第2楽章 32節目
ガラガラ、と音を立てて和樹は教室のドアを開けた。
今日は夜勤明けの父親に対して、早番だと言って仕事に出ていく母親ということで、父親の朝の用意だけしてから出てきたのでいつもより学校につくのが遅い。
ちょっとした巡り合わせから、真司の彼女の佳奈さんの家に行ってから、数日が経っていた。
明日からは、五月病の原因とも言われるゴールデンウィークで、今年は長期連休だ。そして、真司と佳奈が祖父と話す機会があるらしいのも、休みの間らしかった。
他人事と言うには、少し知ってしまったが故に気になる。
そしてもう一つ、あの夜から、少なくとも和樹の中では大きく変わった事があった。
「おはよう、えっと、ハジメ。後……千夏に、早紀」
「あはは、めちゃくちゃたどたどしいんだけど。まぁ僕も気持ちはわかるけどね」
和樹の挨拶に、そう言ってハジメが笑い、千夏と早紀が呆れたような顔を見せる。
「そだね、うちもハジメ以外を普通に呼び方変えるのは変な感じがするけどさ。でもまぁ、うちが言い始めたことだし、早く慣れてよ」
「そうそう、下の名前でくらい呼ぶでしょ、ねぇ和樹」
千夏がそう言い、早紀が少しからかうような口調で和樹の名前をわざと呼んでくる。
そう、このまだ慣れない名前呼びになったのがあの日の夜のことだった。
決して大事件ではない、でも正直照れる。和樹はあっさりと適応するイッチーや真司、そして照れるとか言いながらさらっと適応するハジメとは違うのだ。
◇◆
「……あのさ、ところでなんだけど、皆うちの名前、下の名前でいいよ? いいよねハジメ?」
真司の意思表示の後でそういう話になったのは、和樹やイッチーが、千夏に対して「佐倉」と呼ぶ時に少し間が空く事と、その度に優子が居心地悪そうに反応するからだった。
佐倉と櫻井。
何のことはない、語呂で最後まで言い切ってなお身体が勝手に聞き耳を立ててしまうとは優子の言で、南野から佐倉に変わったことだけ考えていた和樹にとってはそう言われてみればといったところだった。
「勿論だけど、僕の許可いるの?」
「……いらないの?」
「あった方が嬉しいかも」
「はいストップ! そういうのは帰ってからやってください」
そして、一瞬で甘そうな気配を漂わせたハジメと千夏に、優子が歯止めをかけるが。
「優子は俺の許可?」
「いらない。私は私、いっくんはいっくん、オーケー?」
「はい」
「いや、イッチー弱えな! というか俺からしたらどっちも家でやれなんだが」
イッチーがそんなことを言うから、和樹は心から突っ込む。
それに、ちょっと苦笑しながらハジメもおずおずと言った。
「……そういう意味なら、僕もハジメで良いかな、イッチーはイッチーとして、佐藤ってそもそも多いし」
確かに、そもそも紛らわしいどころの騒ぎではないのが二人いた。
「いっそもう全員下の名前でいいんじゃない? こういうのってさ、最初以外は呼び名が自然と変わったりはしないし、まぁ呼ばれて嫌なやつもいないでしょ」
そして、早紀のその一言で、決まった。
和樹が、俺も良いのかな、と小さくつぶやくと、背中をばんと叩かれて当たり前でしょうが、と言われたのも、和樹の中では大きな出来事だった。
◇◆
そんなやり取りを思い出しつつ、和樹は息を吐いた。
全くもって嫌なわけではないのだ、むしろ光栄まである。
だが、ハジメのような男子相手ならともかく、女子相手に名前呼びするのは、どこか特別感があって、気後れしてしまう気持ちが出てくるのは仕方なかった。
「まぁ頑張って慣れるわ……下の名前で呼び合うのなんて、ちょっと憧れ感もあったしなぁ」
「……憧れ感は僕も分かる気がするなぁ」
男子二人の感想に、千夏と早紀が吹き出すように笑う。
「文系の二人は全くそんなのなさそうだけどねぇ。でも、確かに考えてみたら、ハジメもうちのこと名前で読んでくれるようになるまでに結構かかったもんね」
そして、千夏がしみじみとそんな事を言うのに、和樹は意外な面持ちで告げた。
「お前らもそういう期間あったんだよなぁ。今はもう見る影もないというか、夫婦感出てるっていうか…………明日からの休みもどっか行くんだろ?」
「うん、ちょっと行ってみたいと思ってたところがあってさ」
「旅行っていうか、一緒に遠くに行ったことはあるんだけどあれは特殊だったから、こうして予定して行くのって初めてでアガるよね」
和樹の質問にそう言って笑う二人を見て、もう嫉妬も湧くこともなく受け入れている自分の心境を感じながら、和樹もまた苦笑いを浮かべる。
早紀を見ると、こちらはこちらで呆れを浮かべつつも、少し羨ましそうな顔をしていた。
「旅行に当たり前の様に行くのも何も言わないけどさ、とりあえず土産は楽しみにしてるわ……早紀は部活だろ? まぁうちも一緒だけど」
「まぁね、オフ日もありそうだけど基本的には部活三昧だね。春の大会も悪くなかったし、顧問の先生もはりきっちゃってさ」
「あぁ、結構熱血だもんな。うちは顧問は全くやる気ないけど、キャプテンがなぁ」
「でもあんただって頑張ってるじゃん、背番号は貰ったんでしょ?」
「ああ、とは言っても一年以外はほとんど皆貰ってるわけだが。中学三年間やってはいたし」
そんな風に部活談義をしていると、今度はハジメと千夏からの視線を感じる。
「なんだよ?」「何?」
それに、和樹と早紀が同時に気づいて声を上げると、千夏がどこか複雑そうな表情で言った。
「いや、勿論駄目なわけじゃないんだけど。うちらの事をしみじみと言うけどさ、あんたらがそうして仲良く話してるのも、意外だなってね」
それにハジメもうんうんと頷く。
まぁ否定もできない和樹としては苦笑するしかない。
「ま、そうだなぁ。ここの面子にしたって、イッチーや真司たちにしたって、今でも何ていうか、時々ただいい夢見てんじゃないかって思うときもあるよ…………ってそんな顔すんなよ恥ずかしいだろ」
「あはは、まぁ今の方が僕はいいよ。これで、真司達のこともいい感じに収まってくれたら嬉しいんだけどね」
ハジメの言葉に、和樹も頷いた。
いざ関わってみる前は、恵まれていて、傲慢で、悩みなんて一つもないように思っていた真司だが。
こうして少し知っていくと、見たままイメージ通りのこともあれば、自分と同じ年なのだと感じることも多々あった。
元々何ができたわけでもなく、上手く行けばいいなと思う程度のことしか出来ないが、きちんと意思というのを示して、受け入れられると良いと思う。
行動と、気持ち次第で、世界は意外と変わっていくものなのだから。




