傾奇
【la nuit 03 新月にはtarteletteを並べて】
新月の夜はあっという間に来た。ロイは自室の角に無造作に置かれたソファから体を起こし身支度を始める。満月の集会の夜から今日までほとんど眠って過ごしたせいか体はいつもより重く感じ、ぎしりと骨が軋んだ。
数回骨を鳴らすと軽い音が聞こえる。
ゆっくりとした動作でマントを着込み、階段を下りると広いリビングの机にはキャンディが書いた書置きがあった。
――おはよう、僕は実家から直接集会所に向かうよ。それじゃ向こうで。 キャンディより
細く、美しい文字で走るように綴ってあり、少しこぼしたインクから忙しい日々を送っていることが想像できた。
キャンディは人間のペースに合わせて仕事をしなければならない。毎日忙しく働く彼を見ていると少し心配になった。
ロイ自身にもBlood ROSEとは違う仕事がある。それは吸血鬼の歴史図書館の管理人だ。
元々ルヴィーダン家の管理している図書館でロイは跡を継いだのだ。
だが、仕事相手は吸血鬼なので、図書館の解放日は比較的少ないのため自分のペースで仕事ができるし、何より飢餓状態にある吸血鬼たちが図書館を利用することはかなり稀だ。
現在は一か月のうちに1週間ほどしか解放日を設けていない。
今日は前回の満月との日とは違い、ゆっくりと森を歩くことができる。 梟の鳴き声や、コウモリの羽ばたく音が月明かりのない森を彩った。
前回の集会の日と比べて秋は深まり……否、もう秋とは言えないだろう。森の木々にはナイフの様に鋭いつららが、ロイの姿を鏡の様に映していた。
集会所へのドアを開けると後方のバーにはバーテンダーのジャックとキャンディ、そしてもう一人紅梅色の髪をした少年が座っていた。
ロイに気が付いたジャックが恭しく頭を下げ、キャンディが手を挙げる。
「ロイ、おはよう。今日は商談が思ったより早く終わったんだ。一番かと思ったんだけど、ケイがもう来ていたの」
ケイと呼ばれた少年が振り返った。
身長は小さく、幼い顔立ちは整っている。ミステリアスな雰囲気は、彼が吸血鬼の中で唯一東国の出身だからだろう。
他の団員は西国や南国の出身で彫深い顔立ちの者ばかりだが、ケイだけは人間だった頃の人種が違うので雰囲気がほかの吸血鬼にはない魅力がある。
切れ長の瞳と小さな口は美しい女性、と言っても分からないくらいだ。
人形のような端正な顔立ちの彼は脚の高い椅子から降りた。
「久しいな、ロイ」
その声は想像以上に低く、芯のあるテノールボイスだった。固く握手を交わす。
ケイはBlood ROSEの幹部で、もう一人の副団長であるダレスの相棒だ。今日は幹部の集会なのだが相棒の姿はどこにもなかった。
「ケイ、お久しぶりです。ダレスは一緒じゃないんですか?」
ダレス、と聞いただけでケイの眉間には深い皺が刻まれた。これではせっかくの美貌が台無しだ。
「奴は遅刻してくる。ここに来る途中に骨董品店に立ち寄ったのが間違いだった」
小さな口の口角は下がっている。少年のような顔には似つかない低い声で悪態をついた。
ダレスはアンティークや骨董品の類が大好きで気に入ったものはすべて購入するのだ。置く場所がない、という文句をケイの口から何十回も聞いていた。
「まあ、そのうち来るでしょう。彼は大切なときは必ず来ますから」
ロイは眉を下げて笑った。
「そうさ、俺がこんな大切な日に遅刻なんてするわけがないだろう?」
一瞬部屋内が涼しくなりヒュッと風を切る音が聞こえた。
こんな意表を突いた登場する人物は一人しかいない。
バーの横の扉には、紫の癖の強い長髪の男が立っていた。
彼がBlood ROSE副団長のダレス・サヴァランだ。
風と共に出現したのは魔法なんかではない。
よく吸血鬼が子供の頃に遊ぶ風玉という玩具だ。気配を消して風玉を投げると一瞬姿が眩み、風と共に登場したかのように見えるのだ。
そんな悪戯好きの彼はケイとは違いかなりの長身で、葡萄色の髪を一本に結っている。
美しい彫刻のような顔貌。だが結っているリボンはどう見ても女性用のリボンでレースが付け過ぎではないかと感じる派手なシャツを着こなしている。こんなに奇抜な服を着こなせるのは吸血鬼界ではダレスしかいないだろう。
彼はBlood ROSE一番の変わり者だとロイは断言できる。幼少期からの仲だが、彼はいつも突飛なことを言いだし、そしてそれを完璧にこなす。不思議な魅力のある人物だ。
ダレスは大股で歩き、カウンターの端に座った。
「ダレス、お変りはなさそうですね」
「ああ、勿論。寒いのは相変わらず嫌いだがね。お前さんの方は少し痩せたかい?」
ダレスはわざとらしく片眉をあげてみせる。
「ええ、今流行の血抜きダイエットですかね」
ロイもわざとらしく手を挙げて見せた。ダレスはそりゃあいいや、と豪快に笑った。
「ダレスおじさん、久しぶり!」
「おお、キャンディ。見ないうちにまた逞しくなったなぁ」
ダレスはキャンディの頭をくしゃくしゃと撫でた。キャンディはくすぐったそうにもう子供じゃあないんだからと口を尖らせた。
二人は遠縁らしく、実の兄弟のように親しく接しているのをロイは微笑ましく思った。
「それで、ダレス? まさか何か買ったりはしなかっただろうな?」
ケイがジロリとダレスを横目で見た。ダレスの買い物のせいで遅刻しそうになったのが許せないのだろう。ケイはかなり几帳面な性格なのだ。
「あ、あー……うん、勿論さ。あんな短時間で決められるわけないだろう?」
それを聞いてケイは深くため息を吐いた。この様子だと何点かは商品を取り置きしているのだろう。
「まあまあ、いいじゃないですか。ね、ケイ。とりあえずジャックに飲み物を頼みましょう」
ロイがケイを宥める。ダレスはいつの間にか会わない間に行った国々の思い出話をキャンディに語り始めていた。
ロイが手を挙げるとボトルを整理していたジャックが寄ってきた。
なにか適当なものを、と頼むとジャックは一礼してワインセラーのほうに消えていった。
しばらくすると大きなビンをかかえて戻ってきた。目の前で栓を開け華奢なグラスに注ぐと飾り切りされたオレンジを添える。
透き通った薄い緑の液体の入ったグラスを二人分、ケイとロイの前に置いた。
「上質な白ワインが入ったので。白薔薇のリキュールを少し混ぜてみました」
「いただきます」
すこし辛みの強いワインに白薔薇のまろやかさが舌を滑る。
ケイも口に含むと満足そうに口の端を上げた。
「お、いいもの飲んでるねぇ。ジャック。おじさんにも作ってよ」
「あ、僕も僕も!」
旅の土産話を中断してダレスとキャンディが身を乗り出す。飲食のことになると好奇心旺盛な彼らがこちらを向くのだ。
ジャックはかしこまりました、と同じグラスを取り出した。
tartelette=ひとり用の小型タルト




