39.8年前の10月31日
8年前の10月31日。
あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。
春さんからの電話を受けて、一目散に家に帰った。
そしてラッピングされた大きな袋を片手に、とにかく急いでバス停まで向かったんだ。
あの時の俺は、本当に早く花に会いたかった。
それに、
俺が行けば、もしかしたら花は何かしらの反応してくれるんじゃないか?
試合の事言ったら、笑顔を浮かばせてくれるんじゃないか?
プレゼントを渡したら、喜んでくれるんじゃないか?
なんて変な自信に溢れていたんだ。
言葉では理解していたけど、頭の中では春さんの言ってた今の花の姿はボンヤリとしていたから。
こうして、病院へ着いた俺は迷うことなく春さんに聞いた病室に向かった。
中に花が居る。
分かっていたけど、それを確かめる踏ん切りがなかなかつかない。
ただ、そうなのかどうかは会って、見て……目の当たりにしなければ何とも言えない。
俺は何度か深呼吸をした後……ついに意を決して、手に力を込める。
そして、ゆっくりとそのドアを開けて行った。
……ここからは、悔やんでも悔やみ切れない。なんで春さんを待たなかったのかって。
その先に広がっていたのは綺麗な病室。
大きな窓に、手前にはシャワー室も設けられていた。その奥にはベッドが置かれている。少しだけ膨らみが見えて、花がそこに居るのは間違いなかった。
俺はゆっくりと近付いて行く。
そして、ついにその視界に……花を捉えた。
ベッドの上、そこに……花は居た。
上半身を起き上がらせて……そこに居た。
けど、その雰囲気は……まるで違う。
俺の知っている花じゃない。
その長い髪は健在だった。
けどその頬は少し痩せて、その目は……虚ろ。
まるで別人のような花を目の前に……なかなか声が出なかった。それ以上前に進めなかった。
そんな時、ゆっくりと花が俺の方を向いた。
目が合った瞬間、思わず慌てるように声が零れる。
「よっ、よう花! 元気か?」
いつもの花なら、一瞬驚いた表情を浮かばせた後、優しく微笑むはずだ。俺は心のどこかでそれを願った。それを望んだ。
けど、それは……叶わなかった。
全てが夢であって欲しい。そう強く……願った。
「あの……どちら様でしょう?」
その一言は……胸に風穴を開ける。
全身に伝う悪寒と、けたたましく鳴り響く鼓動。
呼吸も上手く出来なかった。
そして何より、目の前の花がこんな事を言ったという事実を……受け入れられる事が出来なかった。
受け入れられる訳がなかった。
つい数週間前まで仲良く話をしていたのに、一緒に出掛けていたのに、まさか……まさか……
自分の事を忘れているなんて。
嘘だと言って欲しかった。
冗談だよって言って欲しかった。
だから……必死だったんだ。
固く動かない口を無理矢理こじ開けて、震える声を絞り出す。
「なっ、何言ってんだよ。冗談は止めろって」
でも目の前の花は、虚ろな目で只々じっと……じっと俺の目を見つめたままだった。
その姿は、とても嘘を付いているモノじゃない。
冗談で装っているモノじゃない。
いつもとは違う雰囲気に足が震えた。
それでも、認めたくなくて……俺は焦るように持って来たプレゼントの袋を開けた。
(これを見てくれたら、何とかなるかもしれない。このテディベアさえ見てくれたら)
「なんだよその顔、つまんないぞ? それより見てくれよ! このテディ……」
そう言いながら、テディベアを袋から取り出そうとした俺は……もう1度花の顔を見た。
でも、待っていたのは……地獄。
見た事も無いような……怯えているような表情。
今にも泣き出しそうな表情。
そして、
「ほっ、本当にだっ、誰……ですか……かかっ、看護師さん……呼びます……よ」
その言葉が……引き金だった。
自分が書いた作品は……ある意味自分自身であり、ある意味理想とする自分だ。
その作中のように、全てを受け入れて花を支えようと決意出来ていたら……どれ程良かったんだろう。
そう思うのは当たり前だ。
本の中の葵日向は俺の……理想の姿そのものなのだから。
本の中の匙浜花は俺が……今願う姿そのものなのだから。
本の結末は……いわば自分の望むもの。
自分にとってはハッピーエンドそのものだった。
そう思うくらい、あの時の俺は……現実の俺は最悪だった。最低だった。
だって俺は……俺は……
花の言葉に居ても立ってもいられずに……逃げたんだから。
病院の中だっていうのもお構いなしに走った。
逃げたかった。花から離れたかった。
嘘だと思いたかった。
夢なら覚めて欲しいと思った。
そんな気持ちを繰り返しながら、ひたすら走って……病院を後にした。
そして、ただ逃げたい。その場を離れたい。
その本能のまま、土砂降りの中をひたすら歩いていた。長い長い下り坂を歩いていた……んだと思う。
正直、病院を出てからは記憶が曖昧だった。
その……大きなエンジン音に気が付くまでは。
徐々に大きくなる音。
そして横から差し込むまばゆい光。
目を細めながら横を向くと、目の前に大きなトラックが迫っていた。
その瞬間、自分が道路の真ん中に立って居た事には気付いたけど、体は言う事を聞かなかった。
(ヤバい轢かれる。ヤバイ……)
徐々に近付くトラック、動かない体。
(駄目だ……)
観念し、もう自分が助からない事を悟った俺はゆっくりと目を瞑った……その時だった。
誰かに押されるように……体が浮いた。
無意識に横に移動する体。
(えっ?)
何で自分の体が移動しているのか、その理由は分からなかった。
なぜなのか、その正体は? 必死に考えても想像も出来ない。
それに確認する事も出来なかった。
だって、目を開ける間もなく聞こえたのは。
けたたましいブレーキ音と、鈍い音。
そして辛うじてそれを認識した瞬間、頭に受けた事もない衝撃が走る。
それは瞬く間に体全体に響いて……目の前が真っ暗になった。
頭が割れるように痛かった。
体中が痛かった。
それでも……意識はあった。
でも何があったのかは分からない。想像もつかない。
力を振り絞って目を開けてみたけど、視界はぼやけてて……辺りを認識できるようになるのに少し時間が掛かった。
段々とハッキリしていく内に、目の前に停車しているトラックが見える。けど、それだけじゃない。
そのトラックの先に何か大きな物体があったんだから。
何度も瞬きをし、徐々に鮮明になる姿。
それが人だと認識出来るのに、そこまで時間は掛からなかった。
目に見えて分かる髪の毛、そして見覚えのある色合いの服。
そして長い髪の毛の隙間から覗かせる顔を見た瞬間、それが誰なのか……確信した。
(あぁ……助けないと……助けないと……)
その瞬間、頭の中はそれで一杯だ。
力を入れてもなかなか立てないから……四つん這いになってでも這いずった。
手が擦り切れようが、ズボンがどうなろうが関係ない。
とにかく早く行きたかった。そばに……行きたかった。
ピクりとも動かなくて怖かった。
綺麗な肌に付いている生々しい傷が……痛々しくて仕方がない。
入院着のまま、裸足。
雨に打たれて寒そうな姿に……心が締め付けられる。
ようやく辿り着いても、その目は閉じたまま。指も足も動かない。
それでも俺は……助けたかった。何とかしたかった。
「は……な……花……大丈夫か……花……花っ!」
思いっきり叫んだ。
とにかく大きな声で。
そして無意識の内にその冷たい手を握っていた。
反応して欲しかった。どんな些細な事でも良い。
生きている証が欲しかった。感じたかった。
「花っ!」
すると……少しだけ花の手が動いた気がした。
その感触に、俺はもう1度花に問い掛ける。
「花? しっかりしろ花」
その声に気付いたのかは分からない。ただ、確かに……その瞼が開いていくのが分かった。
「花……」
ゆっくりと、けど確かに見開いていく瞼。そして……その視線は確かに自分へと向けられた。
嬉しかった。
安心した。
それを口にしようとした時だった、花の唇がかすかに動く。
「……めん……ね……た』
「ダメだ花。無理して話すな……」
「ごめん……ね……」
「ダメだって。無理……」
「ひ……な……た……」
それが俺が最後に聞いた……花の声だった。
次話で最終話になります!




