記憶喪失なんで
「アキラくんが?」
「え、えぇ……海岸に現れて、どうやら、記憶障害のような症状が出ており……コレまでの経緯も忘れてしまっているようです……」
報告を受けたフィーネ・アルムホルトは、逡巡、後に嫣然と微笑む。
「本当、面白い人。どう筋道を立てて予測したところで、遊技盤の外から入ってしてくるのね。
でも」
読書用の薄い眼鏡を外し、少女は暮れてゆく日を見つめる。
「良いのかしら、ゆいたちから離れちゃって……フィーの仕掛けた爆弾が爆発……心という時限装置の留め金が、外れちゃうのかもしれないのに……ふふ、女の子には疎いのね……」
また、盤外を読んでいるのか。
同じ一室で、同じ空気を吸って、同じ人間であるにも関わらず――月を思わせる貴女は、儚き光明を捧げ、世を俯瞰する。彼女の美しき慈愛の下にいるのは、ただひとり、アキラ・キリタニだけだ。
それが、幸であるのか不幸であるのか。
当事者には成り得ないし成りたくもない彼にとって、そんなことはどうでもいい。ただ、常人が浴びようとしたところで、その月光は眩しくて狂気的、壊滅的に内も外も壊し尽くすだろう。
「呼んで」
「……誰を?」
開け放たれた窓、入ってくる夜風が、橙に消える日を告げる。
風刺新聞に載せられた、モネの『印象・日の出《Impression, soleil levant》』のような靄がかったオレンジの太陽が視えた。窓辺で佇んだ彼女は微笑して、薄暮をたゆたう精霊みたいだ。
「呼んで」
この印象的な場面そのものが、理解できない彼を風刺にしているみたいで――正体不明の悪寒に襲われながら、一礼をして廊下へと逃げ込む。
「おい」
震える声で、彼は見張り番に告げた。
「呼べ」
「え、誰を?」
「バカが……今、呼ぶとしたらアイツしかいないだろ……!」
恐怖で教えてもらった彼は、冷や汗を垂らしながらささやく。
「アキラ・キリタニだ……今直ぐ、呼べ……早く……っ!」
駆け出した同僚の背を睨みつけ、小刻みに揺れる膝を押さえつける。
「無理だ……俺は、もう、無理だ……あれは少女なんかじゃない……もっと、おぞましい……なにかだ……あんなもの相手にできる人間がいたら……ソイツは……」
純黒に塗り固められた目玉。
嫌悪と風刺と殺意が綯い交ぜになった、人を不要物としか思っていない盤外の悪魔。あの華奢で小さな体躯のどこに、アレだけの“畏怖”を詰め込めるのか。
「化け物だ……」
廊下に背を預けた男は、崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「どうやら、泳いで脱出しようとした際、頭を強く打ったらしい……」
「医者は……?」
「外傷からして、頭を打ったのは間違いないらしいが……さすがのこの島でも、MRIはできないからな……」
包帯で頭をぐるぐる巻きにした俺は、見知らぬ人たちに両脇を挟まれ、別荘の中へと誘導される。
「記憶喪失か……漫画の中だけの話かと思ったぜ……」
「いや、程度にもよるが、記憶障害自体は珍しいことでもないらしい……交通事故に遭った被害者が、事故当時のことを覚えていなかったりするのはよくあることだ……」
へー、そうなんだ。
でも、俺!! 記憶喪失でもなんでもねーけどなぁ!!
まんまと騙されているアホ共には悪いが、頭に外傷を作る方法なんて幾らでもある。仮想の事故を想定して、角度なりを調節し頭皮に傷でも作ってやれば、見た目上の外傷自体は簡単に作れる。
ただ、相手は腐っても医者だ。まともに診察を受ければ、偽装された傷であるかどうかなんて直ぐにバレる。だからこそ、付き添いの傭兵たちから解放されて診察室にはいる直前、倉庫から盗んでおいた包帯を自分で巻いておいた。
後は簡単。診察中に包帯をめくって傷をチラ見せし「手当はもう受けた。調子が悪いので、診察は後日にしてくれ」と言えばいい。そうすれば、診察と治療を受けたという事実だけが残り、好奇心旺盛な執事と傭兵たちに『アキラ・キリタニは、記憶喪失と診断された』という嘘の情報を“無線機”ごしに流す。
俺本人が口に出した怪しげな情報でも、仲間内で使用している無線通信で流されれば、まるで情報の裏付けができていると誤認してしまう。外傷自体は本物だから、疑いがかかっても、素人相手には傷を見せてやればいいだけだ。
はい、以上、アキラくん(記憶喪失バージョン)の作り方でした。次回の3分間アキラクッキングは、3秒間アキラクッキングと題名を変えて、ヤンデレの作り方を解説しますよ。メモの準備を忘れずに。
「あ、あなたたちは、誰なんですか……う、うぅ、怖い……なんなんですか、ここぉ……」
俺の素晴らしい演技に対して、執事たちはものの見事に狼狽える。
「だ、大丈夫だ、安心してくれ。俺たちは、君に危害を加えたりなんてしないよ。そんなことをしたら、雇い主に殺されてしまう」
「そ、そうだ。キズひとつでもつけようものならば、コンクリート漬けにされて、サメたちのおやつにされる」
転職、しよ?
この先に、君と会いたがっている人がいる。そう言い残した彼らは、ひきつり笑顔を残して、どこかへと消えてしまった。
俺は、扉を開き――揺れるカーテンを見つけた。
本棚を背景に、薄闇に包まれた書斎が一室。開け放たれた窓からは、涼し気な風が入ってきていて、机上に並べられていた書類が、真っ白な蝶々と化して優雅に宙空を羽ばたいていた。
「アキラくん」
呼ばれて。
窓辺に腰掛けている、儚げな少女を見つける。
フィーネ・アルムホルト。
銀色の月世界に座っている彼女は、はためく幻想の合間を縫って、数秒ごとに夜の女王の瞳を覗かせる。あたかも、白紗の裏側にある常世から、現世を俯瞰するこの世ならざる者のようで――数瞬、呼吸を忘れていた。
「記憶喪失、なんだって?」
問いかけられ、我を取り戻す。
「あ、あの……な、なんなんですか……お、俺、ココがどこだかもわかってなくて……家に帰らせてください……」
どうだ、このか弱くて、憐憫を誘う完璧な演技は?
演技だけじゃない。今回のこの記憶喪失作戦、見事なまでの仕上がりとしか言えないだろう。ココまで抜け目のない天才的な作戦を前にすれば、如何にフィーネ、お前であろうとも絶対に疑いをかけることはできない。
俺という名の天才に、お前は負け――
「本当かな? 傷、見せて?」
嘘だろ……俺をしのぐ天才かコイツ……
「……無理です」
「なんで?」
「……記憶喪失なんで」
「関係ないよね?」
「……でも、記憶喪失なんで……勘弁してもらってもいいですか……記憶喪失なんで……」
窓辺から下りたフィーネが、手を伸ばしたまま、こちらに近寄ってくる。
一歩、また一歩。
下がることもできず、ただ立ち尽くし、その指先が包帯に触れ――俺は、着ていたシャツを引き破り、ボタンを弾き飛ばした。
服飾散弾が、全弾、フィーネの顔面に的中する。
訪れた、静寂。
その気を逃さず、半裸姿の俺は堂々たる姿で扉を開け放つ。
「失礼します」
爽やかな笑顔で、額の前に立てた二本指を素早く下ろした。
「記憶喪失なんで」
この頭脳戦、ギリギリの勝負だった……フィーネ、お前は、手強い相手だったよ……だが、お前には服飾が足りなかった……
勝利の余韻に浸った俺は、数分後、部屋で夜寝していたところを引きずり出され、医者付きのフィーネにじっくりと外傷を確認された。
これで、一勝一敗。心理的には勝ち越しているので、たぶん、最終的には俺が勝つと思う。頑張っていこうぜ。




