第2楽章 58節目
待ち合わせた、チェーン店ではなく重い扉の昔ながらの落ち着いた喫茶店の中には他の客は誰もいなかった。
そんな店内で、その女性は真司と佳奈にそれぞれ目を向けながら少し面白そうに口を開く。
「……何かの詐欺に引っかかってる、ってわけじゃああんたに限っちゃないんだろうねぇ。いや、むしろ引っ掛けてるのはうちの方か?」
ハスキーボイスとでもいうのだろうか、少し喉を酷使する、あるいは日々話をし続ける人間には多い少しかすれた、それでいて聴きやすいと思わされる声だった。
第一印象で、その女性が佳奈に似ているとは、真司は思わなかった。
美人ではあるのだろう。
その女性は、下手すると二十代の後半と言われてもおかしくはない容姿で、それでいて年配と言われても納得するようなどこか気怠げな色気が漂う様子を見せていた。
ただ、口を開き、真っ直ぐと真司の目を見て話す様を見て、何故だか真司は感じる。
(なるほど、佳奈の母親か)
都心から少し外れた、しかし古くから存在する会社が立ち並ぶ街でスナックを経営しているとは聞いていた。
真司を見る目は、値踏みをするような、そしてそれを隠そうとはしない色を持っている。
ただ、それが不快ではない理由にも真司は気づいていた。
利用のためではなく、人脈のためでもなく、どちらかというと保身。この場合は娘に害を与えないかのために観察しているように感じる。
元々佳奈からは母親の人となりについては聞いていたし、仲が良好であることも知っていたからではあるが、真司の中で、彼女が警戒の必要が薄く、そして大人として相対できる相手だと判断がなされた。
「もう、お母さん!? 私は引っ掛けてなんかいないからね? それに言ったでしょ、真司はいい男だって」
そんな真司の隣で、佳奈が母親の第一声に憤慨するように言う。
だが、実はここに来るまでに少し、初めて相手の親に会うという真司より余程緊張していたのを知っている真司からすれば、文句を言いながら緊張がほぐれている様子を感じ、そしてそれにくっくっと笑っている佳奈の母親を見て、なるほど、と思って口を開いた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私は相澤真司と言います。佳奈さんとお付き合いさせていただいています」
なるべく丁寧に、簡潔に。
「……ふふ、では改めて、佳奈の母親で、渚というものだよ。末永くよろしくお願いしていいのであれば、お願いしたいね。それにしてもなるほどねぇ」
真司の挨拶に少しだけ表情を柔らかくして、渚は何かに納得するように頷いた。
「どうされましたか?」
それに真司が問うと、「そうだね、そのままを伝えたほうがお互いに好みだと踏んだからざっくばらんにいかせてもらうかね」と前置きをして、渚は真司を見て言う。
「この子のことは知っているんだろう?」
何を知っていると言っているのかはわかった。佳奈が隣で頷くのを感じる。
「ええ。ですが勿論、便利に使うとかそういうつもりはありません」
「……ふむ、佳奈。あんた本当に運がいいねぇ」「でしょ?」
渚は真司の答えを聞いて佳奈に少し目を向け、軽く母娘のやり取りをして、また真司に顔を向けた。
「見かけとは裏腹に誠実な色が強いね。躾ではなく、教育を受けて育ったかな。なるほどと言った理由はね、この子が誰か彼氏を連れてくるとしたらどちらかだろうなと思っていて、予想とは違うほうが現れたからだよ」
「…………」
何となく言わんとしたことがわかり、真司はふっと口元を緩めて佳奈を見る。
「まぁうちの家系はね、そういうことが往々にしてあるのさ。あたしは感じる位だが、あたしの母親はその特徴が強くてね、佳奈もそれに似ている……仕事柄色んな人間を見るし、この子にも見せてきたからね、生きづらさを乗り越えられるような考え方は教えたつもりだがね」
そして渚は言葉を切って、珈琲を一口飲んで喉を潤して続けた。
「だから、この子が彼氏を連れてくる相手ってのは二パターンかなと思ってたのさ。馬鹿みたいに考えたことと行動、言動が一致している単純な男か……それとも、様々なことを考えつつも、言葉に嘘を乗せないで話すことができる男かね。まさか後者みたいなレア物を、しかもその中でも特上と言って良いような相手を捕まえてくるとは思わなかったけどねぇ」
「恐縮です」
「しかも、第一声が『使わない』と来たものだ。話は聞いているけれど、家のこともあるんだろうに」
「……嘘の無い嘘、言わない真実。佳奈のような感覚がなくても、それを悟る必要がありますから。その上で、嘘で失う信用よりも、積み重ねる信用のほうが重要で資産だと、先程の仰られた言葉を使うと教育されていますから」
「あぁ、そうだろうねぇ…………少し安心もしたよ」
渚は、そんな真司の言葉に、そして目を見て笑う。
「でしょう? 昨日久しぶりに会った途端に、会わせてみろとか言って心配し過ぎなんだって、お母さんは」
「何をいってんだいこの子は。あんたの言葉だけじゃ本当に実在するのか怪しいから、忙しい中でもこうして会いに来たんだろう? さて、ホッとしたところで、そろそろ早いけれどあたしは行こうかね」
そんな渚の様子と、真司にほっとしたように、佳奈が明るい声を出すのに少し呆れたようにして、渚はそう言って席を立つ。
「あ、ここは私が」
真司が伝票を取ろうとする渚にそう言うが、渚はそれを押し止めるようにして、近づいて来て言った。
「ちょいと失礼するよ」
そして徐ろに、真司の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でる。
「え……? あの……」
それに流石の真司も咄嗟の言葉が出てこない。
佳奈が少し慌てたように「お母さん?」と言っていた。
だが、続けられた渚の言葉に押し黙る。
「あんた達の好きにしたらいいけど、母親としては色々とこれからも佳奈のことをよろしく頼むと言っておく。でもね、あたしからしたら佳奈もそうだけど、あんただって余程子供だ。聞いている話、それに実際に見た感じで、あんたが子供扱いされることはきっと無いんだろうさ。それに子供と言うときっと抵抗があるだろう歳で立場で、性格だろうけどね…………」
そして、ポンポン、と優しげに頭を叩かれ、続けられる。
「あたしみたいな、何の柵も無い、大人にくらいは子供扱いされておくれ…………くく、佳奈にはまだまだそんな包容力は無いかもしれないけどねぇ」
「……一言余計じゃない?」
そう言ってレジに向かう渚の背に佳奈が言っているのが聞こえつつも、真司は少し残る頭上への感覚に、不思議な気持ちを覚えていた。
(誰かに頭を撫でられて子供扱いされるなんてのは、一体いつ以来だろうかな)
幼少期はあったのかもしれないが、父母にそういうことをされるイメージはない。
兄は弟として親愛を持って接してくれるが、子供扱いをされたことはない。
他の大人にされても、真司は心から抵抗を覚えるだろう。
だが、今こうされて、驚きはあれど不快感は無かった。
「ねぇ、真司」
「なんだ?」
「怒ってないよね?」
「わかるだろう、怒ってない。それどころか――――」
真司がそう言うと佳奈は、渚の後を追って立ち上がろうとしていた真司を席に強引に座らせて。
再び頭を少し乱暴に撫でられる。
「じゃあ私がこれから、何度も撫でる」
「あぁ? なんだそりゃ」
どこか佳奈のむくれた顔に、真司は呆れて、そして少し笑ってしまった。
「だってさ……」
そして頭を撫でながら、佳奈が言う。
でも、言葉に嘘を感じる能力があろうとなかろうと理解った。それを嬉しく思う。
「真司、凄い穏やかな顔してるんだもん」
その佳奈の言葉には、むくれているようで明らかに嘘の無い喜びの色があったのだから。
今度は自分の頬が緩んでいるのを自覚する。
そして、今度こそ立ち上がり店の外に向かいながら、他の客入りが無いことに少しばかりの感謝をするのだった。




