97・関係が最初に戻るだけ
「──私と二人きりの時は、記憶が戻ったふりをしなくてもいいんですよ」
言ってから、後悔する。
こんなことをしても、レオンを悩ませるだけなのに──と。
「なんのことだ……?」
レオンが一瞬肩をびくつかせ、足を止めた。
表面上はいつもと変わっていないが、私にはレオンが精一杯に平然を取り繕っているようにも見えた。
「マカロン……本当に、私だけが食べたのでしょうか?」
「当然だ。無論、付き合いが長いアレクやゴードンも食べたことはあるが……特段、言う必要もないだろう。君のために俺が選び──」
「いいえ。それ以外、あのマカロンを食べた人がいらっしゃったはずです」
これは、後から聞いた話だ。
私がレオンとの縁談話に臨む前──彼はコリンナと会っていたことを。
どうやら、お父様が私ではなく、最初にコリンナをレオンの元に向かわせていたらしい。だが、レオンに断られ、コリンナはすぐに屋敷を後にした。
その時、コリンナはあのマカロンを食べていたらしい。
……もっとも、甘ったるい味がコリンナの舌に合わず、苦そうに食べていたみたい。
彼女らしい行動だ。
「……いたかもしれないな。しかし、今はさほど重要ではないだろう? 一人二人、言い忘れていたとして、それがなんになる?」
「それだけなら、私もそう思うでしょうね。ですが──そうではありません」
私がお風呂に入ろうとした前だって、そうだ。
レオンは護衛のために、私と浴室に入ろうとした。
彼は私に関することなら過保護になる部分もあったので、一見おかしくないが……問題は次の台詞。
『ん? 俺たちは、そういう関係だろう? 今更な話の気もするが……』
あの時、レオンはそう言った。
おそらく、記憶が戻る前は、私と体の関係があったのだろうと考えたのだろう。だからこそ、彼はなにげなくその言葉を口にした。
「そして、極め付けが──」
私はこう続ける。
「あなたは記憶を失ってから、一度も私のことを『フィーネ』と呼んでくださっていませんよね。それが決定的な理由です」
「……っ!」
レオンがハッとする。
結婚生活を始めた当初も、レオンは同じように私を『君』とか『彼女』としか呼んでくれなかった。
名前で呼ぶと、嫌がられると考えていたらしい。
不器用なレオンらしい一面だと思ったけど……関係が進むにつれ、レオンは抵抗なく私を名前で呼んでくれるようになった。
私が『レオン様』ではなく、『レオン』と呼ぶようになった時と同じように。
「それは……」
「言いたくなければ、いいんです。ですが……出来れば私は、あなたから本当のことを聞きたい。ねえ、レオン──今のあなたは、記憶が戻ったふりをしているんですよね?」
そう問いかけると、レオンは口を半開きにしたまま固まる。
しかし、やがて──。
「……ゴードンの軽口を、信じたのが間違いだったな」
と諦めたように溜め息を吐いた。
「ゴードン様の軽口?」
「ヤツは以前、俺が君を『毎晩抱いている』と言っていただろう? 毎晩かはともかく……俺たちは夫婦関係だ。公爵として後継も待望されているし、そういう関係にあってもおかしくないと考えたんだ」
先ほどからの狼狽とは一転、レオンは決心がついたように澱みない口調で──。
「君の言った通りだ。俺の記憶は──戻っていない。君に関する記憶が、ぽっかりと抜け落ちたままだ」
「やっぱり……」
分かっていたことだけど、レオンの口からあらためて聞かされて落胆が大きくなる。
「どうして、記憶が戻ったふりを?」
「記憶を治すために今まで、手を尽くしてきた。だからこそ、今回が最後の頼みの綱だったんだ。しかし……それもアテが外れてしまった。もう記憶が戻らない可能性を考えたんだ」
レオンは辛そうに口を動かす。
「そして一番の理由は君だ」
「私?」
「ああ。俺のために手を尽くす君を見て、もう負担はかけられないと思った。そして、危険にも巻き込んでしまった。記憶が戻らなくとも、せめて戻ったふりを──そうすれば、君がもう苦しまないと思った。今回の一件は、その良いタイミングだったんだ」
私は別に、負担とは思っていなかったのに──。
レオンが優しすぎたために、彼に嘘を吐かせてしまった。
それは優しい嘘だったのだろう。
「負担なんて、いくらでもかけてくださいよ。私たちは夫婦なんですよ? それとも……」
私は心の奥底で恐れ、今まで問いかけられなかった言葉を口にする。
「あなたは私に愛を感じていないのでしょうか? あくまで夫婦関係は形だけ。こうしているのはただの義務で、悩みを相談したり共有することはない……と」
「いや、違──」
レオンはすぐに答えようとするが、すぐに口を閉じる。
そして私の言葉を噛み砕き、必死に答えを出そうとしていた。
やがて。
「……建前で言っても、また君を苦しませてしまうだけになりそうだな」
真剣な表情で。
「大切にしたい、守りたい──という気持ちはある。だが、これは夫としての義務感のようなものだ。記憶を失っている今の俺では、君のことを愛しているのかは分からない」
彼からの答えを聞き、私の中で決定的になにかがなくなっていく感覚を抱く。
そっか……レオンは私のことを──。
俯いていたら自分が自分じゃなくなってしまいそうなので、顔を上げて、私は精一杯に笑顔を作る。
「私、嬉しいです。レオンから本音が聞けて」
ここでレオンは、嘘でも『私のことを愛している』と言うことが出来た。
しかし、彼の真摯な性格がそれを許さなかった。
だからレオンはたとえ私に嫌われることになっても、自分の感情を正直に伝えてくれた。
きっとここで本心じゃないことを伝えられたら、私の感情はもう戻ってこられないところまで遠くに行ってしまったかもしれない。
だからレオンが正直に言ってくれて、なによりも嬉しかった。
「大丈夫ですよ。私たちの結婚は元々、契約結婚でしたから」
──この結婚に『愛』はない。
妹の代わりにレオンに嫁ぐことになって、彼は私の治癒魔法の腕に期待しているものだと思っていた。
愛がなくても構わない。
それでも、私はレオンの力になろうと思った。
「あなたが辛い思いをするのは、もう耐えられません。だから、契約結婚に戻ったと考えれば、いいじゃないですか。ただの契約結婚だと思い込んでいる時も、私はとても幸せでしたから」
嘘みたいにすらすらと言葉が出てくる。
「これでも、実家にいる頃と比べると、信じられないくらい恵まれています。記憶がなくなっても、別にレオンがいなくなるわけではありません。なにも悪いことはありません」
「君がそう言ってくれると、助かる。だが、それならば……」
レオンは悲しそうな顔をして言う。
「どうして君は泣いているんだ?」
「え──」
そこで初めて、自分の頬に手を当てる。
瞳から涙が零れ、頬を伝って下に流れ落ちていた。
「──っ!」
こうなってからは、もう自制が効かない。
──私は、いけない子になってしまった。
レオンの傍にいられればいい。
それ以上のことは求めないつもりだった。
だけど、私の心は幸せを知り──贅沢になってしまった。
レオンの傍にいるだけではなく、彼から愛されたいと願ってしまった。
「あれ、おかしいですね。なんで、こんなことに? 悲しいことなんて、別にないはず──っ」
「すまない……」
そう呟いて、レオンは両腕で私の背中を優しく包んでくれる。
しかし、やっぱり名前を呼んでくれないし、『愛してる』という言葉も出てこない。
レオンの胸に顔を預けていると、彼の温かい鼓動が聞こえてくる。
だけど、悲しい気持ちは消えない。こうしていても、レオンと繋がった気はしなかった。
──ずっと、このままなのだろうか。
私を力一杯抱きしめてくれることも、口づけを交わして愛を感じることも──この先、ないのだろうか。
今まで押し留めていた感情が、とめどなく流れていく。
ドッ──ドッ──。
その時。
お腹に響くような重低音の声が聞こえ、顔を上げる。
「なんだ?」
その異様な雰囲気に、レオンも私を抱いたまま、同じ方向を見る。
音は徐々に大きくなっていく。
まるでなにかが近付いていくような。
邪悪な魔力の高まりも感じ取れ──。
「あぁ……」
思わず、声を漏らしてしまう。
夜空からは星が消え、闇の底が顔を出す。
リファリオンの中央──。
漆黒の巨大な竜が、この地に顕現したのだ。




