第37話 退かぬ者たち――左城壁と玉座の間で
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【左城壁】
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左城壁の上を――
黒鎧兵の圧が、確実に満たし始めていた。
押す。
斬る。
弾く。
それでも――
押し返しても、押し返しても、
黒い影は途切れない。
じり。
じり。
城壁から、
砦の中広場へ降りる石階段。
その階段の最上段から、
――中段へ。
さらに――
一段、また一段。
「……っ」
ガルデンは、歯を食いしばった。
高低差。
上から振り下ろされる槍と刃。
踏み外せば転落。
階段の途中――
盾を構えたままでは、踏ん張りも利かない。
(ここでは……不利じゃ)
老将の脳裏で、
判断は即座に下された。
「――下がれ!!」
怒鳴り声が、石壁に反響する。
――黒鎧兵は止まらない。
じり……。
じり……。
太腿が軋む。
呼吸が、老いた肺を灼く。
ガルデンは、
階段の最下段に視線を向けた。
「――このまま下まで降りろ!
階段では戦うな!!」
下から受け止める側が、削られる地形。
ここに留まれば、押し潰される。
兵が雪崩れるように階段を降り、
石床へ散開する。
老将は盾を前に、
石段を飛び降りた。
石床に着地した瞬間――
膝が、笑った。
「……っ!」
思わず、両膝をつく。
肩が上下する。
息が、荒い。
城壁の上――先端の真ん中で、
ずっと戦い続けていた。
額から、
汗が一滴――石床に落ちた。
その瞬間だった。
壁上の陰で、
弓が引き絞られる音。
――ヒュンッ。
音より先に、衝撃が来る。
「……ぐっ!」
腕が一瞬、盾を落としかける。
左肩の裏。
肩甲骨の奥へ――鈍い衝撃。
次いで、焼けるような痛み。
矢。
黒鎧兵の列の奥、
一瞬だけ光った矢羽。
黒帝の矢が、
ガルデンの背中へ突き立っていた。
「――将軍!!」
ソルディオが、反射的に前へ出る。
二発目を剣で叩き落とし、
ガルデンを庇うように前に立った。
「右城壁の弓兵!
左城壁階段へ、集中射手!!」
ソルディオの怒号。
その頭上を、矢が掠めて飛んでいく。
「大丈夫ですか!?
今、抜きます――」
だが。
「……抜くな。
……出血を抑える蓋代わりじゃ」
低い声。
ガルデンが、
伸びた手首を掴んだ。
「――柄の根元で折れ。
……今は、それでいい」
ソルディオの指が、震える。
「ですが……!」
「いいから」
荒い息の合間。
それでも老将は――一瞬だけ、笑った。
ソルディオが両手で矢を掴み、
柄をへし折る。
「大丈夫じゃ。
……戦いは、これからじゃ」
疲労困憊の老体。
血を流し、
前屈みに両膝に手をつきながら、
荒い呼吸を整える。
それでも――
その目は、まだ死んでいなかった。
「これ以上は退くな!
ここで踏ん張れ!!」
老将の掠れた怒号が、
砦内に響き渡った。
――◇――
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【王館・王室】
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玉座に座す
ヴァレンティスの耳に――
扉越しの近衛兵の悲鳴が、
はっきりと届く。
剣がぶつかる音。
肉を裂く、湿った音。
骨の砕ける、鈍い衝撃。
――そして。
そのすべてが、
不自然なほど急に、静かになった。
直後――
ドン……
王室の大扉が、
内側からでも分かるほど、重く揺れた。
内側では、
太い鉄製のかんぬきが、
左右の扉をがっちりと噛み合わせている。
近衛兵たちは、
無言のまま槍を構え、
ただ息を殺していた。
王は立ち上がらない。
逃げもしない。
ただ、
ゆっくりと目を閉じる。
(……来たか)
次の瞬間。
ドン……ドン……
扉の向こうで、
“何か”が、こちらを見据えている気配。
王室の外では――
悲鳴も。
剣戟も。
人の気配さえも、消えていた。
残っているのは、
胸を押し潰すような沈黙だけ。
ヴァレンティスは、
静かに背を正し、玉座に座り直す。
背筋を伸ばす。
王として。
最後の、その瞬間まで。
――その時。
ドゴォォォォン――ッ!!
今度は、
“叩く”という感触ではない。
衝突。
扉全体が、
内側へと歪み、
石と鉄が同時に悲鳴を上げた。
かんぬきが、
耐えきれず軋む。
ギギ……ッ!!
「――っ!」
近衛兵の一人が、
思わず息を呑んだ、その瞬間。
ズザァ――ン!!!
爆音。
否――
斬撃の爆風。
振るわれた双剣の軌跡が、
遅れて白い風となり、
床から立ち昇る二筋の――
かまいたちのような巨大な刃となって、
空間を切り裂いた。
その風圧に、
鉄のかんぬきは――
“砕ける”間もなく、縦の亀裂が走り、
次の瞬間、吹き飛ばされた。
金属片が、
王室の壁へ叩きつけられ、火花が散る。
両壁に掛けられた――
王家の紋章が刺繍された、
瀟洒なタペストリーが、
爆風に煽られ、大きく波打った。
室内を、
衝撃波が蹂躙する。
「――ぐっ!!」
四名の近衛兵が、
白い爆風に足を取られ、
その場に尻もちをついた。
槍が跳ね、
剣が床を転がる。
玉座前の真紅の絨毯が、
風圧でめくれ上がる。
――だが。
玉座の上の
ヴァレンティスだけは――
微動だにしない。
指が肘掛けを掴む。
背筋を伸ばしたまま、
ただ前を、見据えている。
――そして。
ギィ………………
ひび割れた大扉が、
軋みを引きずりながら、
ゆっくりと、内側へ開かれた。
砕けたかんぬきの破片が、
静まり返った王室で、
カラカラと床を転がった。
◆◆◆
赤褐色の影が、
血の匂いをまとい、
王室へ足を踏み入れる。
魔翼の処刑者――
ヴァルザーク。
赤に濡れた双剣を垂らし、
まるで散歩でもするかのように、
ゆっくりと歩み寄ってくる。
その足取りは、
戦場のものではない。
まるで――
玉座へ“拝謁”に来たかのようだった。
「――止まれッ!!」
最後に残った近衛兵が、叫ぶ。
ロートを含む、四名。
長槍を構え、
王の前へ立つ。
じり、と半歩。
さらに、じり、と半歩。
退くためではない。
左右に二人ずつ――
王を、背に入れるための後退だった。
震える者もいる。
歯を食いしばる者もいる。
だが――
誰一人、足を引かない。
「ここは、王の御前である!!」
ヴァルザークは、
小さく肩をすくめた。
「――どうやら、
合ってたみてぇだな」
赤い瞳が、
近衛兵たちを一人ずつなぞる。
「俺の知っている王ならな、
民を見捨てて、とっくに逃げてる」
そして、
その視線が、玉座へ戻る。
「けど――
まだ、そこに座ってやがるからよ」
一歩。
石床に、
血の足跡が、ひとつ、
くっきりと刻み込まれた。
「部屋を――間違えたかと思ったぜ」
低く、楽しげに。
「だけどな――」
赤い瞳が、
玉座の王を射抜く。
「そんな“王様”――
俺は、嫌いじゃない」
双剣から滴る血が、
床を汚しながら、
ヴァルザークは、ゆっくりと歩み寄る。
「そうじゃなきゃ――
壊し甲斐のある、
上質な“玩具”にならねぇからな」
ヴァレンティスは笑わない。
立ち上がると、
ゆっくりと玉座の背後へ回った。
そこには、
王館を支える、四本の支柱。
その根元に仕込まれた、
崩落のためのレバー。
(外は……全滅したのか?
……早すぎる)
指がレバーに触れかけて、止まる。
――王は、迷っていた。
(ベニバラだけでも……)
視線が、部屋の端へ向く。
そこには、
意識の途切れたままのベニバラが横たわり、
固く目を閉じていた。




