第2楽章 16節目
佳奈は傘をさしながら、家への帰路を歩く。
その日は、真司が家で用事があるということでバイトを入れていたのだが、生憎の雨でお客も少なく早上がりとなっていた。
(せっかく空いた時間だし雨だから出かける気にもならないし、料理でもしようかなぁ)
雨で薄暗くはあるものの、日が長くなってきたので、まだ明るい。
佳奈は透明な傘を通して曇り空を見上げて、そんな事を思った。
実は真司は、良いところの御曹司な癖に、意外と庶民的な料理が好きだったりする。
そして、実は野菜の皮を剥くのも、餃子を包むのも教えたら佳奈よりあっという間に上手くなった事によって佳奈の女子力マウントがピンチだった。
でも同時に、狭いとか面倒だと文句を言いながら、佳奈の隣で野菜を剥いてくれる真司が愛おしくもある。次がいつ来るかはわからないけれど、少し凝ったご飯をご馳走するのもいいだろうと思った。
「うん、せっかくだからお買い物して、仕込みが必要なご飯でも作ろうかな」
そんな思いから献立を考えつつ佳奈はそう呟くと、スーパーのある方向に向かうことにする。
(…………?)
ふと視線を感じた気がした。
悪意を感じたわけではないが、まるで観察されるような。
佳奈はそっと辺りを見渡す。
ただ雨がしとしとと降っている中で、特にこちらを見ている人影は居なかった。
◇◆
「ふう、結構あれこれ買っちゃった。もう、こんな時こそ真司の出番なのに…………ってあれ? 鹿島さん?」
真司の運転手で、時折乗せてもらう事があるが、真司を上流階級の人間だとしたら庶民の中の庶民のような佳奈にも丁寧に接してくれる老紳士。その渋さも勿論だが、何より真司に対しての敬意というか親愛が本物で、佳奈は密かに鹿島さんのファンだった。
そんな彼が、佳奈の家の前で車を止め、傘をさして立っているのを見て、佳奈は首を傾げる。
真司は確か、今日は家で祖父と話があるということで来れないと言っていたはずだったが。
そう思って傘と買物袋を持ちながらよいしょ、と鞄からスマホを片手で取り出してみるが、通知は来ていなかった。
少しだけ、佳奈の心に不安の色が混ざる。
「あの…………どうかしたんですか? もしかして真司になにかありました?」
家に近づいて、流石に偶々佳奈と同じマンションに住む別人に用事ということは無いだろうとこちらから声をかける。
すると、彼はいつものように丁寧な口調で答えた。
「ああ、驚かせてしまって申し訳ございません。いえ、真司様には何もありませんよ。ただ、少々佳奈様にお会いしたいという方がいらっしゃいまして……」
「え? 私にですか? はい、わかりました」
佳奈は驚きながらもそう頷いた。鹿島さんは真司の信頼できる運転手であり、佳奈にとっても彼の言葉に疑いを持つ理由はなかった。そして、気になることをそのまま尋ねる。
「えっと、お会いしたいという方はどなたですか?」
鹿島さんはそれに少し躊躇した後、言葉を発した。
「実は、真司様の父上からのお話なのです。佳奈様に大切なことを伝えたいとのことで、私に連絡を取るように申し付けられました。宜しければご一緒に来ていただけないでしょうか? …………お時間が許されなければ、断っていただいて構いません」
その言葉に嘘は無かった。
ただ、どこか遠慮というか、躊躇いというか、上手く言えない違和感を感じて、佳奈は尋ねた。
「あの、もしかして私が行けなかったら、鹿島さんは困ったりします?」
「…………いえ、お会い出来なかったとお伝えするだけですよ? 何も心配はいりません」
「行きます」
そこには優しい嘘があった。少なくとも、佳奈が行かなければ鹿島さんが叱責されるのではないかと感じて、佳奈はそう言う。
勿論、こうして呼び出されることに戸惑いがないわけでも不安がないわけでもない。でも、真司の父親から直接話を聞くことに興味を持った。
真司と付き合い始めたのはもう半年以上前だが、何故今自分に会いたいと思ったのか、そして真司との関係にどのような影響を与えるのか。
真司の口からは基本的に家族の話は出て来ない。
それでもそれなりの付き合いで、油断した頃に時折、兄と祖父は出てくるが、父については一度も聞いたことが無かった。
「わかりました。真司のお父様とお話ししてみます。どうすればよいですか?」
「……ありがとうございます。では、こちらにお乗り下さい。本邸の方にご案内させて頂きます」
「本邸? それは、真司の家ですか?」
「ええ、そうなります」
「わかりました。…………その、少しだけ待っていただいてもいいですか? アルバイト帰りで流石に少し着替えたいのと、買い物したものも置いておきたいので」
幾度かのやり取りの後で、佳奈は手に持った袋を見せながらそう言う。
今から美容院に行ってセットするわけにはいかないまでも、本邸で真司の父親に会うということであれば、せめてもう少しきちんとした格好がしたかった。
「かしこまりました。ただ、突然の訪問にも関わらず申し訳ないのですが――――」
「大丈夫です、五分、遅くても十分で戻ります」
本当に申し訳なさそうにする鹿島さんにそう言って、佳奈は急いで家に入り、傘と買い物袋を置いて、少し身なりを整えるために鏡の前に立った。
心の中で真司の父親との対面に不安を感じながらも、少しでもきちんとした印象を与えたいと思う。
この際メイクと髪型は仕方ない。その上で少しだけフォーマルに見えるような上着を選んだ佳奈は自分を鼓舞するために深呼吸をした。
「大丈夫、きっと何か良いことがあるはず」
そう声に出して呟いて、心に決意を固めた佳奈は、鏡に微笑みかけてから再び外に出る。
そして鹿島さんが待っている車に乗り込むと、車は静かに真司の家である本邸へと向かうのだった。
少しずつ日が落ちる中で、ただ静かに雨が降り続いていた。




