第2楽章 60節目
――――僕の時間は、いつまでだろうか
彼が毎日寝る前に考えることはそんなことだった。
何かがあった日も、何も無かった日も、毎晩眠りにつく度に考える。
――――僕の心臓は、果たしていつまで保つのだろうか、と。
◇◆
ある日の大学の講義中のこと、突然の動悸に襲われた。
胸が激しくドキドキとして、深く息を吸おうとしても息苦しさが増すばかり。
もうすぐ講義が終わる時間だったが、それを待てる気はせず、慌てて教室を後にし、薬を飲むと、廊下の壁にもたれかかった。
知らないものに興味がない世界は、こういうときには優しく、静かで、とても冷たい。
数分後、彼の心臓の鼓動は少しずつ落ち着いていったが、その急激にやってくる波への恐怖感は容易には消えなかった。
「大丈夫か?」
講義が終わり、教室から出てくる中で友人の一人が気づいて声をかけてくる。
トイレとでも思われていたのかもしれないが、流石に座り込んでいるのはおかしいと思ったのだろう。
「あぁ、ごめん。ちょっと立ちくらみがしてさ、休もうかと思ったら座り込んじゃったよ」
「……顔色も悪いぞ? また徹夜で絵を書いていたのか? その、家のプレッシャーが少なくなったのかもしれないが、だからといって身体を蔑ろにしていいわけではないからな?」
「うん、ありがとう――――よっと」
そして、手を引かれて起こしてもらって、彼は自分の身体に尋ねる。
大丈夫か? と。
ドクン、ドクン。
言葉が返ってくるわけではない。
でも、その響く一定のリズム。それが答えだった。
――――少しビックリしただけ、まだ大丈夫。
◇◆
毎月の心臓科の診察日は、彼にとって緊張の時間だった。
心電図検査のためにシャツを脱ぎ、冷たい電極を胸に貼られると、いつも不安が頭をよぎる。
医師の表情を伺いながら、彼は次の一言を待った。
「大丈夫、今のところは安定しているよ」
そんな言葉が、彼には何よりの安堵だった。
「ええ、いつもありがとうございます」
いつものように、お礼を言って専属の医師に頭を下げる。
この身体とも長い付き合いだ。
沢山の文献を読んだ。
沢山の医師からの説明を受けた。
長く難しい病名に様々な要因や制限はさておいて、彼にとって大事なことは多くはなかった。
先天性ということと、動悸がある一定以上になると、彼は意識を失ってしまうということ。
長く生きた人もいれば、発作と共に若くして亡くなった人もいる。
運良くドナーが見つかって、更には順番が回ってきて、経済的にも問題がなく、更に腕の良い医師に出会うと完治する人もいるが、それでも拒絶反応や体質の変化という別の問題と向き合っていく事は避けられない。
不整脈という言葉で言ってしまえばどこか身近にも感じるが、心臓病という言葉にすると深刻にもなる。
それが、彼の身体に宿るもので彼が説明できる全てだった。
激しい運動をしてはいけない。
極度の興奮をするような活動をしてはいけない。
遊園地でも乗れるのは観覧車くらいだろうが、それでも高所や美しい風景に動悸が激しくなるのは危険だ。
恋をしたことは無かったからわからないけれど、もしも物語のような心臓が破裂するような想いがこの身に訪れるならば、本当に破裂しかねない、そう自分で思って、笑えないでいる。
成長するにつれて、症状が和らぐ人間もいれば、症状が悪化する人間もいた。
彼はどのいずれでもなく、日常生活は送れるが、制限は解かれることはなかった。
そのせいで、母親違いとはいえ関係は良好な弟には重荷を背負わせることになり。
婚約者という立場であった幼馴染の少女には、複雑な扱いを強要することになった。
事情を知っているのは、祖父とその従兄弟である大叔父、父と主治医の面々。
弟にも、妹のように思っていた幼馴染にも、知られたくなかったのは幼少期の自分のわがままだったが、彼には特筆した芸術の才能があったことと、弟には経営の才能があったこと、そして、病状が良くも悪くもならなかったことが、流れのようにそうさせた。
絵に専念するために家を出てアトリエのついているマンションに住んでいると思われているだろうが、実際は主治医がいつでも駆けつけられるように、そして、何か有った場合にすぐ搬送出来る体制が整えられた場所というだけだった。
いつも通り主治医は帰途に付き、身の回りの世話をしてくれる寡黙な壮年の女性と、穏やかな性格の老年の運転手の男性と彼が家に残される。
「どうなされますか?」
「調子は悪くないし、いつも通り、アトリエに入ります。夕食の時間には出てきますので」
いつものように会話をして、彼はゆっくりと歩いた。
そして、いつもの椅子に座り、筆をとる。降りてくるままに腕を動かして、キャンバスに形を成していった。
家の柵は、彼にとっては金銭面や生活面でのサポートという意味でメリット側に多大に振れていたし、父は、子孫を残す事も望み薄な自分には興味を無くす代わりに干渉もない。
そして家の長である祖父達は、絵の才能を見出してくれた。あれで現実的でありながら情にも厚い。
そんな祖父と似ていると思っている弟との仲も良好で、大学では友人もいた。
不自由はあれど、彼は自分を不幸だと思ったことは無かった。
◇◆
『お前の描き方は面白いな』
そう彼の絵を評してくれた人がいた。
彼の細腕と比べると、丸太のような太い腕から、あまりにも似合わない繊細な絵を書く人だったが。
『血が濃いと、時折お前のような人間は出る。だが、そういう人間は総じて芸事に優れていた。何かを残したいと思うのであれば、儂はそれを支持しよう』
そう言ってくれた祖父もいた。
合理を常に考えているようでいて、その先の和も大事にしている人だと、気づいた。
『好きを分かっているかはわからないのですけれど、貴方の絵が好きだと思います』
そう呟くように告げてくれる少女がいた。
名も知らぬ人々の為によりも、誰かのために描く方が、彼の性には合っているようだと気づかせてくれた。
今日も彼は、静かに絵を描く。




