第2楽章 35節目
和樹が席を立った後で、ハジメがバイト先から連絡が来たという事で席を立った。
目の前で交わされる、行ってくるね、と、行ってらっしゃいがあまりにも自然で、早紀はネタにする気にもなれないでいる。
「ん? どうかした、早紀?」
「ううん……何でもない――――」
そんな少し呆れた様子の早紀に気づいたのか、千夏が少し小声で声をかけてきた。早紀はゆっくりと首を振りながらそう答えようとして。
「いや、何でもないことはないか。ちょっとだけ羨ましいとかはあるかもね」
少しだけ思い直して、そう付け加えた。
「…………」
「無言になって、そっちこそどうしたのよ?」
それに、千夏が少しぽかんとしたような顔で見てくるものだから、そうさせた自分の言葉を自覚しながらも早紀は聞いた。
「いや、改めて人ってさ変わるんだなって。ううん、ただ知らなかっただけなのかな」
「そうね。でも変わったっていうのも当たりだと思う。自分でも知らなかったからね……でも、私は今の私のほうが好きよ。勿論、イッチーを好きで、熱を上げていたって思う時の高揚も好きだったし、想いも、経験も、全部大事だと思ってるけどね」
「語るじゃん。でもそうだね、うちも今の早紀の方が柔らかくて大好きよ」
そう言って千夏が微笑む。女の早紀から見ても、最上級とも思える微笑みだった。
恐らく去年までのお互いの関係では交わせなかった笑みだったのだろうなと思う。
皆変わっていくし、これからも変わるのだろう。
まぁ少なくとも、私に関しては今のところきっかけはあんた達二人だけどね、と思った早紀だったが、それは口にしないでいた。
「ねね、ところでさ。流石にゆっこの前では聞けないし、ちょっと早紀にもどうしようかなって思ってたんだけど……もう吹っ切ったのかな」
すると、席を立って先程まで和樹が座っていた位置に移動した千夏は、小声でそんな事を聞いてくる。その目に宿るのは、心配と好奇心。一番聞きたいのは恐らくこの間もからかわれた和樹との関係についてだろうけれど、いい機会だと、気にかけてくれているのを言葉にしてくれたのかなと思った。
早紀は、勉強はいいわけ? と普段から成績も良好なこの友人に苦笑しつつ、その言葉について吟味する。
「まぁ、正直完全に平気かって言うと自分でも何とも言えないかも。勿論、優子には平気って言うし、実際普通に話す事も出来るし、二人を見てても恨みみたいな心境にはならないんだけどさ」
桜の季節。イッチーに振られた時に思ったことは『やっぱり』だった。
そしてその後、その心を噛みしめる前に優子のことがあって走って、勢いのままに背中を押して。
教室での出来事の後に、成り行きで一緒にいた和樹に不器用な気の遣い方をされて。
もしもはないけれど、あの時一人で教室に残ったら、自分はこうあれていただろうかとは思ったりする。
当たり前のことながら、その時気が楽になったからと言って、万事綺麗さっぱり切り替えられるわけもなく。少しずつ少しずつ、じわじわと心の中で、もう好きでいちゃいけないんだなって噛み締めた時期はあった。
スイッチを切り替えるように、すっきり出来ているわけではない。
でも思ったよりも引きずっていない。
勿論ちょっとだけ。二人を見ていて胸の中で少しだけ。服にささくれが引っかかったような、見ないふりも我慢もできる程度の痛みはあるけれど。
それでも多分、それくらいですんでいるのはあいつのお陰であることは間違いなくて。
「うん」
早紀がそんな事を考えながらの言葉に、千夏が真面目な顔でそう短く頷いてくれて。早紀は微笑むようにして、言葉を発していく。
「心配はいらないよ。ってこの場であんたに言えるくらいには、大丈夫…………それにまぁ、そっちのニヤニヤを助長させるのも少し嫌だけれど、気晴らしの相手もいたしね」
「詳しく」
「ちょ……千夏。あんたね、ここ図書室だからそんな勢いで来ないでよ」
「あはは、ごめんごめん。たださぁ、うち、こうして早紀と、何の気も遣わない恋バナができるの、めっちゃ嬉しいなって思ってつい」
「はぁ、恋バナじゃないって……」
今一番仲のいい男子生徒と問われると、それは和樹だろうと思う。
真司の一件で名前で呼び合うようにもなった事もあるが、まぁ意外と気が合う。
ただ、これが恋愛かというと疑問だ。
男女の友情は存在しない、なんてセリフもよく見かけはするが。早紀の人生経験ではそれが事実なのかどうかも分からない。
ただ一つ言えるのは。
「仲がいい男子ってのは認めるけどさ、イッチーに対して思ってた感情とはぜんぜん違うしね。そもそも顔が好みなわけでもないし……それにあいつだって、私に同じこと思ってると思うよ? だって好きな芸能人とか含めて、美人系より完全に可愛いの方が好き系だしね」
お互いに好みというのからは外れているから対象になっていないのではないかと早紀は思っていた。
――――まぁ、全く無しではないけれど。
「でも確かに、何かが振り切れた結果なのか、和樹はそういう印象が全くなくなったよねぇ。視線はまぁ時々あるけどすぐ逸らすし」
「ま、男子なんてあんなもんでしょ。あんたの彼氏がちょっと枯れてておかしいだけで」
「ええ? ハジメはおかしくないからね! 二人の時はちゃんと――――」
「いや、いい。お腹いっぱいだから。後図書室だからここ」
すぐ声のトーンが大きくなろうとする千夏を窘めつつ、早紀の思考はそちらにも辿る。
イッチーに感じていた感情とは全く違う。だから恋ではないなと思う。
格好いいと思ったことも正直無く、あの時、声をかけたのは偶々で、その後の縁も偶々だ。放っておけないという母性本能も特に無い。
クラスも一緒になって、あいつの変化もあり成り行きでよくつるむようになった。
意外と波長が合う。進めてくる音楽や本も、なんというか良かった。
心地が良いとも思う。
後、基本、レスポンスが早い。だから、ちょっとしたことで気軽に投げて、スルーされることが無い安心感がある。
(うーん、からかわれると気になるというか。でも考えてみても分からないんだよね)
「あれ、千夏に早紀はここにいたんだ、久しぶり……あー、じゃあ伝えといたほうがいいかな?」
そんな時、背後から何人かの声が聞こえて、自分たちの名前が出たのに振り向くと、去年のクラスメイトの女子が図書室に入ってくるところだった。
「クラス代わるとあまり絡まなくなっちゃうからね。ところで伝えることって?」
千夏がそう聞くと、彼女らがそれぞれに顔を見合わせながら口を開く。
「今日は一緒にいないんだなって思ったけど、一緒に勉強中だったとこ?」
「何かさ、ハジメくんと石澤が、自販機の前で先輩に絡まれてたっぽいよ?」
「あれ……多分サッカー部の三年だと思う。まぁ、学校の中で揉めるとは思えないけど一応二人にもね」
「……え?」
そうして発せられたそれぞれのいくつかの言葉に、早紀と千夏は顔を見合わせてしまうのだった。




