第14話 静寂の異変――囁くは誰かの怒声の残滓
翌日。
ロザリーナは、ふと瞼を持ち上げた。
柔らかな光が、窓から斜めに差し込んでいる。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
(……こんなに、深く眠ったのは……)
差し込む陽の影からして、もう頭上に近い。
無防備で、こんな時刻まで眠っていたなど、何年ぶりだろう。
いつもなら、胸を締めつける悪夢で夜明け前に目を覚ますはずなのに――
今日は、暗闇の影すら追ってこなかった。
(……誰かの温もりが、悪夢を押し返してくれたのか)
ゆっくりと身体を起こし、手を伸ばす。
そこにあるはずの、自分の双剣。
だが――
(……ない)
指先が触れたのは、何もない空間だけだった。
昨夜、入口のそばに立て掛けておいた軽鎧も消えている。
静かすぎる。
ロザリーナは寝台から降り、窓へ歩み寄った。
外を見下ろす。
昨日あれほど賑わっていた広場なのに、露店が一つも開いていない。
走り回る子どもたちの声も消えている。
ポコランが泥まみれで倒れた訓練場――あれほど喧騒に満ちていた場所でさえ、
人の姿は無く、静まり返っていた。
(……何か、変だ)
胸の奥に、冷たいものがするりと落ちていく。
ロザリーナは部屋を出て、石階段をゆっくりと降りた。
石壁に反響するはずの足音が、やけに軽く響く。
人影はない。
昨日の砦とは別物のように、空気が沈んでいる。
そこには、穏やかな談笑も、仕事に向かう兵の足取りも無かった。
ただ、どこかにまだ残っている“誰かの怒鳴り声の痕跡”――
そんな、嫌な余韻が空気に滲んでいる。
広間の扉を押し開けた。
昨夜、灯火と笑いに包まれたあの場所。
ベニバラの重たい視線も、アズの驚きも、
ニコルのくだらない軽口も――
すべてが音のない影に変わっていた。
テーブルの上には、皿もグラスもなく、
広間はあまりにも整然としていて、逆に不自然だった。
(……誰もいない)
武器が無いことに焦りはない。
自分は、素手でも戦える。
それでも――
昨日とはまるで違う、この“静かすぎる砦の空気”のほうがよほど不気味だった。
まるで、砦そのものが気配を隠しているかのように。
(何が……起きた?)
ロザリーナの中の本能がざわついた。
彼女は、青銀の瞳を細め、
音を探すように静かな広間をゆっくりと見渡した。
その時――
外で慌ただしい空気が揺れた。
馬車の音。多くの人が駆け込んでくるような足音。
――◇――
数刻ほど遡る――
朝の光がルドグラッド砦の石壁を淡く照らし始めた頃。
まだ露の残る空気の中、
王館の食堂では、暖かな湯気が静かに漂っていた。
ベニバラ、ニコル、アズ、ポコラン、ガルデン、そして王・ヴァレンティス。
昨夜とは打って変わって質素な朝食――
黒パン、塩で煮た根菜、豆のスープ、干し肉の薄切り――を囲んでいた。
給仕の中年女性が、ガルデンの前へ静かに皿を置いた。
「ロザリーナさんは?」
ポコランが黒パンを頬張りながら尋ねる。
「まだ、寝ていると思いますよ」
給仕の女性は落ち着いた調子で答えた。
「起こして参りましょうか?」
その手を軽く止めたのはヴァレンティスだった。
「寝かせておきなさい」
王は根菜と豆の薄いスープを啜りながら、穏やかに言う。
「昨夜は……疲れていたはずだ」
ニコルがにやりと笑う。
「いや~、でも驚いたよねぇ?
あの剣姫さんが、白のドレスまとって来た時はさ」
アズも、その場面を思い出したのか、こくこく頷く。
「うん……なんか……“ほんとのお姫様”みたいだった。
あれ着て歩いてくるの、胸がどきどきしたよ」
ベニバラはスープを飲む手を止め、わずかにそっぽを向く。
顔はそっけないが、耳がほんの少し赤い。
ニコルがすかさず突っ込む。
「いやいやいや、あんた、あん時ちょっと固まってたよ?
“思ってたより似合ってる”って顔だったよねぇ?」
「だまれ」
ベニバラが即答した。
アズがクスッと笑い、ポコランは昨夜の光景を思い出して頬を赤らめる。
「ロザリーナさん……すごかった……
なんか、背筋が勝手に伸びちゃうっていうか……」
ガルデンも静かに頷いた。
「姫姿も、あの者には自然だった。
……あれが“王家の血”か」
小さな食堂に、穏やかな朝の空気が流れる。
昨夜の緊張も、泥の匂いも、少しだけ温かな灯に溶けていく――
その時だった。
――ドンッ!
厚い扉の向こうから、石床を叩く足音が一気に近づいてくる。
「し、失礼しますッ!!」
見張り台の若い兵士が、息を切らして駆け込んできた。
その顔は、朝の光よりも青ざめている。
「大変です!!――ベニバラ将軍!!」
一同が一斉に顔を上げた。
数名の兵も蒼い顔で駆け込んでくる。
空気が、一瞬で張り詰める。
ヴァレンティスは椅子を静かに引き、
スープの余熱すら置いていくような動きで立ち上がった。
「……何が起きた?」
兵士は王に跪いて、震える喉を必死に動かし、
その場にいた全員の背筋を凍らせる言葉を吐いた。
「こちらに――こちらに向かってくるものが……!!」
朝の食堂の温もりが、
一瞬で冷たい鋼の気配に変わった。




