第2楽章 55節目
ズズ、と隣から麺をすする音が聞こえる。
やっぱり美人だろうがなんだろうが、ラーメンを食べる時は音するよな、と考えながら、和樹は目の前のチャーシュー麺を味わっていた。
駅前にあるそのラーメン屋さんは、餃子が売りの、昔ながらといった店構えの店だった。
少し細い路地を下る途中の、居酒屋やバーがあるビルの近くでもあるから、少し遅い時間にはこの周辺には珍しく酔客もいるが、今の時間帯はそんな事もない。
両親が仕事で遅いことも多い和樹にとっては、部活帰りによく食べて帰る場所なのだが、少なくとも女子と二人で来るところではないのは、彼女という存在がいたこともない和樹にもよくよく分かってはいるのだが。
わかっていてなお、何故そんなところにこうして、仲良くなったとは言え高嶺の花の感覚が拭えない早紀と二人いるのかというと、流れとしか言えない。
◇◆
部活帰りの時間。教室に忘れ物を取りに言っていた和樹は、ふと早紀とばったり会って、声をかけた。
「あれ? そっちも部活終わりか?」
「……和樹。うん、終わったところで、明日の現国の課題忘れたことに気づいて取りに来たんだけど、あんたは?」
「いや、俺は持ってきた漫画を忘れてたから、それを取りに来た、後は帰るとこ」
そう言って、和樹がサッカー漫画を見せると早紀が興味を示すようにして尋ねる。
「へぇ、その漫画凄い売れてるやつだよね。やっぱ面白いの?」
そんな早紀の言葉に、あれ、こういう少年漫画って感じのスポーツものはあまり好みじゃなかったんじゃねぇのかな? と思いながら、和樹はうなずいて答えた。
「ああ、これか。結構面白いぞ。一巻は好みが分かれるかもしれないけど、そこを超えれば後はひたすらアツいというか」
「そっか、ちょっと読んでみたいかも」
「え? まじで? 早紀ってこういうのあんまりじゃなかったっけ?」
「え……? あー、そうかも? でもあんたから借りるのって面白いと思うしさ、新しいジャンルもいいかなって」
何故か少しだけ照れたような素振りを見せながらそう言う早紀に、和樹は少し首を傾げなら、しかし自分が面白いと思うものが布教できるのは嬉しいので、そのまま告げる。
「正直嬉しい、じゃあ明日一巻からひとまず持ってくるわ、これ最新刊だし」
「ありがと」
そう言って笑う早紀に、一瞬和樹ははっとなって固まった。
(何だ? 早紀ってこんなに柔らかく笑うやつだったっけ?)
そしてそんな自分にも、早紀に対してもちょっと考えていると、早紀には怪訝な顔をされる。
それはそうだ、会話中に急に止まられたら和樹だってそうなるだろう。
「……どうかした? 何か私の顔についてる?」
「いやわりい、ちょっとボーッとしてた。腹も減ったしそのせいかな」
だが、そんな早紀の言葉に、そのまま思った通り、一瞬見惚れていたと告げるほどの経験値も度胸も和樹は持ち合わせていなかった。
――――言いそうな友人は三人ほど思いつくが。
「あはは、何よそれ? でも確かにお腹は空いたわね、もうそこそこ遅いしね」
「部活の後は腹減るよな。今日は駅前のラーメン屋にしようかな」
「え? あんた食べて帰るの?」
「あぁ。まぁうちは共働きだしな。ほら、親父は知ってるだろ? 時期にもよるんだけど、基本夜のほうがいなくて、母親もスーパーでまだパートの時間なんだわ。自分で作るってほど料理は出来ないし、食費はもらってるから偶に食べて帰る」
そんな会話をしながら、和樹と早紀は学校の校門へと二人で歩いていった。
部活で残っている人間もいるだろうが、日が長いとは言え夕暮れの中で誰も居ない廊下を二人で歩くのは、何だか新鮮な感じだなと和樹は思う。
だからだろうか。
そんな台詞が口から出たのは。
「気になるなら一緒に行くか? イメージ的に早紀とかは絶対行ったことないような店構えなんだけど、これがまた美味いんだよな」
「…………わかった、行くわ」
「……え?」
「ちょっと…………え? って何よ、誘ったのはそっちでしょうが。お腹も空いたし、そこまで褒めるなら私も気になるわよ」
そして、少し考えた後に、早紀がそう頷いてくるのもまた想定外で。
そんな経緯で、和樹は早紀を連れて二人でラーメン屋に来たのだった。
◇◆
「……美味しい」
そんな風に呟きながら、早紀は内心で自分は何をしているんだろうと考えていた。
隣に目をやると、麺を美味しそうに啜って、スープを飲んでいる和樹の横顔が見える。
この間、自分の気持ちに自覚してからも、特に何か行動を変えているつもりはなかった。
千夏や優子、玲奈にも何も言われていないし、和樹も反応は変わらないからそれは正しいはずだ。前回の恋のように、呑まれたりしないようにと意識もしているのだから。
でも今日は、偶然教室に二人で会って、漫画を持っていて、少しそれに興味が惹かれて。
それに対して和樹が言った「こういうのあんまりじゃなかったっけ?」という言葉に、確かに、と思って更に自覚してしまった。
どうやら自分は、相手に合わせてしまう質があるらしい。
スポーツマンガ系、特に少年漫画が前面に出ている物語はそこまで得意ではなかったのだけど。無理をするわけでもなく、和樹が面白いと思うなら読んでみたいかな、という思考になっていた。
今もそうだ。
家に帰れば普通にご飯は用意されているし、そう言って駅でじゃあねと別れるで良かった。
なのに、早紀の口は、足は、共にいることを選択する。
(でもま、本当に美味しいし、楽しいし。いいよね)
少しだけ自分に呆れながらも、そう言い訳するようにして、目の前のラーメンを味わいつつ、時折感想や、何でもないことを話しながら、早紀は笑う。
それは、ここにはいない友人たちが見ることがあったならば、少し驚くほどに柔らかく穏やかな笑顔で、でも、それに気づく他者はここにはいなかった。




