひらと振る。
「“恐怖視”は、ヒトの技じゃない。
俺の幻光幕もそうだけど――
純粋な魔獣種じゃない、魔獣融合種の連中だけが使える特権、
『魔獣化異能術』さ」
軽い口調なのに、胸の奥がひやりと冷たくなる。
「――で、その《デモンビースト・アーツ》には、いくつか“決まり”があってねぇ」
ニコルは片手をポケットに突っ込み、もう片方の指を折っていく。
「まずひとつ。
半獣はみんな、一人につき“異能はひとつきり”。
俺なら幻光幕だけ、
グラなら恐怖視だけってわけ」
「えっ……二つとか三つとか、持てないんですか?」
「持てたら、こんな世界とうの昔に終わってるって。
――で、ふたつ目」
ニコルの耳がぴくりと動く。
「《デモンビースト・アーツ》を使う時は、
体のどこかに埋め込まれた《魔獣核》を燃やす。
普通の体力や魔力とは別腹でね。
だから、一回ぶっ放したら“しばらくは二度目が撃てない”。
同時発動も連続発動も――ぜんぶ不可」
ポコランはごくりと唾を飲み込む。
「……じゃあ、“普通の魔獣”は使えるの?」
「純粋な魔獣は本能のままに暴走するだけ。
それを術式として『制御』できるのは、
俺たち理性を残している半獣だけってわけさぁ~」
ニコルの声が、湿った森の空気に溶ける。
ポコランは思わず、ロザリーナの背中を見上げた。
「じゃあ、魔獣を食べて魔獣の血が濃くなれば、
その能力も……」
「ああ、使えるかもしれない。
だけどな、魔獣の血が濃くなれば、人間性が崩壊する。
だから、ちゃんと術式として制御できるのは、俺みたいに――」
ニコルは自分の胸を親指で指し、猫耳をピクリと揺らした。
「“理性付き”の半獣だけってわけさぁ~」
ロザリーナの横顔が、風に揺れる。
ポコランはおそるおそる続けた。
「じゃあ……ロザリーナさんの兄さんが……もし……
魔獣を喰ってたら……その能力も……?」
その瞬間。
ロザリーナの気配が、凪いだ。
怒りでも焦りでもない。
ただ、冬の刃が空気を切るような、凍りつく静けさ。
歩みを崩さず、淡々と言った。
「……どうでもいい。
生きているなら、それでいい」
焼け焦げた大地を踏みしめる足が、ほんのわずかに強く地を噛んだ。
ニコルは肩をすくめ、呆れたように笑った。
「いやぁ~……アンタ、ほんっとに笑わないねぇ」
少し間を置き、
「……でもまあ、そういう奴、嫌いじゃないよ」
ロザリーナは一言も返さない。
返す必要もないというように、ただ前を見ていた。
――◇――
【ルドグラッド砦】
風が止んだ。
森を抜けると、岩山の谷間がぽっかりと口を開き、
冷えた空気が、ひやりと頬を撫でていった。
やがて、一行は岩山を切り裂くように築かれた、
天然の要害――《ルドグラッド砦》へと辿り着いた。
岩壁に寄りかかるように、その砦は静かにそびえていた。
五年前、世界が二つに割れて以来、王国中の城、砦は次々と灰燼に帰した。
ここは、その猛攻を唯一凌いでいる、魔王ザイラスに抵抗する最後の《希望の砦》である。
迷路のような峡谷の奥。
苔むした巨石の門――この砦の唯一の門が、内側から静かに開く。
その両脇の岩肌をくり抜いた城門の上には、狭い弓兵の射出口が点々と口を開けていた。
門をくぐると、中は驚くほど整然としていた。
広場の端には、花が供えられた小さな慰霊碑。
兵たちは槍を手に訓練を行い、
荷馬車が規則正しく物資を運び、
あどけない子供たちの笑い声が響き、
砦の広場には確かな“生活”が息づいている。
その視線がロザリーナたち三人に一斉に集まる。
警戒と緊張――しかしどこか誇りある眼差し。
ニコルがひらひらと手を振った。
「いやぁいやぁ、元気ですか皆さ~ん!
王都が滅んでも、こっちはまだ活気あるねぇ~?」
門番の兵士は笑いを噛み殺しながら敬礼した。
「ニコル殿、お帰りなさい!」
「ただいま~。土産は血と汗と――
あと若干のトラブルねぇ!」
軽い声に兵士は苦笑し、緊張がわずかに緩む。
しかし、ロザリーナは無言のまま砦の中を見渡す。
冷ややかな瞳に映るのは、守るべきものを失った世界の残り火。
(ここにも……戦いが根を張っている)
活気ある訓練の音の中にも、どこか重く静かな沈黙が漂う。
それは、彼らが『最後の砦』にいるという、根深い緊張感の証だった。
広場の中央には、王が拠る王館が静かに構えている。
一行は王館の石階段を上るため、広場を横切った。
そのとき。
広場の中央――
訓練で三人の男をまとめて地面に転がした少女が、ふっと振り返った。
短く切りそろえられた群青色の髪が肩で跳ね、
灰青の瞳がきらりと光を反射する。
老将ガルデンの孫娘。
王国最年少の兵士にして、訓練場の暴れ娘――
アズ・アルバレス、十五歳。
「ニコル! 昨夜はまた野宿してたの?」
小柄な体格からは想像もつかない身軽さで駆け寄ってくる。
腰の二本の短剣がカランと音を立てた。
「はいはい~、また近くの村までねぇ~。
いやぁ~今日は血なまぐさいお散歩だったよ。
それに今日は偶然の特別な星の巡り合わせでね――」
ニコルがひょいと右手を上げ、ロザリーナとポコランを示す。
「――ほら、お連れさま付き」
「はじめまして!
私はアズ……アズ・アルバレスです!」
アズは大きく頭を下げた。
若いのに礼儀正しい――けれどその瞳は戦士の光を宿している。
ポコランは慌てて礼を返した。
「ポ、ポコーレ・ポコランですっ!」
目が合ったポコランの頬が赤い。
ロザリーナは静かに一礼するだけ。
名も告げず、笑みもない。
だが、その沈黙にアズは一瞬だけ見入った。
(……きれいな人。でも、すごく……冷たい)
(……いいよ。そういう大人にも、私いつか“勝つ”から)
アズは軽く首を振り直し、ニコルへ向き直った。
「これから陛下へ帰還報告ですよね?
私も、ご一緒していいですか?」
ニコルは口端を上げ、子猫みたいに目を細めた。
「もちろんさぁ。
若いってのは元気でよろしい!」
アズの顔がぱっと明るくなる。
「はいっ!」
ポコランもそれに続き、
最後尾で、ロザリーナは一瞬だけ砦の中の空を見上げた。
赤黒い朝空は、ゆっくりと灰色に沈み、
その向こうで――青い空がわずかにのぞく。
ロザリーナは一つ大きく息を吐いた。
四人の影は王館へと向かっていった――。
*
その背を見送りながら、数人の兵士がひそかにざわめいた。
「……あの人……どこかで見たことが……」
「王都の……いや、まさか」
微かな記憶が、灰の砦の底で眠りから目覚めようとしていた。




