ヴぁんぷちゃんが泣いた。
その後、『化物』の予定としては数多ある部屋の中で、唯一入ることの出来る『化物』の部屋に逃げこんでいるであろうルーミアと相対する。だった訳だったのだが、しかし、予想と反してルーミアはマンションに入ってから上に上がるのではなく、下に降りていった。
地上から地下へ。
階段を降りて、地下にある駐車場へと逃げていた。
駐車場と階段をつなぐ場所には扉はなく、駐車場は他人の家認定はされなかった。
その為縛りも関係なくルーミアはそのまま逃げ入った。
高層マンションの住人たちが乗りこなしている高級車を全て収納するために、駐車場はかなり大きめに造られていた。
その高級車の間を抜け、出来るだけ階段から離れて、尚且つ身を隠せる場所を見つけたルーミアはそこで腰を地べたにおろした。
普段の彼女ならば絶対にしたがらない行動だった。
「はっ、はっ、はっ……んくっ」
荒れに荒れている呼吸を整えつつ、ルーミアは高級車に背中を預けて、手に持っていたビニール袋の中にあるペットボトルのキャップを開き、喉に流し込んだ。
ごくり、ごくり、と喉は動き、体内にその中身を取り込んでいく。
外に殴り飛ばされた時、一瞬太陽を見てしまったがために焼けてドロドロになっている片方の瞳は、ゆっくりとルビーのような煌きを取り戻していく。
「ぷはっ……」
中身を全部飲み干したルーミアは空っぽになったペットボトルを横に置いて、口元を手の甲で拭いながら、また新しいペットボトルに手を伸ばす。
ペットボトルの中にたっぷりと詰まっている赤い液体は言わずもがな、吸血鬼の主な栄養分である血液だ。
『化物』がルーミアの家に初めて遊びに来た時に持ってきたお土産であり、今度飲んでおこうと部屋の端で保管しておいたものだ。
『化物』に殴り飛ばされた時になんとか掴み取る事は出来たのだが……。
「やっぱりこれ、人の血じゃあないわ」
三本目のペットボトルに口をつけてから、ルーミアはポツリと呟いた。
一本目から感じていた違和感ではあったのだが、さすがに三本も飲んでいれば疑惑は確信へとかわる。
「この犬臭いのはクー・シーかしら。この熟しすぎの舌触りが砂みたいなのは多分ランダの、とするとこれはレヤックかしら……」
つらつらと、奇っ怪なものの名前を上げていくルーミア。
それらは全て、人を襲うとされているものばかりだった。
当然と言えば当然か。
彼は人間が創りだした死体。ならば普通のゾンビのように見境なく人を襲うようには出来ていないはずだ。
人間を襲うものを、退治するために出来ているはずだ。
それは例えば、人の血を吸う吸血鬼とか……。
四本目のペットボトルを飲み干し、吸収された分の体力は回復できたルーミアはふう、と息を吐いて。
「落ち着きましょう」
そう、口にだした。
「なにを取り乱しているの。あいつが敵だった。たったそれだけの事じゃない」
自分に言い聞かせるように、ルーミアは呟く。
「遊びに来たのは警戒心を解くため。プレゼントは私を弱らせるための道具だった。寿司に行ったのは道中にそれを使わせるため。図書館にいたのは吸血鬼について調べるため。家に入れたのはこうして、私の動きを制限するため……あは、なによ。考えてみればあいつ、初めから裏切るつもりだったんじゃない……」
裏切り。
味方から敵への転身。
それは、人心掌握の術を持っているルーミアが今まで味わったことのない衝撃で、彼女らしくなく、詭弁や戯言で現実逃避をしようとしてしまうぐらいには、この上ない屈辱で、悔しいほどに辛かった。
苦しかった。虚しかった。可笑しかった。悲しかった。
心臓に杭が打たれたみたいに、心が苦しかった。
苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて。
「……あれ?」
ポロポロと。
ルーミアのルビーの瞳から小粒の、澄んだ雫がこぼれ落ちた。
「え、あ、どうして……?」
それに気づいたルーミアは、手の甲で拭うが、しかしそれは、本人の意思とはまるで無関係に涙は留まることなく、色白の頬を伝う。
「うくっ……ひっく……なんでよ、なんで……」
拭っても拭っても、涙は一向に止まらず、むしろ堰をきったように溢れだし、彼女の顔をぐしゃぐしゃにしていく。
本人の意思を無視して、いや、むしろ反映するように涙は溢れる。
――なによこれ。これじゃあまるで私は――。
「ん、あれ。どうした?」
ルビーの瞳がさらに赤くなり始めた時だった。突然話しかけられたルーミアはビクリと、小動物のように震える。
ルーミアの前には一人の男がいた。
彼女が今背中を預けている車の持ち主だろうか。どうやら泣いているルーミアを見かけて心配して話しかけてきたようだった。
「なにか恐いものでも見たのかな?」
「べ、別に大丈夫よ。気にしないで」
誰かに話しかけられて、それに応対する。
それは混乱していた頭を一旦落ち着かせるにはいい場面転換になったようで、勝手に流れていた涙を腕で乱雑に拭うと、ルーミアはすくっと立ち上がった。
「本当に?」
「本当よ。あなたなんかに心配されるほど、私は落ちぶれてなんかいないわ」
心配してくれる男に対してつい強く言い返しながら、男の脇を抜けたルーミアは。
べちゃり――と。
生々しい音を聞いた。
脇を抜けたルーミアの目の前で、毛むくじゃらがうごめいている。
大きさは成人男性ぐらいだろうか。
人型であるものの、その血走ったギョロついた眼からは知性というものが感じられない。
その毛むくじゃらは他の毛むくじゃらを押しのけながら群れの中に体を突っ込ませて、何かにがっついていた。
毛むくじゃらたちの足元には、女性のものと見られる細腕と、人一人分ぐらいの血溜まりがあった。
「あなたなんかにぃぃ……?」
突然のことに体が固まってしまったルーミアの背後で、さっきの男は変な抑揚をつけながら、振り返った。
その顔はまるで煮えたぎっているお湯のように気泡だっている。
「おいおいおいおいおい、なんかにはないだろぉ、心配してくれた人に対してなんかにはよおぉぉ……」
気泡は破裂して男の顔を変質させていく。
ゆっくりと人の顔から黒色の毛がはえ、その毛の合間から血走ったギョロついた眼が、ルーミアの背中を捉える。
バクベア。
悪い子供を食べるとされる人型の妖精。
奇っ怪なものであるそれは、当然だと言わんばかりに、当たり前のように、そこにいた。
「悪い子だなあぁ? お前、悪い子だなあぁぁ!?」
かパァ、とよだれが溢れる、牙の生え揃った獣のような口を開き、男はルーミアに襲いかかった。
ルーミアの『魅了』は、彼女の眼を対象が見ることで発動する。
それはサングラスをつけようとコンタクトレンズをつけようとも効果が薄れることはないけれど、当たり前のことだが、眼を見ない限りその能力は発動しない。
吸血鬼を退治するのなら――不意討ちが効果的だ。
「くっ……!」
背後から襲いかかってくる存在に勘付いたルーミアはスカートが体に巻き付いてしまうぐらい速く体を回転させながら、振り返る。
振り返ると――バグベアの顔は醜く歪んでいた。
歪んでいたというか、めり込んでいるというか。
顔面が外からの力で内側にくぼんでいた。
「くぺっ――」
声というよりは、殴られた時に漏れた音がルーミアの耳に届くか届かないかぐらいの速さで、バグベアの顔は高級車と銀の拳に挟まれて、トマトのように弾けた。
大きく側面がへこんで、赤い血がへばりついた高級車は隣の車を巻き込みながら、大きく一回転して盗難防止の非常ベルが遅れて地下駐車場内に反響する。
「うん、なるほど」
頭を失ったバグベアの体が仰け反るようにひて倒れ、その前で『化物』は血のついた銀の拳を眺める。
「やっぱり銀なだけ――鉱物なだけあって、充分打撃武器としても使えるね」
尋ねるように『化物』は言う。
ルーミアは生唾を呑み込みながら、半歩さがった。
ここまで来てもまだ、ルーミアは『化物』と闘おうと思えないでいた。
まだ、そこまでの心の整理がついていなかった。
だから。
「行きなさい」
さっき目を見ることによって魅了にかかったバグベア三体に『ゾンビを襲う』よう命令した。
「おっと」
『化物』は少し驚いたような表情をみせながら、一番最初に大口を開けて襲いかかってきたバグベアの顔を、銀の拳を横に振るって砕き壊すが、残り二人は『化物』の体に乗りかかった。
品のなくて知性が微塵も感じられない粗暴な声を荒げながら、二匹のバグベアは『化物』に襲いかかる。
バグベアは悪い子供を食べるだけの妖精に過ぎない。
弱者を食らう妖精。
だから、強者である吸血鬼を殺す為に創られた『化物』に敵うはずがなく、三十秒も足止めをすることも出来ないだろう。
だけど、それでいい。
殺さず、自分が再び身を隠せるだけの時間があればいい。
――そして、あいつを殺せるだけの、決心をしよう。
問題を先送りにしているのを自覚しながら、ルーミアは走りづらい服装を今更ながら後悔しつつ、しかし、一心不乱に盗難防止用の非常ベルがけたましく鳴り響く地下駐車場を駆け抜け、『化物』の視界内から身を隠そうと高級車の鋼の網の目を掻い潜り――一本のビンが放り投げられた。
中身の見える透明なガラス製のビンで、その中身もまた不純物が徹底的に排除されたような無色透明の清水のようだった。
それを卓越した吸血鬼の視力で捉えたルーミアは、すぐにその正体に気づき逃げようと体を捻ったのだが、それよりも速く、ビンは破裂した。
さながら中に小さな爆弾でも仕掛けられていたかのように、ビンは破裂して、中にたっぷり入っていた清水ならぬ聖水が――吸血鬼の弱点を辺りにばらまいた。
「ぎっ――ああああああぁっ!?」
聖水がその身に触れた途端、ルーミアはその矮躯から想像できないほどの絶叫をあげる。
月夜に映える銀髪は溶け、白磁のような柔肌は醜くただれ、抉られ、全身を襲う溶けるような激痛に、ルーミアは思わず腹を抱えるようにしてうずくまる。
「おいおい、吸血鬼。どうして悲鳴なんてあげる。聖水のシャワーなんて、身も心も洗われるようでこの上ない心地良さだろう」
痙攣しながら言葉になっていない声を漏らすルーミアを前にして、ビンを投げた白装束の男――土御門接道は、フードを目深に被ったまま薄ら笑う。
「それともなんだ、身も心も汚れているお前は洗われると消えてなくなるのか?」
「か、ばっ……な!」
「喚くのなら好きなだけ喚け。人に自分の短所をみせるのを嫌うお前の為に人払いをすませてある」
「はっ、あ……ど、うりで……こんなにも騒がしい、のに、人が来ないはずよ……」
肉が焼けて、爛れて、溶けていく。
さながら硫酸でもかけられているかのような状態で、ルーミアはゆっくりと、子鹿のように体を震わせながら立ちあがる。
接道は少し驚いたような素振りを見せる。
「まだ動けるのか、元気だな」
「当然。一体私を誰だと思っているのかしら」
痩せ我慢だ。
体に浸透するように行き渡る激痛は、体をよじらせながら喉が枯れるぐらい絶叫して、悶え苦しむ分には充分すぎる痛みだったけれど、意地っ張りで見栄っ張りな彼女に、人を――敵を前にしてそんな恥さらしな事が出来るはずもなく、唇から血が出るぐらい牙で強く噛み締めながら、ルーミアは接道に相対する。
相対して、腕を組んで胸を張る。
「この程度のもので私を退治できると勘違いしているなんておこがましいのよ」
「なるほど、弱っていても吸血鬼ということか」
しかし接道は笑ったまま、表情を変えようとしなかった。
「なんだ、俺の血を吸って体力を回復しようと画策しているのか? 辞めたほうがいい、お前のような汚れた存在が俺の血を吸えば、腹を下すぞ」
「まさか」
ルーミアは消えかけている意識をなんとか保たせながら、吐き捨てるように言う。
「あなたの血は全て地面に染み込ませると、そう言ったはずよ?」
「ああ、そういえばそうだったな」
思い返すように接道はアゴに手を添える。
そして口元を歪めた。
ニヒルに、笑った。
「なら、お前を近づかせる訳にはいかないな」
ドン、と背後から背中を押された。
「え?」
強めの力で肩をおされたルーミアはバランスを崩して前のめりに倒れかける。
――なに、が……?
ルーミアは空中で体を半回転させて振り向く。
背後には。
バグベアのものだと思われる血を浴びた『化物』が銀の拳を振りかぶっていた。
その拳は半回転した事で向き合う形になったルーミアの胸を、的確に捉えた。
胸の奥にある心臓を、寸分違わずに、捉えた。
「はぐ――っ!?」
ルビーの瞳を大きく見開き、顔を歪める。
『化物』は、そのまま銀の拳を倒れていくルーミアの胸にめり込ませながら地面に叩きつけた。
胸にめり込んでいた拳は勢い余ってルーミアの体をあっさりと貫いて。
心臓を破裂させた。




