表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/18

第13話 泥の手形が残した――小さな温もり

晩餐が終焉に近づき、空き皿が目立ってきた。


そんな時だった。


――ドタタタタタッ!!


厨房の方から、全力疾走の軽い靴音が駆け込んできた。


「うああああああぁぁぁぁッ!!」


「ん?」


ニコルが半獣耳をピンと立てた瞬間。


大きなテーブルのクロスの下を、

小さな影が一つ、ほとんど弾丸のような勢いで突っ走り――


ひらり。


ロザリーナの膝の上へ、

テーブル下から跳躍して、そのまま胸元へダイブした。


「……っ!」


ロザリーナは、思わぬ衝撃にフォークとナイフを構えたまま、

両手が“万歳”の形で固まる。


胸元に抱きつかれる――いや、自分に触れられるという感覚が、

五年の旅路に一度もなかった。


白いドレスの胸元には、泥だらけの小さな手形がペタリと残った。


(……なにが……起きた?)


ポコランが驚いて、椅子を倒しそうになって立ち上がった。



しかし――


ニコルとアズは、うつむいたままクスクス笑い、

王や、ガルデンとベニバラでさえ、

まるで何事もなかったかのように杯を傾けていた。


周囲の静けさに、ロザリーナの困惑はさらに深まる。


(これ……どうしたら?)


ニコルが肩を震わせながら囁く。


「……大丈夫。よくあることだから……」


アズも苦笑しながら頷いた。


「うん……“恒例行事”ってやつ」


その時――


「ご、御免なさいッッ!!」


厨房の奥から、慌てふためく女性が駆け込んでくる。


給仕係の母親だ。


彼女は子供を抱きかかえると、

泥の手形がロザリーナの胸元に残っているのを見て顔を真っ青にした。


そして、王へ向かって深々と頭を下げる。


「陛下……!! 

 息子が……まことに、まことに申し訳ありません!!」


ヴァレンティスは、静かに手を振った。


「かまわぬ。元気であることは、良いことだ。

 晩餐を騒がせたからといって怒る王などは、ここにはいない」


その柔らかい声に、母は涙ぐみながら子を抱えて退出する。


その背中を、ベニバラはほんのわずかに見送る。


アズがロザリーナへ小声で囁く。


「……あの子のお父さん。

 この砦の英雄なんです」


ロザリーナの目だけがわずかに動く。


ニコルが説明を引き継ぐ。


「あの子の村に、黒帝軍の奇襲があった時、

 八将の一人――ドルグ=ハルザードと戦って、そこで倒れた。  

 その時、まだ新兵だったのが……」


ニコルは、視線を横へずらす。


ベニバラは、無言でワインを口に運んでいた。

その横顔は、どこまでも静かで―― どこまでも痛みを隠していた。


「逃げるのが精一杯だったんだよ、あの時は」

ニコルは小さく続ける。


「だからさ。  

 “弱いままじゃ、何も守れない”って思ったんだろうね、

 ……それが、ベニバラの全部の原動力だよ」


アズは拳を胸に寄せ、呟く。


「だから……あんなに強いんだ」


ロザリーナは、静かに視線を伏せた。

ここに来た時に、広場の端にあった慰霊碑が頭に浮かんだ。



晩餐が終わり、

最初に席を立ったのはヴァレンティスだった。


ロザリーナの横を通り過ぎる際、

王はわずかに胸元の泥の跡へ目をやり、歩調を緩め――控えめな声で言った。


「……今日は、すまぬことをした」


軽く会釈すると、そのまま静かに広間を出ていく。


ロザリーナは、その言葉の意味が分からず、

ただ小さく首を傾げた。


やがて他の者たちも席を立ち始め、

賑やかだった広間はゆっくりと静まっていった。


その中で――

ロザリーナはひとり、ベニバラのもとへ歩いていった。


白いドレスの胸には、

小さな泥の手形が、くっきりと残っている。


ロザリーナは頭を下げた。


「……すまない。

 ドレスを……汚してしまった」


ベニバラは、その泥の跡を一瞥すると――


「貴女が汚したわけではないだろう」


短く、しかし揺るぎのない声で返した。


さらに、ほんの少しだけ顔を向けて続ける。


「……砦に、だ。

 残る気は……あるのか?」


ロザリーナは、僅かに俯いた。


一拍置いて、


「すまない。私は兄を――」


「いうな。悪くもないことで言い訳をさせるのは嫌いだ」


ベニバラが言葉を止めた。

彼女は背を向けると続けた。


「……王に感謝されるかもしれぬぞ」

ほんの一瞬だけ、目が逸れた。

その言葉を残し、ベニバラは踵を返して歩み去る。


ロザリーナは、思わず首をかしげた。


そこへ、ひょっこりとニコルが横から顔を出す。


「ね? さっき言ったでしょ。

 あの子、毎回どこかに“手形”つけてくのよ」


「……毎回?」


ニコルはニヤリと笑った。


「うん。“ほぼ儀式”みたいなもん。

 あの子は優しい目をしたところにしか行かない。

 だからね――つける場所は、決まってるんだ」


ロザリーナが瞬きをすると、

ニコルは王座のほうを顎で示す。


「――王の胸さ」


ロザリーナは、思わず息を止めた。


王が先ほど詫びた理由。

ベニバラの言った『王に感謝される』という言葉。

すべてが、ひとつにつながる。


ニコルは続けた。


「だからね。

 今日は珍しいんだよ――

 “あの子が飛びついたのが、王じゃなくてあんた”ってのは」


蒼い瞳が、わずかに揺れる。


ニコルは肩を竦め、軽い調子のまま言う。


「いやぁ……あんたさ。

 絶望世界でも、子どもに懐かれるタイプなんだねぇ」


ロザリーナは返事をしなかった。


ただ、胸元の泥の手形に視線を落とす。


小さなどろんこの手形。

ほんのかすかな温もりの残るその跡に、

この砦にも確かに――失われた者たちの“灯火”が息づいていると感じた。


兄のことしかなかった胸の中に、

気づかぬほど微かな――けれど確かに“別の温度”が宿ったことを感じた。

その灯は頼りないほど小さいのに、不思議なほど暖かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ