第10話 折れぬ意志――血と泥の十本試練
【ルドグラッド砦】
夕刻。
ロザリーナは酒場から戻ると、用意された客間で静かに休んでいた。
だが、砦の訓練場には、まだ掛け声が響いている。
「はっ……はっ……!」
泥にまみれたポコランが、必死に木剣を振っている。
相手はニコルだ。
ニコルは片手で木剣を受け止めながら、あくびを噛み殺した。
「いやぁ~、元気だねぇ。
木の棒を振るだけで、ここまで泥だらけになるのも才能だよ?」
ポコランの顔は、汗と泥と砂でぐしゃぐしゃだ。
「ま、まだ……まだいけます……!」
足元はふらついている。
それでも、目だけは折れていなかった。
他の兵たちは、もう皆訓練場を後にしていた。
端では、アズが腕を組んで見ている。
その隣には、ガルデンが無言で立っていた。
「……ニコルの“軽い訓練”って、やっぱり鬼畜だよね」
アズがぼそっと呟く。
ガルデンは小さく息を吐いた。
「半獣の軽口に惑わされるな。
奴は、遊びと本気の境目が分かりにくいだけだ」
「それ、一番やばいタイプでしょ?」
ポコランの足がもつれ、泥に顔から突っ込む。
「ぶはっ……!」
ニコルが、木剣で地面を軽く叩いた。
「はい一回休憩~……って言いたいところだけど、どうする?」
ポコランは、泥だらけのまま上体を起こした。
「……まだ、まだできます!」
ニコルの耳がぴくりと動く。
その顔に、ほんの少しだけ真剣味が差した。
「……へぇ」
木剣を肩に担ぎ、ニコルは口の端を上げる。
「じゃ、次はアレ行くよ」
ニコルの指さす方へ顔を向けると、大木の丸太が八本、
太い幹から伸びた横木に吊るされて、ぶら下がっていた。
丸太の側面には、一から八までの数字が白い塗料で書かれている。
「まあ、はじめてだから、三本で行くか」
ニコルが縄を操作すると、
八本のうち一から三までを除き、
他の五本を太い幹に固定した。
訓練用の角度で三本だけが残った。
続けてニコルが一つひとつに力を込めて押し込む。
丸太は左右に大きく振れ出し、中央で三本がすれ違う。
ニコルは更に勢いをつける。
「他の二本に当たらないように、俺の言った丸太を木剣で叩く」
ポコランが唖然として、すごい勢いで交錯する丸太を見つめている時――
ニコルが急ににやりと笑った。
「……そうだ。アズ、ちょっと来て」
「え? なに?」
ニコルは指を弾き、丸太を揺らしたままアズを呼ぶ。
「――十回。
ポコランに手本見せてあげて」
ポコランが泥まみれの顔でアズを見る。
「ア、アズさん……できるんですか……?」
アズは肩を軽くすくめた。
「まあ、ちょっとだけね」
その瞬間。
ニコルの耳がピン、と立つ。
「じゃ、いくよ――一番!」
アズは、ただ軽く息を吐いた。
次の瞬間――
バンッ!
「二番」
バシッ!
すれ違いざま、背後から来た丸太を振り返りもせず、頭をひょいと下げて躱す。
「三番」
ドンッ!
「二番・三番・一番!」
パッ、パッ、パァンッ!
数字が跳ねるたび、木剣が先にそこにいた。
アズは中心から“ほとんど動いていない”。
わずかに重心をずらすだけで、丸太の軌道を完全に読み切っていた。
木剣は迷いなく、狙った数字へ吸い込まれるように当たる。
息は切れず、足取りも乱れず、
泥も血も汗も、指先ひとつ跳ねない。
「二番」
バンッ。
「一番・二番!」
パパンッ!
「三番!」
最後の丸太を――
アズは《軽くトン》と触れただけで安定させた。
全て合わせて、わずか十秒。
ニコルはぱちぱちと拍手した。
「ね? こうやってやると簡単だよ?」
アズは木剣をポコランに返した。
「え、えぇぇぇぇぇ……!?」
ポコランは完全に固まる。
「後ろから来た丸太を振り向かずに……
どうしてわかるんですか……?」
アズはあっさり。
「全部、頭の中で動いてるから。
揺れの周期を覚えてれば、いつどこに戻って来るか分かるよ」
「えぇぇぇぇ……」
ポコランの顔から血の気が引いていく。
(……同じ“十本”でも、
自分の十本は、あんなふうには絶対にいかない……)
ニコルがすかさず木剣をくいっと向けた。
「じゃあポコラン。“十本当てる”まで続行。
外したり、逆に丸太からの“一撃”はノーカンね。
そんで外したら――もう十本追加~」
「えっ……!」
アズが思わず声を上げる。
「ニコル、ポコランは初めてだよ!?
ちょっと! 死んじゃうって!?」
ガルデンが短く制した。
「黙って見ていろ。
――あの少年は、自分で“命を賭ける”と言ったんだ」
彼の脳裏に一瞬だけ過去の若き教え子の死がよぎる。
十三年前、道場で天才と言われていた兄弟。――その弟の死を。
ポコランが木剣を構えなおす。
ぐらつく足。
震える腕。
呼吸は乱れ、視界も霞んでいる。
それでも――
「……お願いします!」
ニコルは、一拍だけ目を細めた。
「よろしい」
その声に、普段の軽さはなかった。
「――二番!」
ポコランの体が反射で動いた。
揺れの頂点に差しかかった「二」と記された丸太へ、木剣を叩きつける。
ドンッ!
鈍い音。
手のひらが痺れ、腕にまで響く。
「い、一本……!」
「三番!」
「うわっ――!」
慌てて身を翻し、別の丸太を追う。
しかし、視界の端で別の丸太が鼻先を掠る。
頭を引いた瞬間、死角から――
ゴッ!!
「がはっ!」
横から脇腹に丸太が直撃した。
ポコランの体がくの字に折れ、そのまま泥の中に転がる。
肺から、空気が一気に抜けた。
「ポコラン!」
アズが思わず半歩踏み出す。
ガルデンの大きな手が、その肩を押さえた。
「まだだ」
ポコランは泥の中で咳き込み、喉の奥に鉄の味を感じながら、
ゆっくりと膝をついた。
「っ……だいじょ……ぶ……です……!」
声は情けないほど掠れている。
だが、その目はまだ消えていなかった。
ニコルが揺れの弱まった丸太を押し戻し、
片肩を軽く竦めながら言う。
「カウントは、さっきの一本だけねぇ。
二回目は“当たった”んじゃなくて、“当てられた”だから」
「っ……はい……!」
ポコランは、震える手で木剣をもう一度握りしめた。
「――三番!」
今度は、先に足を動かす。
丸太の軌道を“見ている”というより、半ば感覚任せの突っ込みだった。
バンッ!
木剣の衝撃が腕を貫く。
けれどその直後――
ドゴッ!
背中を横から薙がれ、肺の奥へ空気が逆流した。
「ぐっ――!」
視界が揺れる。
胃がひっくり返るような痛みに、喉の奥が酸っぱく熱くなる。
ポタ……。
口の端から、赤い液がひと滴こぼれた。
「ちょ、ちょっと……! 血、吐いてるよ!?」
アズが思わず声を上げる。
ニコルは一瞬だけ目を細め、それから丸太へ力を込めた。
「うんうん。“戦場の練習”としては上々じゃない?」
ガルデンは目を細めて、何も言わない。
(ここで根を上げるようなら、確実に戦場で死ぬ。
やめるなら、今の方が良い)
ポコランが泥にまみれた顔を上げる。
「……あと、何本……ですか……」
息は荒れ、目の焦点は揺れているのに――その奥はまだ折れていなかった。
ニコルは軽く指を折る。
「今ので二本。あと八本」
永遠に到達しないような地獄の数字。
それでもポコランは、笑おうとする。
――だが、地獄の訓練はまだ始まったばかりだ。




