閑話6
「おはよう、千夏ちゃん。今日はそっちの道から来たってことは彼氏の家からじゃないのかな?」
「おはようございます! えへへ、ご名答です。駅から来ました。今日はちょっと用事があってうちに彼氏来てくれてたので」
バイト先に出勤してかけられた声に、千夏はそう笑って答えた。
声をかけてくれた彼女は、今月から始めたバイト先の先輩のビビさん。
金髪に少し濃い目のメイクが映える美人さんで、よく店の裏手の小さな喫煙所で細長いタバコを吸っている。佳奈さんとは少し違った雰囲気のギャルさんだ。
でもケーキ屋さんで働いているということもあって匂いには気をつけているからか、いつも不思議なことに淡い香水の香りしかしなかった。
実は年齢も本名も知らないのだけど、大学にはほとんど行っていない大学生のバンドマンの彼氏が居るらしいことと、ケーキを作るセンスが物凄く良いこと、爪はいつも綺麗にしていてネイルは全くやっていないこと。
そして、専門学校を出たら本格的にケーキ作りの仕事に就きたいらしいことは知っている。
ハジメが言うように、一度学校の外に出てみると色んな人に会う。
そして、例えば電車とかで見かけるだけだったりして、見た目だけだと絶対仲良くならなそうな人ほど、趣味が合わなくても波長があったりするのだと知った。
ちなみに、ビビさんは最初怖いイメージがあったのだけど、とても優しくて仕事ができて、そして物凄く鋭い。
千夏の中では、金髪にしている歳上の女の人は何故か鋭い説が浮上している。今のところ否定要素はない。
◇◆
先々週の初出勤のことだった。
「初めまして! うわー可愛いね、高校生? 私は君の教育係にこの度任命されましたビビでーす」
「え? ビビ、さん? …………あ、えっと初めまして! うち、いえ、私は千夏です、今日からよろしくお願いします!」
「ううん、いいよいいよ畏まらなくて! こんなナリだけどちゃんと教えるから、これからよろしくね!」
穏やかな中年男性といった店長に紹介されて出てきた外見戦闘力強めのギャルさんに、少し怖いと思った気持ちはそのフレンドリーな笑みと声にかき消された。
ついでに緊張も続く店長との会話で消えた。
「店長流石、こんな可愛い子を入れてくれるなんてわかってるー!」
「いやいや、まるで顔だけで選んだみたいな言い方はやめてよ」
「違うの?」
「え? まぁほら、地に足ついてて芯が強そうとか」
「また適当なことを、って言いたいけど店長に同意かな? 確かに千夏ちゃんはどこかしっかりとした立ち位置を自分で手に入れた人の雰囲気を感じるね」
「…………え?」
実はすごく腕がいいパティシエさんらしいけど、気弱な中年男性にしか見えない店長さんと、金髪陽キャって感じのビビさんがポンポンと会話していく中で、ビビさんが急にそんな事を言うものだから、千夏は変な声を出してしまった。
「あ、図星だった? えへ、半分当てずっぽうでした…………ついでにもう一つ、今度は当てずっぽうじゃなくて見た通りの印象を言うと、きっと物凄く、直接的に愛されてる雰囲気を感じます! 特にその肌! これはいい恋愛をしていると見たよ!」
更に続けて言われた言葉に、咄嗟にハジメの事を思い浮かんで赤面すると、にっこりとビビさんは笑って言った。
「やばい可愛い。店長! この子持って帰りたい。千夏ちゃんと仲良くなりたい」
「ビビちゃん? どうどう、そこまで! せっかくバイトに来てくれたのにドン引きさせてどうすんの!?」
「あ、いえすみません。びっくりしちゃっただけで大丈夫です! よろしくお願いします!」
千夏はそう店長にフォローを入れる。
嘘だった。結構勢いに引いていた。
でもそんな初遭遇なのに、不思議と憎めない人だったと思ったし、その印象は正しかった。
その後気を取り直したように教えてくれた仕事の説明は、最初の印象に反して物凄く丁寧で誠実でわかりやすかったし、さっきはごめんね、という言葉と一緒に、フェアじゃないからと自分の事も面白おかしく教えてくれた。
初めてのバイトの緊張も、やっていけるかどうかの不安も消えて、最後帰る時はハジメに報告したいことでいっぱいで楽しく帰ることができたのは間違いなく彼女のお陰だった。
◇◆
「それでも一緒には居たのかー。高校生のうちからお互いの家を当たり前のように行き来するなんて凄いねぇ。ラブラブ度合いが深くてお姉さんは羨ましい限りだよ。ガッコの友達とかにも言われない?」
「あー、最初はありましたけど最近はそういうからかいも無くなりましたね…………それに今は春休みだから普段より一緒に過ごしてるっていうのもありますし」
結構繁盛しているけれど、時間帯によって物凄く混む時と、お客さんが全く居ない時間帯がある。
ビビさん曰く、幼稚園や保育園の迎えの前だったり、生活パターンが決まってて、ケーキにもお金かけれる人が多い街みたいだからこういうところでお店出せるといいよね、ということだった。
「そうかそうか、私はさ、高校の時も彼氏はいたけど、何ていうか一緒に帰ったり、偶に遊んだりくらいの関係で大学入ると同時に別れちゃったからちょっと羨ましくはあるよね」
「そうなんですか? でも今はもう彼氏さんいますよね? ビビさん一緒に暮らしてるって聞いたからそっちのほうが羨ましいですけど」
「あいつ? まぁねぇ、何だかんだでなし崩し的に同棲しちゃってるから羨ましがられるようなものでもないんだけど…………それにこのまま売れないバンドマンのまましがみ付くようならバイバイになるだろうし」
「ええっ?」
「いい? 千夏ちゃん。例えどんなに好きでもね、甲斐性が無いと駄目よ…………っていうか千夏ちゃんの彼氏も高校生か。まだ甲斐性とかそういう話じゃないかな」
「あはは…………」
時々愚痴のようになるビビさんの言葉に笑いながら、千夏は内心で思う。
(…………ハジメは既に甲斐性はあるような気がするなぁ)
だからこそ、千夏も少しバイトというものをしてみようと思い立ったわけだが。
◇◆
今日も今日とて労働に勤しんで帰宅した千夏は、千夏の家でハジメがキッチンに立っているのを見て、家主であり自分の母親である涼夏の方を見た。
「お母さん…………昨日に引き続きハジメに御飯作ってもらってるの? もう。うちもこんな日にバイトで申し訳なかったけどさぁ」
「あら千夏おかえり。いやその通りなんだけどねぇ、ちょっと色んな変更届を出すのが大変で面倒でね……甘えちゃった」
涼夏が申し訳無さそうな顔でそう答えるのに、ハジメが苦笑しながら言った。
「千夏、いいんだよ僕が好きでやってるんだからさ。それに手続きが面倒なのは僕も知ってるし」
「本当にありがとうねぇハジメ君。義息子が料理出来て気が利く上に良い子で本当にありがたいわ…………」
「ちょっとお母さん!? もう……ハジメもありがとうね」
そんなやり取りをしている千夏と涼夏を微笑むようにして見たハジメは、もう少しで仕込みは終わるからね、とキッチンの方を向いて背を向ける。
(やっぱり、うちの彼氏は既に甲斐性もあるし優しいと思う)
いざ少しバイトを始めてみたり、家事を以前よりするようになったりしてわかるが、一年近くも働きながら家の事をして、それでいて学業もそこそこの成績を収めている凄さがより分かるようになった。
無理に並べるようにするために背伸びをしようとはしていないが、自分のためにもバイトも学校も家の事もちゃんとしないとな、と千夏は思う。
そんな事を思いながらハジメの背中を見ていると、涼夏がふう、とため息をつくようにしてパソコンを閉じるところだった。
「あ、キリが付いたの? お疲れ様」
「ええ、午前中に市役所や警察にも行ったし、銀行類とかのオンラインで出来るものは全部完了。後残るはこの家の事くらい…………千夏もごめんね、高校生の途中で」
「ううん、仲のいい友達には言ってあるし。わざわざ学年の切替わりに合わせてくれたのを感謝だよ。三月や四月は忙しいって言ってたのに、今日も平日のお休みで色々ありがとうね」
「…………いやぁ、本当に良い子に育ってくれて嬉しいわ、本当にごめんね、ありがとう」
そう言って、少しギュッと抱きしめられたのは、帰ってきたばかりなのにウルッとしそうになってしまう。去年の秋に、全然会話が無かったとは思えないほど、良好な家族関係になれたのは、色んな巡り合わせとタイミングだったとは思うけれど、純粋に良かったと思えた。
「ふう、それにしても本当に面倒だったわ……今では別姓もあるし、男性側が変えることもあるから必ずしもってわけじゃないけど、やっぱり女の方が変えることが多いからね。間違えないようにしないとね」
「うん」
今日、千夏は、南野千夏ではなくなった。
そんな日に、ハジメは付き添ってくれたり、涼夏が専念できるようにご飯を作りに来てくれたりしている。いちばん大事な人が、今日一緒に居てくれて、そして何もかもわかってくれている。
それだけで、名字が変わる事について学校で見られるかもしれない視線など、気にもならなかった。
新しい名前は佐倉千夏。
ハジメと同じクラスになったら出席番号は前後になれるかな、と思った。
もし自分が次に変わるとしても「藤」と「倉」の一文字変わるだけか、と本当に自然と頭に浮かんだのは、絶対に内緒だ。




