第2楽章 26節目
少しの無言の時間の中で、佳奈は二人分のお茶を淹れていた。
「…………ふふ」
あの後部屋に入って、いつも座っていた場所に落ち着いて。そして無言のままでいる真司に対して、佳奈はそう笑みをこぼす。
会うなり抱きしめられて、あんな風に言われたときはただ驚いて、そして嬉しかったけれど、こうして無言の時間をゆっくりと過ごすのも、佳奈は好きだった。
でも、今日はこの無言に浸ってばかりも居られないのだろう。
ことり、と真司の前のテーブルにカップを置いて、そして向かい合うようにして佳奈が座ると、真司がどこか、何かを踏ん切るようにして口を開いた。
「……先に結論だけ言っちまったが、これから少しだけ、長い話をする。つまらないだろうが、聞いてくれるか?」
それに佳奈が頷くと、真司は話し始めた。
これまで、聞いてこなかった家の事。
兄である慎一郎との関係性と、そこに関連した玲奈との婚約関係。
真司の父から聞いていた事をも補完するようにして、真司はまずは事実を話した。そこには、嘘や本当といったような揺らぎは無くて、佳奈もまた、相槌を打ちながら黙って話を聞いていた。
そして、そっとカップに口をつけて、今までとは違った雰囲気で、改めて真司が佳奈の目を見て話を続ける。
「…………俺は、ある意味で諦めていた」
「諦め?」
「あぁ、俺はな、合理的なことが好きだ。物事に理由があって、過程があって、結論に帰結するようなことが美しいと思う…………そして、幼少から受けた教育のおかげなのか、昔から延々と続いている掛け合わせの結果なのかは分からねぇが。俺には才能ってもんがあって、どんなものでも、見れば大体の原因も理由も分かったし、どうすれば美しい数字になるかも分かる」
「うん」
真司がこうして長く話をするのを聞くのは、佳奈の記憶にはあまりなかった。
少しずつ、少しずつ、真司は柔らかい部分を晒そうとしてくれているように感じて、佳奈はそっと寄り添いたくなる気持ちを押さえて、ただ静かに頷いた。
「だから、俺が家を継いだほうが良いっていうのも、法乗院の家との結びつきを強めるっていうのも、家を成長させるという意味でも、そしてリスクを低くするという意味でも、『正しい』ことだとそう思っていた。いや、今でもそう思っている」
「うん」
「そして、生まれつき、人には分というものがあって、与えられるものに対して、生じる責任っていうのもその通りだとは思っていた。ある程度、人の能力も容姿も遺伝に左右されるし、その時代によって定義は変われども、そういう優秀さを求められる家に、それなりの能力を持って生まれたものには、恵まれた環境に対応する責任があるっていうのはわかりやすい話だとな」
「ふーん、帝王学ってやつ?」
「まぁそうだな。そういうわけで、兄貴が芸術の道に進んで、俺が家を継いで、そして、玲奈と婚約してということが、義務であり、そして、そうでない道を選ぶのであれば、違う理、つまりは別の正解だな、を示さなければ行けないと思っていた」
「…………多分分かった、でも、思っていたってことは、今は違うの? あたしの、せい?」
そう、佳奈が聞くと、真司は少し首を傾げるようにして答えた。
「そうだな、お前のせいと言えばせいで、おかげと言えばおかげだな。まぁ、それだけでもないが」
「あのさ、この際だからちゃんと聞いとくけど、負担だったりする?」
佳奈が、自分の中で気になっていたことを聞く。
じゃあ、やっぱり身を引くとか、そんな単純な話でも、気持ちでも無いのは、もう分かっているのだけれど、だからと言って、自分より年下の男の子に、負担と思われるのは少し心にくる。
すると、ふっと真司が笑った。
真司の、見えないところ、恐らく佳奈以外では気づかないだろうところで、何かが震えたのを感じた。
「負担って言葉じゃあ、ねぇよ。こうして悩むとか、ペースを乱されるっていうのはあるが、それは負担なんて言葉で表すべきものじゃねぇのは俺にだってわかる。ただ、分かったってだけだ」
「わかった?」
「そうだ、さっきも言ったように、俺の中の理性とでも言うべき、判断する心は、正しくないと判断している。より良い正解なんてもんが何なのかも、結局答えを出せてねぇ。親父や、爺さん達に突きつけるような理も、まだだ…………でもな」
そして、真司はそこで一呼吸置くようにして、佳奈を見て、驚くほどに柔らかな笑みを作る。
佳奈がその笑みに、はっと心を奪われていると。
「俺の心ん中にあんのは、正しい答えなんざクソ喰らえ、だった。家も、兄貴も、昔なじみも、先のこともどうでもいい…………はは、馬鹿みてえだろう? 俺はどうやら、他のいろんなことより何より、正しかろうが間違っていようが、お前とこうしている時間の方が大事だと思っちまってるらしい。そんでな、それをこうして失いかけるまで、ちゃんと向き合うことも、気づくことも、言葉にすることも出来なかった情けねぇやつだよ。でも俺は、ちゃんと、家には認めさせる道筋を見つけ出してみせる。だから、改めて一緒に居てくれるか?」
その言葉には、一片の嘘もなかった。
それでいて、真司の父親に言われた言葉のような、何かに正しさを預けるような想いではなく、きちんと、真司の、一人の人間の中で落ち着いた想いだと伝わる。
「…………」
「おいおい……ったく、泣くなよ」
そう言われて、佳奈は、自分の目から涙が伝っている事に気づいた。
柔らかな笑みが、少し困ったような表情に変わっている。
せっかくメイクで涙の跡を消したんだけどな、そんな風に冷静な心も持っているのに、佳奈の顔はくしゃくしゃになっていることだろう。
「真司のバカ……急に来るし、急に抱きしめるし、嬉しいことをいっぱい言ってくれるし、落ち着いたのにまた泣かせるし……年下のくせに生意気」
「……ふ、何度も言うが、お前に歳上さを感じることはあまり無いんだがな」
真司の驚くほど整った顔が、少し照れたように近づいてくる。
いつも、佳奈から近づいてばかりだったからか、自分が動かないのに真司から求められるような目をされるのは、心が跳ねるのを感じて――――。
柔らかな感触が唇に触れた。




