第11話 折れない心――兄が教えてくれたもの
ポコランが、泥の中からゆっくりと立ち上がる。
「……まだ、いけます」
アズが小さく呟く。
「バカだ……ほんと……」
だが、その声色には、嘲りよりも僅かな敬意が混じっていた。
「――一番!」
木剣が丸太を叩くたび、掌の皮が裂けていく。
避けきれなかった丸太が肩を、腿を、背を打ち据え、
ゴスッ。
バキッ。
ドンッ――。
「っ、ぐ……っあ……!」
泥へ叩きつけられるたびに、鼻から、口の端から、赤いものが落ちていく。
鼻血は泥と混ざって黒く沈み、吐いた血だけが鮮やかに地面に滲む。
(もう……何本かなんて、わかんない……)
「今ので五本。半分だよ~?」
ニコルの軽い声が、遠くの井戸の底みたいに聞こえた。
(半分……まだ、半分……)
顔は紫に張れ上がり、
脚は鉛。
腕は自分のものじゃないみたいに重い。
それでも――
(ここで倒れたら……絶対に、何も守れない)
ポコランは膝をついた姿勢から、ゆっくり立ち上がる。
左目の瞼は垂れたまま、視界が細い。
「……お願いします、ニコルさん……!」
ニコルの金色の瞳が細くなる。
丸太に力を込めて押し込み、さらに勢いを増した。
「――二番!」
避けているのか、ぶつかりにいっているのか、もう自分でも分からない。
それでも木剣は、確かに丸太へ吸い込まれた。
バンッ!
「一番!」
ガンッ!
「っ、あああああッ!」
横から掠めた丸太に、鼻から鮮血が噴き出す。
「鼻ぁぁぁっ!!」
アズが頭を抱える。
視界は真っ赤に滲むのに、
ポコランの目だけは前を向いたままだった。
「――三番!」
「う、うおおおおおッ!」
腕の感覚はもう無い。
振るしかできない。
倒れそうになるたび、地面を蹴りなおす。
(倒れるのは……十本やりきってから……!)
「二番!」
木剣が当たった瞬間、
ドゴッ!
横から丸太が腹をえぐった。
「がはっ……!」
逆流した血が喉を焼く。
ポコランは膝から崩れ、そのまま泥の上に赤いものを吐いた。
「ポコラン!」
アズが飛び出しかける。
「動くな、アズ」
ガルデンの低い声音が突き刺さる。
「死ぬと判断したら、私が止める」
アズは悔しげに唇を噛むしかなかった。
ポコランはしばらく、自分の落とした血が泥に吸い込まれるのを見ていた。
だが――その肩が、小さく震え、再び立ち上がる。
「っ……まだ……あと一本……」
声は震え。
体は限界。
それでも、目だけがまっすぐだった。
ニコルは小さく息を吐いた。
「……十本目。
――一番」
夕陽を受けて長い影を引きながら、丸太が大きく弧を描く。
ポコランは、残った力すべてを――
たった一度の振りに込めた。
「うおおおおおおおッ!!」
バァンッッ!!
木剣が丸太を叩き、
その反動で大きく吹き飛ぶ。
泥の上を転がり、そのまま大の字で動かなくなった。
揺れ続ける丸太が、彼の上で交錯していた。
短い沈黙。
ニコルが木剣を肩から下ろす。
「――十本。
うん、合格」
ポコランは、泥と血にまみれた顔で、
かろうじて笑みとも痙攣ともつかぬ表情を浮かべた。
「……やった……僕……
……十本……」
そのまま、意識を手放した。
アズが駆け寄ろうとするより早く、
ガルデンが大股で近づき、軽々とポコランの体を肩に抱え上げる。
「……生きているな」
短くそう言って、治療所の方へと歩き出した。
ニコルは、その背を見送りながら、
いつもの軽口とは違う、静かな声を零す。
「――“見て見ぬふりは、死ぬより嫌だ”……だっけねぇ。
強くおなりよ」
アズが隣に立ち、泥の跡を辿るように足元を見下ろした。
「バカですよね……絶対あいつ」
ニコルは笑った。
「うん。でも――戦場は、
ああいうバカが、勝敗を変えるかもしれないねぇ」
夕刻の訓練場には、
まだ丸太の揺れる軋みと、
遠くで鳴く鳥の声だけが残っていた。
そして――
ポコランが倒れた場所の泥だけが、
赤く濡れたまま、
じわり、じわりと夜の色に沈んでいく。
◇
砦の王館。
その二階の静かな一室――。
薄いカーテンの隙間から、
ロザリーナは訓練場を見下ろしていた。
動かないポコラン。
その体を迷いなく担ぎ上げるガルデン。
丸太を元の位置へ戻すニコル。
そして、その跡をたどるように泥と血の跡を見つめるアズ。
ひとつ、またひとつと、
ロザリーナはその光景を確かめるように目で追っていた。
(……折れない心)
息のように――それは小さな呟きだった。
カーテンが、風にふわりと揺れる。
その揺れに合わせるように――
胸奥に封じていた記憶が、静かに灯った。
――五年前よりもっと前。
自分がまだ幼かった頃。
夕暮れの庭で、兄ライザリオンの前に立っている。
「おまえはすぐ泣く。
すぐ諦める。
でも――立ち上がるのだけは、誰にも負けない」
重い木剣。
すりむいた膝。
転んでは泣き、泣いては立ち上がり、
それでも兄の前に剣を構え続けた幼い自分。
「立て。
倒れるのは、最後の一度でいい」
夕陽を背にした兄の影が、幼い自分の上に長く伸びていた。
兄は笑わない。
けれど、その手は誰よりも優しく、肩を支えてくれた。
――倒れるのは、最後でいい。
その言葉の“形”を、
いま泥の中で倒れたポコランが体現していた。
ロザリーナの瞳が、ごくわずかに揺れる。
けれど、表情は変わらない。
(……兄さん。
あなたがくれた“折れない心”。
あの少年が――思い出させてくれた)
窓の外では、訓練場の灯りが一つ、また一つと消えていき、
砦はゆっくりと夜の静けさに沈んでいった。




