第2話 戦場の道化と蒼が降り立つ朝
グラのその一歩ごとに地が唸り、風が巻く。
右腕の異形が膨張し、重鎧の金属が軋む。
「うぉっ……なんだこの威圧感……!」
ポコランが息を呑む。
村人が目を逸らし、後退る。
「……いいねぇ。
その怯えと絶望の目――最高だ」
グラの唇の隙間から、血のような笑みがこぼれる。
地を踏みしめた瞬間、石畳が悲鳴を上げて陥没した。
その重圧の前に、風が逃げる。
――しかし、ひとりの半獣が笑っていた。
「ポコランくん、ちょっと下がっててね!」
ニコルが軽く後ろへ手を振り、剣先を下げる。
白銀の髪が風を切り、猫耳がぴくりと動く。
「おっかない朝稽古の相手ってわけか……
ま、将軍様なら、見物料くらい請求したいねぇ~」
「吠えるな、道化!」
異形の爪が一直線に襲う。
ギンッ!
金属が火花を散らす。
ニコルが剣で受け止めるも、衝撃で軽い身体が後方に弾かれた。
「うわぁ重っ……筋トレの域超えてんなぁ!」
着地と同時に砂を蹴る。
弧を描く跳躍。
剣を逆手に持ち替えて、
グラの脇腹へ斬撃を走らせる。
――シャキンッ!
刃が甲冑の隙をかすめ、火花が散った。
「……ほぅ、細いくせに鋭いな」
グラが地面に突き刺さっている戦斧を引き抜き、
横薙ぎに振り抜いた。
空気が爆ぜ、地面が裂ける。
「っとっと……危ない危ない!」
ニコルは紙一重で風圧を回避。
地を手で突き反転、背後へ回る。
(――大斧は間に合わない)
「背中、甘いぜぇ!」
――ズバァッ!
だが次の瞬間、
右の魔爪が振り返りざまに襲いかかる。
ニコルは一瞬遅れ、服の袖を裂かれた。
「がぁっ……右爪がくんのかよ!」
「これを避けるとは」
グラの第三の眼が妖しく光る。
その視線を浴びた瞬間、ニコルの全身が硬直した。
「……な、なんだ……体が……重ッ……!」
「《恐怖視》。
恐れなき者など、この世におらぬ」
――刹那、大斧が振り上げられた。
ニコルは自分の頬を爪で切り裂いた。
「いってぇ……!」
痛みが麻痺を吹き飛ばす。
――ドゴォォンッ!
間一髪で避けたが、
大地が砕け、爆風が吹き抜ける。
「うっわぁ~……マジ洒落になんねぇわ……!」
倒れた瓦礫の上に片膝をつき、荒い息を吐く。
頬から滴る鮮血。
それでも口元には笑み。
「でもねぇ……“恐怖”を見せるのは、こっちも得意でね」
ニコルが左手をひらりと上げる。
空気がゆらりと歪み、複数の幻影が生まれた。
「《幻光幕》!!」
八人のニコルが走り出す。
光の分身が、次々とグラに斬りかかる。
「くだらん!!」
グラの斧が幻影を消し飛ばす。
しかし本物は――その中。
低く滑り込み、懐へ。
「ここだぁ!」
白刃が閃く。
グラの左肩の甲冑が裂け、血が飛ぶ。
「……ッ、この小虫がァッ!!」
「いやぁ~、小虫呼ばわり慣れてんだけど、
食われる前に刺すのが猫流ってやつさ!!」
ニコルは後方へ跳び退く。
だが着地の瞬間、突進してきた右爪が空を裂いた。
――バギャッ!
左腹の軽鎧に、重い衝撃。
血が噴き出す。
「ぐっ……また右手!
……その腕、返品してぇなぁ……チート盛りすぎだろ」
ニコルが腹を押さえながら、じりじりと後方へ退く。
二人の間に、わずかな距離。
一瞬――風だけが息をしていた。
「貴様の軽口、次の一撃で永遠に閉ざしてやろう」
グラが地を踏みしめ、全身を弾丸のように突進させる。
戦斧が、朝の光を遮った。
「やれやれ……ホント、あんたら筋肉勢は、殺意まで重いんだよねぇ」
ニコルは笑いながら、純白の柄を両手で握り直す。
背後には、守るべき村人と――ポコラン。
「――ここから、下がるわけにはいかねぇんだわ」
(だって、道化師が舞台から降りちゃ、芝居が終わっちまうだろ?)
全力で振り下ろされた斧を、白刃で受け止めた。
――ズゴォォォン!
ニコルの腕が悲鳴を上げ、足が石畳にめり込む。
衝撃が地面を割り、砂煙が二人を包む。
石畳が裂け、家屋の破片が宙に舞った。
刃先が、ニコルの額をかすめて止まった。
「……な、何だと……?」
グラの目がわずかに泳ぐ。
「ニコルさん!」
ポコランの叫びが響く。
(くそ……僕では、何もできない! あんな将軍、僕の剣じゃ――)
ニコルは片目を細め、血を流しながら笑った。
「っは……朝から血の匂いきっつ……」
軽口を叩いたが、額から流れる血が目に入り、視界が滲む。
荒い息を吐き、腕のしびれを止められない。
(こりゃあ、ちょっと手こずりそうだわ……)
「なら、これで終わりだ、道化!」
グラが右爪を高く振り翳す。
――その瞬間、空気が止まった。
ニコルの耳がぴくりと動く。
風が、完全に消えた。
グラの背に走る、圧倒的な“死”の気配。
血の鼓動だけが、世界を叩いていた。
ゆっくりと振り返る。
ニコルもそちらへ視線を向けた。
影が一つ――グラの背後に立っていた。
双剣が蒼光を帯び、栗色の髪が風に揺れる。
絶望世界を渡り歩く、双剣の放浪者。
かつて《戦場の双剣姫》と呼ばれた女――
その名を、
ロザリーナ・エルデンハート。
双剣が光を帯び、構えが静止する。
蒼の旅装束の女戦士――その青銀の瞳がグラを射抜いていた。
ポコランは思わず息を呑む。
村人たちの喉から、震えた息が漏れた。
それは、崩れかけていた絶望の空気が、ほんのわずかに揺らいだ瞬間だった。




