第1話 血に染まる朝――戦場の道化、舞い降りる
朝焼けは血に染まり、村の鐘は鳴らなかった。
広場の門前。
木の枝に吊るされた村人の死体が、朝風に揺れている。
その肩に群がる黒いカラスが、赤黒い肉を無心に啄んでいた。
死の匂いが風に混じり、村全体を包んでいる。
その風に、子供の泣き声すら乗ってこない――。
その下を、漆黒の鎧をまとった兵たちが行進していく。
《絶望世界》を支配する魔王ザイラスの軍――
『黒帝断罪軍』三十名。
縄で縛られた村人たちが、広場の中央に並ばされていた。
誰も声を上げない。
助けたい――だが動けば、その場で首を刎ねられる。
この数日で、嫌というほど見せつけられてきた現実だ。
女は唇を噛み、子供は母の裾を掴んで身をすくめる。
老人は祈るように手を合わせ、若者は拳を握りしめた。
諦めと恐怖が、血の匂いよりも濃く広場を覆っていた。
門から広場までは三十歩。
広場には黒帝兵が半円に陣取り、その中央に縛られた村人。
右手に吊り木、左手に井戸。
――その中心に、“異形の将軍”がいた。
漆黒の魔甲冑を纏い、右腕だけが異様に肥大化していた。
鎧を押し破るほどの筋が盛り上がり、指先には黒鋼の爪、
――魔獣種ミノタウロスのような前脚だ。
左腕に握るは、人の胴ほどもある柄の、血塗られた戦斧。
その名を、グラ=シャルン――《ザイラス軍黒帝八将》のひとり。
巨体が一歩踏み出すたび、地面が軋んだ。
村人たちは息を呑み、視線を逸らす。
「いいねぇ――」
嗄れた声が響く。
「恐怖に魂まで折られた目は、美しい。
お前たちも、骨の髄まで従順になれ」
赤黒い双眸が村人たちを舐め回す。
額にある第三の目が、妖しく光った。
視線が縛られた老人に向かう。
「まずはお前だ。
この連中に、“死に方”を教えてやれ」
その言葉に、甲高い声が割り込む。
「おじいちゃんを――だめっ!!」
小さな少女が祖父の前に飛び込み、両手を広げて立ちはだかった。
グラ=シャルンの嗄れ声が、愉悦を含んで低く響く。
「……良いぞ、良いぞ。
小娘の絶叫は、村の心に深く刻まれる」
少女の身体よりも大きな斧が、ゆっくりと――しかし確実に振り上げられる。
目をつむって、小さな両拳をギュッと握る少女。
「お前ら、しっかり見とけよ」
傷だらけの父親が自分の娘を庇って震え、兵士崩れの若者が膝をついて泣いている。
陽光を受けた刃が鈍く光り、群衆は目を覆い、悲鳴と嗚咽が漏れた。
……その時だった。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
怒声と同時に、少年が疾風のように飛び込む。
少女を抱きかかえ、そのまま地を転がって避けた。
直後――
轟音。
振り下ろされた大斧が地面を砕き、石片が雨のように飛び散る。
遅れて、空気が震え、土煙が視界を霞ませた。
「……なっ、貴様ッ!」
兵たちがざわめき、剣を構えて取り囲む。
「子供に刃を向けるなんて……!
それでも“人間”かよッ!」
幼い少女を抱きしめるポコランの背は震えていた。
それでも――その震えが、彼の覚悟の証だった。
村人たちは息を呑む。
「ポコラン、やめろ! 死ぬぞ!」
「動くな……今は……耐えるんだ……!」
それでも、少年は退かなかった。
ポコーレ・ポコラン、十六歳。
剣の腕は平凡。戦士としては未熟。
だが――その瞳だけは、誰よりも熱かった。
「囲まれた……死ぬかもしれねぇ……
けど、見て見ぬふりは――もっと嫌だ」
蒼い顔。
恐怖を押し殺し、引ける腰で立ち続ける。
背に少女を庇い、ぎこちない動きで剣を抜いた。
ひゅ、と乾いた風。
その頼りない姿に、兵たちは鼻で笑う。
「ハッ……ガキが剣を持ったつもりか」
もう一人が嗤う。「その剣先、プルプルしてんぞ」
鎧が擦れ、剣が一斉に上がる。
――その瞬間。
空気が弾けるように、奇妙な気配が空気を滑った。
「お~~っとおっとぉ~~!」
軽い。
戦場には似つかわしくない“狂気の軽さ”。
時間が止まる。
静まり返った広場へ、ひときわ明るい笑みが落ちた。
「いやぁ~、これは見過ごせませんねぇ~~。
朝のサプライズぅっ!」
ポコランを囲む黒帝兵――その背後、村の門側。
四つの影が疾駆。
そして――
黒帝兵たちの身体が、音もなく斜めに崩れ落ちる。
先頭の笑みを浮かべた小柄な男が、一歩前へ。
少女がポコランの背から覗き込む。
右手には、純白の柄の細長い湾曲剣。
白鞘の刀身が朝の光を受け、まるで雪を溶かすように淡く輝く。
星と月をあしらったマントが、ひるがえった。
ハーフマスクの奥から覗く瞳は、夜闇のような縦に細い金色の光を放つ。
白銀の髪から覗く猫耳が、朝風にピクリと震えた。
――銀髪の半獣。
その斬撃は、肉を荒らさず、骨だけを断つ。
マントの裾が風を切り、銀の音が広場を裂いた。
抵抗軍ヴァレンティス陣営の遊撃隊長。
『戦場の道化師』――ニコ・ニコル。
「いやぁ~、ポコランくん、朝から燃えてるねぇ。
でもさぁ――墓場じゃ正義は語れないんだぜぇ?」
ニコルの部下。
三人の遊撃兵が、ポコランの前に展開する。
「ここからは俺たちに任せな。
……まあ、死に急ぎたいなら止めないけどぉ?」
「助かる……でも、でも僕も戦うっ!」
震えながら剣を構えるポコランへ、
ニコルは肩をすくめてニヤリ。
「あちゃぁ~、言うねぇ。
ま、気に入ったよ。それ、悪くない」
ニコルの剣が閃く。
黒帝兵は一人で十人を相手取る精鋭。
その彼らが――音もなく次々と斬り伏せられる。
「っ、こいつ……道化じゃねぇ……!」
そのとき。
――ズガァン!!
轟音が落ちた。
大地が割れ、巨大な戦斧が飛来。
取り囲む黒帝兵ごと吹き飛ばし、
ニコルの足元数センチへ突き刺さる。
「クレセント!」
ニコルが叫ぶ。
「だ……大丈夫です!」
最年少クレセントは吹き飛びながらも立ち上がる。
仲間が彼の落とした剣を差し出す。
静寂。
広場の空気が凍りつく。
「チマチマ手こずってんじゃねぇ!
下がれ、俺が殺る!」
グラ=シャルンが苛立ちを露わに巨体を揺らす。
兵たちが慌てて道を開けた。
グラは嗤った。
「速さは線、力は面。
面は線を呑む――だから俺は止まらん」
「おやぁ~、アンタ哲学者だねぇ。
でもさぁ、面で押すのが戦なら――線で刻むのが芸術ってやつさぁ~」
ニコルは笑みを消し、ハーフマスクの奥で瞳を細めた。
立ちはだかる右腕は、まるで鉄をねじ曲げた獣の脚。
その爪先が、朝焼けの光を鈍く反射する。
壊れた鐘が、遠くで軋むように鳴った。
――地獄の朝は、これからだった。
風下、屋根の影で、灰青色の外套が一度だけ揺れた。
朝焼けの赤が、その蒼の裾を照らす。
――静かに佇むその影だけが、凪いだ気配をまとっていた。




