第2楽章 2節目
少年の目の前で、筆が動く度に線が増え、線がいつの間にか意味のあるものとなり、絵画となっていく。
迷うこと無く動かされているように見えるのに、不思議とそこしか無いのだと思わされる結果が導き出される。
「やっぱり兄さんの絵は綺麗だと思う」
早熟とは評されるものの、それでも少年にとってその感覚を言葉にするには語彙が不足していた。
そんな少年に、兄さんと呼ばれた青年は笑う。
二人は似ていないようで、どこか近しい雰囲気を漂わせていた。よく見ると目元と耳の形がそっくりであることがわかるだろう。
「ふふ、真司だってこの間、芸術でも褒められたって聞いたよ? 家庭教師に付いた人たちからの評判も上々、天才というのも過言じゃないと聞いてる」
「……兄さんほどじゃないよ」
少年は今で10歳となる。兄とは5つ程歳が離れていた。
兄弟とはいえ容姿がそこまで似ていないのは血の繋がりが半分であることと、お互いに父親似ではないことが原因だろうか。
旧くから続く家と、母親の違う兄弟。
それだけ聞くと揉め事の種にもなりそうな話だが、しかして少年と兄の仲は良好だった。
兄の母は、兄を産んだ後に病没しており、その後妻として少年の母と父が再婚した結果という事も、お互いの母親が違うということを少年が納得していた一助であったのかもしれない。
旧くから続く家には、メリットも多いが、続かなければならないという制約も多い。
そのため、後を継ぐことになるであろう兄と、その補佐をすべく教育を受けている少年と表すこともできる二人だが、この場所では、ただの仲の良い兄弟だった。
ここは長野にある、いくつか家が所有している山荘の一つ。
関係あるいくつかの家を招いてのパーティの前に、沢の近くで兄が趣味の風景画を描いているのを、ただ少年は見ていた。
先程天才と言われたように、少年は与えられた課題についてそこまで苦もなく何でも出来た。
だが、目の前で兄によって形作られていく絵画については、到底真似できるものではない何かであることもわかっていた。これは、習うとかそういう類のものではない。
『才能は認めるが、趣味には呑まれるなよ』
厳格とも言える祖父、それに父はそう言うものの、少年と少年の母は、兄の描く絵が好きだった。
「兄さんは、絵を描く仕事をするわけではないの?」
「そうだねぇ、欲を言えばその気持ちが無いことはないけれど。僕らの家が続くことで仕事を得られる人たちが居るわけだし、長男の義務くらいは果たしながら、趣味で絵は続けようと思うけどね……ふふ、だから真司、君はもう少し好きなことをしてもいいんだよ? 尤も、僕が絵を描く時間を取れるくらいには頼らせてもらうつもりだけどね」
ポツリと尋ねた少年の言葉に、兄はそう言って微笑んで、少年の頭を撫でる。
「あら、お邪魔でしたか?」
そんな二人に、響くような清涼さを纏った声が届く。
少年が振り向くと、幼いながらに楚々とした雰囲気の黒髪の少女が日傘を差して立っていた。
「ふふ、そんな事はないさ、玲奈さん。日傘は気に入って貰えたのかな?」
「ええ、慎一郎様。柄も私の好みで、感謝をと思いまして早速使わせていただいております」
それに少女が微笑む。
上品さを失わないように作る笑顔を躾けられているためか、品は失われないが、かと言って冷たさもなく感謝している感情は伝わるような笑みだった。
「良かった、せっかくの可愛らしい婚約者に送る贈り物だからね、少し悩んだ甲斐があったというものだよ。夏に間に合ってよかった」
「…………ふふ、悩んで下さったのですね」
兄がにこにこしながら告げた言葉に、作った笑みから本当に照れ隠しのような笑顔になる少女。
少年は、この二人の関係性が好きだった。
幼馴染と言うには、まだ少年も少女も幼いながらに、それぞれ家に恥じぬ教育が行われている。
その上で、一般の小学校にも通う二人は学友でもあった。
純粋培養の人間は弱い。世の中には様々な人間が居ることを知れ。
そう言われている少年にとって、少女は同士のような存在だったし、家の決めたこととは言え、尊敬する兄との婚約が決まった今年の春は嬉しいという気持ちがあった。
兄からすると少女はまだ子供であるし、そういう対象ではないのだろうが、それでも大事にしている気持ちのやり取りは見ていて微笑ましいものだった。
「絵がお上手なのですね」
「ありがとう、弟もそう言ってくれるし、玲奈さんにもそう言ってもらえるのは嬉しい事だね」
少女がそう褒めるのを聞いて、少年は我が事の様に嬉しくなる。
同時に、同じ感性を持ってくれていることにホッとした。
「ここは、穏やかですね…………家が決して嫌いなわけではありませんが、私はこの空気が好きです」
「また来るといい。いつでも歓迎するよ……なぁ真司」
「もちろん」
沢に水が流れる音、風が木々を撫でる音、兄の筆が描く音。
そんな優しい空気の中でした何気ない約束。
◇◆
あの日にした約束を、彼らは覚えているのだろうか。
真司はふと、夏の陽射しが差し込む教室の中でそんな事を思う。
それ自体が感傷でしかない事はわかっている。
もう戻れる訳でもなく、交わした約束の時代とは関係性も立場も変わっていた。
「真司? どうしたんだよ? 体調でも悪いのか?」
そんな声で、真司の意識はふと現実へと舞い戻ってくる。
目は開いて、会話も聞いていたのに、ふとあの頃に戻ったかのように、一瞬のうちに見た白昼夢かのようだった。
目の前には、心配そうな和樹の顔が見える。
ハジメもまた、どうしたのかと表情に乗せてこちらを見ていた。
「わりぃ、大丈夫だ…………まぁイッチーと和樹は同じなんだろうし、女子も含めて決まりゃ連絡回すわ」
そう言葉を続けながら、こうして学校でも当たり前のように真司達がつるむようになったのもクラス替えの頃からだろうかと、ふと真司は想いを馳せる。
少しだけ、心の中にあった重しが取れた事による影響だろうか、昔を懐かしむわけではないが、随分と感傷的になっているものだと内心で笑った。
あれはまだ、桜が散り始める前の事。




