第2楽章 41節目
「あらおはよう。千夏あなた随分と早いけどどうかしたの?」
電話のあと、千夏がバタバタと用意していると、涼夏が起き出してきて疑問の声をあげた。
ただ、時計を見たあとで、すぐに気づいたように呟くように続ける。
「……ああなるほど。今日は6月1日だったわね、学校前にも会いに行くの?」
こういう時に、何というか色んなことが共有されている母娘であってよかったなと思った。
そう、良かった、と自然と思える。
この家に、母と自分で二人。以前よりもずっと良い親子関係を築けていると思う。これが正解だったのかはわからないけれど、納得のいく今だ。
「お母さん。おはよう。うん、後さ、相談あるんだけど良い?」
だから、涼夏に千夏は朝の挨拶を返して、少しだけ、申し訳無さそうに、でも、意思を込めて相談を持ちかけた。
「良いわよ、理由と一緒にちゃんと話してくれるならね」
相談の内容にもう勘づいているのだろう涼夏がそう言ってくれるのに、千夏は感謝しながら告げる。
「朝電話したらハジメがさ……ものすごく静かに涙流してたんだよね。大丈夫って言うし、ちょっと夢見ただけって話なんだけど……行きたいから。だからこれから取り敢えず行こうと思うんだけどさ」
「…………そう」
「元々、ハジメの家に皆行きたいって言って行ったことが無い子もいるから、誕生日会を学校の後のつもりではあったんだけど……その、明日も学校なのはわかってるんだけどさ。今日の夜は一緒に居てあげたい」
千夏は、元々泊まること自体に対して、涼夏から何かを言われたことはない。
でも平日の、次の日が学校であったりする日にはきちんと家にも帰るし、危なくない時間に出るというのは約束事としていた。
そして今日は木曜日。今日も明日も学校は普通にある。
「わかった、いいわよ。今日は私も仕事で遅くなるから、安心のためにも泊まったらいいんじゃない?」
「……! ありがとう! お母さん!」
なのに、涼夏がそう笑って言ってくれるのに、千夏はほっとして、そして同時に感謝を覚えた。
今週は隙間で、仕事が緩やかだと言っていたのを千夏は知っている。
だから、その気遣いにただありがとうだけを言って、大急ぎで簡単に泊まるためのセットを考え始めた。
(ほっとして、物凄く嬉しい顔しちゃって……もしかしたら、親としては彼氏との泊まりにもう少し不寛容であるべきなのかもしれないけれどね)
そんなことを考えながらも、涼夏は娘のことをとても幸せそうな眼差しで見ていた。
駄目と言っても行くという意思を持ちながらも、きちんと連絡や相談はしようとしてくれる。そんな関係性を築けたのが二人になってからというのは少し皮肉なものではあるのだけれど。
半分大人で、半分子供。
でも一人の人として付き合うというのはとても難しいことだけれど。今では千夏がどう考えていて、どうしたいか。涼夏がどう考えてどう心配しているか。それらがきちんと伝わっている気がする。
それに、涼夏は涼夏として、大人びざるを得なかったハジメの事を心配していた。
もしも彼が、千夏の前でなら自然体で居られるというのならば、今日のような日くらいはそうあるべきだろうと思う。
自分が通り過ぎてきた、30代・40代の誕生日とは違う。
16歳から17歳になる日というのは、何というか本当に子供から大人になっていく節目のようなものだから。
◇◆
「おはよう、千夏」
「おはよう、ハジメ!」
学校の鞄を投げるように玄関に置きながら、出迎えてくれたハジメに千夏は飛び込んで、そして顔を両手でしっかりと見えるように挟んだ。
「わわ、ちょっと千夏?」
「いいから顔見せる」
じっとハジメの顔を千夏は観察する。
変に無理をしていないか、笑顔を作ろうとしていないか。
そうしているうちに、つい手が動いてむにむにとハジメに変顔をさせはじめてしまったが。
「ひょっと、ひはふ?(ちょっと、千夏?)」
「うん、大丈夫そうね」
「いや、最後の方絶対確認とかじゃなかったでしょ」
確かにその通り、カッコいい訳じゃないのだけど、好きなのだ。
そんな顔をじっと見ていたら、それはそれで何だか照れるんだから、仕方ないじゃない。
「うるさい、朝から最愛の彼女のアップを見れたんだからいいじゃない」
「……うーん、まぁ確かに今日の始まりで最初の光景が千夏の顔ってのは良い日かな」
千夏がそんな内心の照れ隠しにすこし乱暴な言葉でいうと、頬をさすったハジメはキッチンに戻りつつ、考えるようにボソリと言った。
そして、あまりにも自然にそんなことを言うから、千夏は少しだけ頬が赤くなる。
変にかしこまって言われるよりも、余程何気なく言われた方がドキドキするじゃないか。
そう思って、とても弱めに、そっとその背中に向けて拳を作る。
「うわぁ」
そしてキッチンに入って、千夏の食欲を刺激する朝食の匂い。
焼いたばかりのベーコンに、オムレツ。
バターの塗られたトーストに、コーヒー。用意されたミルク。
「って、誕生日なのに。心配してきたはずなのに、うち、ハジメに会えて、朝ごはんまで作ってもらって、してもらってばかりじゃん」
千夏はそんなことを呟く。
でも、ハジメはそのことを聞いて、振り向いて言った。
「全く、何言ってるのさ。千夏はもう僕に沢山くれてるよ、返せないくらい……今日もさ、起きてからずっと、一日がすごく楽しみなんだから。誰のお陰だと思ってるの?」
「本当?」
「勿論」
「迷惑とかじゃない?」
「今更何言ってるのさ」
「……大好き」
「……っとに朝から心臓に悪いと言うかさ。その探った後に急激に刺してくるのはドキドキさせられっぱなしだからね」
そして、くるりと千夏に背を向けて食卓につこうとして、凄く小声で、「僕もだよ」と呟くハジメを見て、千夏は満足げに笑う。
誰にも見られることはないが、それは本当に、満ち足りたような笑みだった。




