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天河に秘めたる ~奏琶国烈女伝~  作者: 五十鈴 りく
第2部

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34◇詫びれば

 展可が借りた武真兵の着替えは大きく、袖も裾も折らなければならなかったが、帰るまでのことだから動けさえすればいい。

 黎基の申し出を断った後なので気まずいが、展可は護衛でもあるのだから、そばから離れるつもりはなかった。


 馬上からチラリと黎基を見遣ると、完璧に整った横顔が目に入る。陽に透けた長い髪がサラリと風に揺れ、それだけでため息が零れそうなほど綺麗だ。

 あんな人から妃にと望まれるなんて、そんなことが本当に起こり得るのだから、人生はわからない。


 もし、過去のすべてをなかったことにして、ただの里娘として出会っていたのなら、恐れ多くとも受け入れたかもしれない。

 けれど、事実として、二人の間にあるものはなくならないのだから、『もし』なんて考えるだけ虚しい。


 展可は一度だけ軽く目を閉じ、あまり深刻に考えないようにした。



 ダムディン王はヤバル砦へ戻るなり、バトゥの首級を掲げた。砦の守備についていた兵たちが歓喜の雄叫びを上げる。

 これで国の平定に大きく近づいたのだ。残すところ、脅威は少ない。


 ダムディン王は首級を腹心のオクタイに預けると、それから黎基の方へやってきた。しかし、実のところ用があったのは展可にだ。


「あの男は牢にいる。バトゥを討った今、俺は一度王都へ帰還するつもりだ。あの男は連れていかない。ここで処断する。早めに会いに行け」


 それを聞き、展可が体を強張らせたのを黎基は見逃さなかった。目が何かを問いかけていて、展可はとてもそちらを向けなかった。

 一方的にそれだけ言うと、ダムディン王は去っていった。


 展可は気まずくなってうつむく。黎基と、郭将軍もいる場で自分の浅ましさが露見してしまったような気分だった。

 騒がしく兵たちが動き回る中、黎基がポツリと言う。


「本当に会いに行くのか?」


 そのひと言を非難のように受け止めてしまうのは、展可が疚しく思うからだろうか。


 会ってもいいことはない。瓶董は多分、変わらない。

 わかっているくせに、会おうと思う。

 最後なのだ。これ以上、あの男の印象が悪くなることはない。


「はい。行ってきます」


 きっぱりと言う。これについて黎基はがっかりするだろうかと思ったが、意外なことを口にした。


「では、私も行こう」

「えっ?」


 これには、郭将軍もいい顔はしなかった。


「殿下……」


 しかし、黎基は郭将軍を目で黙らせる。


「心配するな、何もない。気になるならお前も来ればいい」

「はっ……」


 黎基ばかりか郭将軍までついてくる。これは、黎基が展可の抑止力になるつもりだからだろう。展可が逆上しないように、冷静になれるようについてくるのだ。


 展可はこの時になってもまだ、瓶董に言うべき言葉を考えあぐねていた。



 牢へ辿り着くまでの間、誰も口を利かなかった。

 薄暗い、この世の終わりほどには陰気な場所に、家畜の小屋のような臭いが立ち込める。

 最初、牢の囚人は体の大きな郭将軍にだけ目を留め、足をばたつかせた。


「お、お助けくださいっ!」


 この声は間違いなく瓶董だ。しかし、怯えが声をかすれさせている。あの居丈高だった男が口にしているとは思えないような情けない言葉が次々に溢れ出た。


「私は、殿下のお役に立ちたかったのです! 忠節に対し、この仕打ちはあんまりで――」

「黙れ」


 展可は、自分でも驚くほど冷たく言い放った。

 そこに黎基がいるというのに、止められない。怒りが体の感覚を狂わせ、指先が震える。


 展可の怒りを、瓶董はどう感じたのか。一度驚きに目を見張ったものの、その目の奥には依然と変わりない蔑視の色がある。


「よくも自分のことばかり言えたものだ。亡くなった人たちに対して詫びる気はないのか?」


 声を震わせながらそれを言うと、瓶董は顔をくしゃりと歪めた。それは泣き顔にも見え、そうした顔をするからには少しばかりの悔恨もあるのかと――。


「詫びれば許してもらえるのか?」

「なんだと……?」

「詫びれば気が済むのか? ここから出られるのか? 詫びれば、死んだ者は生き返るか? それなら詫びよう」


 悔いているのは、自分がこんな目に遭ったから。

 そのせいで人が死んだからではない。そのせいで自分が死ぬからだ。


 どこまでも、この男の世界は展可と交わらない。

 瓶董の世界では、瓶董が王なのだ。


 それを覚った時、展可の中ですとん、と憎しみが削げ落ちたような気分になった。何故、この男をあれほど憎いと思ったのだかもわからない。

 この男は、人として扱うには足らないのだ。


「……二度と会うことはないが、最後にひとつだけ言わせてもらおう。お前のことなど金輪際思い出さない。覚えておくほどの価値もないことがよくわかった」


 この手で師父の仇を討ちたいなどとはもう思わない。そんな値打ちすらないのだ。勝手に、異国の地に埋もれたらいい。


 展可が放った言葉に、瓶董は獣のように吠えた。あまりに感情的でひとつひとつが聞き取れないほどだった。唾を飛ばし、荒れ狂うけれど、恐れるところはなにもない。展可は目を伏せてきびすを返した。


 さっさと牢から出ていく展可に、黎基が後ろから言った。


「それでいい。忘れてしまえばいいのだ」


 憎しみを抱えて生きるのはつらい。

 ずっと心の中にその相手を住まわせるのだから。

 展可はもう、心に瓶董の居場所など作らない。だから、平気だ。


 ――けれど、黎基はどうなのだろう。誰かを恨んではいないのだろうか。

 その中に父がいないことを祈りたかった。

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