第30話 啼くカラス亭――交わらぬ視線と迫る断罪
――昼下がり。
酒場・啼くカラス亭には、
相変わらず腐った酒と汗の臭いが天井にこびりつき、
澱のように溜まっている。
昼の光が、汚れた硝子窓から斜めに差し込み、
埃と煙をゆっくりと照らしている。
地下や廊下の床、
壁や柱の影には、
拭いきれなかった血の跡が、
まだ生々しく残っていた。
――それでも。
店は、平常営業を装っていた。
昨夜、
地下から裏口を通って逃げた女たちのことは、
酒に酔った客たちのざわめきに紛れ、
表へは出ていない。
客の誰ひとり、
気づいてはいなかった。
だが――
カウンターの内側だけは、違った。
「何やってやがるッ!!」
怒鳴り声が、
酒場の空気を叩き割る。
「あれだけ言っただろうが!
目を離すなと!!」
店主ブロソンは、
でっぷりとした腹を激しく揺らし、
顔を赤黒く歪めていた。
飛び散った唾が、縮み上がる用心棒たちの頬に張り付く。
「女とガキが、揃って消えたんだぞ!!」
拳が、
鈍い音を立ててカウンターを打つ。
用心棒の一人が、
喉を鳴らしながら言い訳がましく口を開いた。
「あの毒は……
二日くらいは動けない筈なんですが……」
「うるせぇ!!」
怒鳴りが、即座に被さる。
――違う。
問題は、そこじゃない。
ブロソンは身を乗り出し、
声を、不自然なほど低く落とした。
「……勘違いすんな」
空気が、一段冷える。
「あの女剣士なんぞ、
死のうが逃げようが問題じゃねぇ。
だがな……」
用心棒たちの背筋が、同時に強張った。
「あのガキは――
グラ様からの大事な“預かり物”だ」
一瞬、
酒場の喧騒が遠のいたような錯覚。
ブロソンの額から、
冷たい脂汗が一筋、こめかみを伝い落ちる。
「いいか。
ガキだけは……“あれ”だけは、
必ず生きたまま連れ戻せ」
言い切った直後、
ブロソンは奥歯を噛み締めた。
――言い過ぎた。
視線が、無意識に左右へ走る。
客の笑い声。
杯の触れ合う音。
間の抜けた酒場用オルガンの旋律。
――誰も、聞いていない。
それを確認してから、
ブロソンは、さらに声を落とした。
「……このことが、
グラ様の耳に入ったら終わりだ」
喉が、ひくりと鳴る。
「“逃がした”と知られた瞬間、
俺ら全員――
その場で肉片に変えられる」
用心棒の一人が、
青ざめた顔で呟いた。
「……そんなに、
あのガキが……?」
ブロソンは答えなかった。
無意識に自分の太い首を手の平でさすった。
まるで、そこにあるはずのない死神の刃を確かめるように。
(人質だ。
鎖だ。
あのガキの父を縛るための、一本の首輪。
――それを、逃がしてしまった)
それを“認めた”瞬間、
現実は、逃げ道を失う。
キュッと、
胃の奥が冷たく縮むのを感じた。
現実になったら――
もう、終わりだ。
「いいか、今すぐだ」
ブロソンは、
怒鳴り声を“いつもの音量”に戻した。
「手下をかき集めろ!
ガキを、生きたまま連れ戻せッ!!」
それは、
失態などという言葉では済まない。
想像しただけで、
喉が締まり、
息が浅くなる。
――グラ様に知られたら。
その先を思い描く勇気は、
もはや、
ブロソンの中には欠片も残っていなかった。
◇
店内では、
壊れかけた酒場用オルガンが、
間の抜けた音を鳴らしている。
酒場の中央、
一段高くなった木舞台の上では、
仮面の踊り子が舞っていた。
昼間だというのに、
肩を大胆に露出した衣装と、
剥き出しの太腿に、
安い灯りが艶めかしく絡みつく。
仮面の踊り子――ベル・サフィール。
酔客の卑俗な笑い声や、
酒の腐臭が混じり合う混沌とした空間にあって、
彼女の旋回だけが、
そこを聖域に変えるかのように清廉で鋭い。
金を含んだ銀髪が、音もなく揺れる。
仮面の奥、翡翠の瞳は伏せられたまま。
まるで――
この酒場で起きているすべてが、
存在しないかのように。
「いいか、手下を集めろ」
ブロソンは舌打ちし、唾を飲み込んだ。
「逃げたガキを、必ず見つけ出せ!」
声が震えていることに、本人だけが気づいていない。
――そのとき。
酒場の扉が、音もなく開いた。
ざわめきが、一拍遅れて歪む。
入ってきたのは、
場末の酒場には、まったく似つかわしくない男だった。
褐色の素肌に、胸元が大きく開いた純白の絹シャツ。
皺ひとつなく、しなやかに細身の身体に沿っている。
その上に、無造作に羽織った外套からは、
ふわりと――
甘いバニラとアンバーが混じった香水の香りが、
酒と汗に濁った空気を、
何事もなかったかのように上書きする。
銀砂を溶かしたような長い髪が、
昼の光を受けて、気まぐれに揺れる。
その奥で、夜を一滴だけ閉じ込めたかのような、瑠璃色の瞳が瞬いた。
黒帝八将の一人――
無音の処刑者
セレファイス=エルド=アルテミス。
空気が、はっきりと変質した。
「……ブロソン」
名を呼ばれただけで、
ブロソンは跳ね上がるように振り返り、腹を揺らして駆け寄った。
「は、はっ……!
セレファイス将軍……!!」
声が裏返る。
脂汗が額から滲み、背筋に冷たいものが走る。
「グラは、まだ戻らないのか?」
淡々とした声音。
責めも、怒気も、ない。
――だからこそ、恐ろしい。
「も、申し訳ありません……!
戻り次第、すぐお知らせする手筈でしたが……
村から逃げ出した者を追って、まだ城へは……」
この村の北にある、グラの居城――ブラストリア城。
セレファイスは小さく頷いた。
「……そうか」
そして、静かに周囲を見渡す。
「何を、そんなに騒いでいる」
ブロソンの喉が鳴った。
「あ、いえ……」
「俺に言えないことか」
「いえ……」
低い声。
それだけで、ブロソンの膝が震える。
瞬きした一瞬で、セレファイスの処刑が済むことは知っていた。
「あの……このことは、グラ様には……」
「昨日捕らえた女が逃げただけでして……」
(……ガキのことは言えない)
「女」
短い一言。
「は、はい……
グラ様からの手配書に載っていた女で……」
その続きを言おうとした瞬間――
セレファイスは、ブロソンの言葉を手で制した。
背に視線を感じたのだ。
ゆっくりと振り返る。
酒場の中央。
華麗に舞う仮面の踊り子。
伏せられていた翡翠の瞳が、
ほんのわずかに持ち上がる。
瑠璃色と翡翠色の瞳が、空中で交錯した。
呼吸ひとつ分にも満たない刹那。
だが確かに――互いは、互いを認識した。
ベルは動きを乱さない。
何事もなかったかのように、再び視線を伏せ、舞へ戻る。
セレファイスも――
表情を変えない。
「……もう一度、ブラストリア城に使いを送れ」
「は、はいっ!!」
ブロソンは何度も頭を下げた。
セレファイスはそれ以上何も言わず、
踵を返し、酒場を出ていった。
扉が閉じる。
その瞬間、
酒場に溜め込まれていた空気が、ようやく動き出した。
ブロソンはテーブルに手をつき、
崩れ落ちそうな身体を支える。
舞台の上で、
ベルは最後の旋回を終え、静かに舞を締めた。
仮面の奥で、
翡翠の瞳が、わずかに細められる。
(八将? ……そろそろ潮時か)
啼くカラス亭に残ったのは、
腐臭と――
まだ交わらなかった運命の、冷たい沈黙だけだった。




