心覚
西国、ラルムヴァーグ。誰も知ることはない、深い森の中の古い館。昼間でもどこか薄暗く湿った森の中に、古城のような館がある。
「やっと帰って来れましたね」
木々の隙間から僅かに差す木漏れ日を避けるように、マントのフードを深く被ったロイがその陰気な館を見上げた。
ジャックと別れて家に戻ったのは結局、三日後になってしまった。それまでロイは実家に戻った後、ミッド家に寄っていた。
ミッド家では少し痩せたアップルが迎え、すぐに隠居することと次の感謝祭のホストが親族である中流貴族のベルマディ家に決まったこと、それと感謝の言葉を掛けられたのだった。
――私は自分の息子があなたの様な高貴な吸血鬼に仕えることができたことを誇りに思います。限りない感謝を、そしてロイ様にご多幸をお祈り申し上げます。
手を取り、細められた紫の瞳はかつてのキャンディを思い出させたのだった。
その記憶に蓋をすると、マントを少し上げ一歩一歩玄関に向かう。
かつてロイ・ルヴィーダンとキャンディ・ハロウィーン・ミッドが暮らしていたこの場所はどことなく色褪せ、時が止まってしまったかのように古ぼけている。
ロイはマントをすっかり脱ぐと玄関のドアノブに手を掛ける。重い金属音と共に扉は開かれ、かつて生活していたリビングが姿を見せた。
――今日からここが僕たちの住み家か……ねえ、ロイ。ここにソファを置こう。そうしたら集会から帰った後すぐにお茶が飲めるしね。
数十年前のキャンディの姿がそのビジョンに重なる。
今は彼の手で壊されたソファが転がっているが、これはこの住み家に入って最初に購入した物だった。
ロイは続いてその奥のキッチンを訪れる。
あの日から誰もこの館に入っていない為、ここも荒れ放題になっていた。家具も照明も充実していない館だが、調理器具だけは様々な種類が揃っている。それもすべてキャンディが揃えた物だった。
――見て! パンプキンパイが焼けたんだ。それとこの間ダレスおじさんに貰った薔薇でジャムも作ったよ。紅茶を淹れるから、少し手を休めたら?
仕事に追われているロイに紅茶を運んでくるのはキャンディだった。
実家で雇っている料理人に教わったレシピをいつもここで作っていたことを思い出す。
実際にロイはお茶を淹れる時以外キッチンに足を踏み入れなかった。
割れている皿も気にせず、ホールに戻り階段に向かう。
一階の部屋は殆ど崩れる寸前の部屋が多かったため、ロイとキャンディは2階に自室を持った。
脆くなった階段を踏み外さないように歩を進めていくと、東の角部屋……ロイの自室に着く。
入室すると、ベッドの羽根が散らばり椅子や机はあの二日月の夜のまま崩れたままだった。
クローゼットも片方の扉が完全に外れてしまっていてロイの衣服が目に入る。
――ロイってなんでクローゼットに同じ服しか入ってないの?
――いいじゃないですか。私は服には疎いんです。同じものがたくさんあれば迷わなくて済むでしょう
――じゃあ、今から仕立屋さんに行こう! ロイはさ、容姿が美しいのにそんなシンプルな服ばっかり着ていたらもったいないよ」
数年前、強引に仕立屋に連れて行かれたのを思い出す。
クローゼットの片方の扉も開けるとまだ袖を通していない、濃いグレーのスーツが掛けてある。これはキャンディがロイにと仕立てた物だった。
「もう、着る機会はなさそうですね……」
ロイはポツリと呟いて手に取ったジャケットを再びクローゼットに戻した。
このスーツは今年の吸血鬼感謝祭で着用する予定だったが、その予定も悲しい事件のせいで無くなってしまったのだ。
キャンディの手でぐちゃぐちゃにされた部屋をもう一度見渡すと、ロイはまた後ろを向き自室から退出する。
廊下をまっすぐに進むと今度は西の角部屋、キャンディの部屋に到着する。
ロイはキャンディの部屋に入るのが初めてだった。
控えめにドアを開けると静かに入室する。そこには簡素なベッドとクローゼット、それからたくさんの靴やブーツ、それと書物が積んである。
どれもが製菓会社、ハロウィーン社にまつわる書物で、その中なにはミッド家の写真などが所々挟み込まれている。ここだけが荒らされることはなくキャンディが使ったままになっていた。
そこでロイはある古い書物にたどり着く。そこには―シアン語入門―と書かれていた。
そこであるひとつの記憶が呼び起される。
――ロイは今、そうじゃないっていった! はっきり聞いたぞ!
あれはキャンディと相棒になって初めて言い争いが起きた時だ。キャンディはラルムヴァーグ出身、元々使っていた言葉は西国のルーン語という言語だった。それに比べロイの出身は北国ベルレネディアで、シアン語が公用語だ。
Blood ROSEの規則で公用語は集会所のある西国シュツメンヒのヴィンメル語を使うことが義務付られているが、少しの言い違いやイントネーションの違いですれ違ったのだった。
それから数年後にキャンディはロイと二人で話すときはシアン語を話すようになった。北国にも事業を増やすからだと言っていたが、多分それだけの理由ではないのだろう。
少し熱を感じた胸を抑え込むと、ロイは階段を降りて行った。
広い館の中、ロイは全くこの場所を重んじてはなかった。
だが、いざ振り返ってみると多くの記憶がこの場所には眠っている。
「なんでそんなことに気が付かなかったのでしょうね」
声に出して自らを嘲笑うと、ロイは玄関のドアを開け振り返る。
「今まで、ありがとうございました」
腰を深く折ると、深々と頭を下げる。
乱れた髪を耳にかけると、美しいとは言えない笑みを浮かべ裏庭の方に歩いていく。
そこは些細なことから始めたハーブ園で、だが幾月も手入れをしていないせいか荒れたい放題になってしまっていた。
その中でも強く咲き続けるカモミールを摘むとそっと口に入れるのだった。
「お前さんは薔薇しか食べないんだと思っていたよ」
不意に声を掛けられ、振り返ると後ろにはダレスの姿があった。
黒のスーツに紺のタイでダレスにしては地味な服装が新鮮味を覚える。
その胸に止まっている真っ白な生花の薔薇が鮮やかだった。
「私だって血と薔薇以外も食しますよ。……時間ですか?」
「ああ、準備は出来ているか?」
ロイは立ち上がると、頷く。
「ええ、いつでも大丈夫ですよ」




